令和5年5月28日(日)、「小田村庄屋長島尉信と遠来の友」と題して、当会事務局長の仲田昭一が講演しました。
長島尉信は、庄屋引退後に学んだ農政学(測量・暦学など)を活かして水戸藩や土浦藩両藩に仕えました。
その間に交流した友人は全国にわたっていますが、その友人たちもまたお互いに交流を深めていきました。
尉信は、遠来の友として仙台の小野寺鳳谷、関宿の船橋随庵、久留米の村上量弘を挙げています。
近隣の友としては筑波山麓の佐久良東雄、土浦の色川三中との2人を挙げ、互いに「義兄弟の契り」をしたと表現し、その交流の親密さを示しています。
そのような意味から、長島尉信はネットワーカー的存在であったといえると思われます。この講演では、その中の代表的人物を紹介しました。
遠来の友<仙台の小野寺鳳谷、関宿の船橋随庵、久留米の村上量弘 >
小野寺鳳谷
小野寺鳳谷は.前回のブログでも紹介したように長島尉信の肖像を二度にわたって描くほど昵懇の中でした。
一つは、水戸藩の追鳥狩に参加した時のもので、他の一つは、蔵書を後ろに机に座してのものです。
この小野寺鳳谷は、仙台郊外の松山藩内木間塚村(鹿島台町)字竹谷の農家に生まれで、鳳谷は号です。
仙台藩の儒員に抜擢され、藩校養賢堂の教官となり、当時の藩校の混迷に対しての時務策にも心をそそぎ、産業の振興、特に海防や治世の学を探究しています。そのかたわら詩文や絵画を能くし、地図を描けばその精密さは抜きん出ていたといわれました。
小野寺鳳谷は、仙台藩医師福井道元宅で、尉信が道元へ送った手紙を見て尉信のことを知ったとされています。鳳谷は、天保6年(1835)6月、筑波山探勝にでかけ、帰途小田村に尉信を訪ねます。ここで尉信は、鳳谷所持の念願の「玉造遊記」を筆写し、鳳谷は尉信が所蔵する蒲生君平の「今書」(「当今の一奇書なり」と感嘆)を閲覧し互いに満足・感嘆しています。また鳳谷は、尉信を評して「性質卓犖、不覇の士なり、余の資あれば必ず書籍を購う」と称えています。
船橋随庵
船橋随庵は、寛政7年(1795)関宿藩(千葉県)に生まれました。随庵はその号です。明治28年(1895)に「船橋随庵先生水土功績之碑」が建てられています。関宿藩は、利根川と江戸川の分岐点に位置しているため、しばしば洪水に悩まされていました。嘉永元年(1848)10月、藩主久世広周が西の丸老中に転じた機会に、幕府に申請して治水事業を起こしましたが、用人随庵はこれに従事していわゆる「関宿用水」を完成させるなど大きな功績を残しています。
随庵の治水に関する学問は、長島尉信に学ぶところが大きかったようです。はじめ随庵は、藩の治水事業を積極的に推進しますが、なかなか領民に理解されず困惑。たまたま、土浦の長島尉信の噂を聞き尉信の門をたたいたのでした。随庵は後年、尉信の生涯をまとめて『長島尉信の記』を著し、その中で尉信の筆力「一日一万字」と称えています。
村上量弘
村上量弘は、文化7年(1810)久留米に生まれ、名を量弘といいます。家は、代々久留米藩に仕え、量弘は十一歳で藩校明善堂の助教となるほどの力を持っていました。天保13年(1842)4月に水戸に入り、翌14年3月まで会沢正志斎の塾に学びます。この間の見聞録が『水戸見聞録』で、他藩人の水戸見聞録としては最も優れたものです。この中に「土地方御正しの事」として水戸藩の検地について記しているが、特に長島尉信について、検地について、「その跡、皆前人未発のところなり」と称えています。
量弘は、尉信が水戸を去るにあたって「長島翁の土浦へ帰るを送るの序」を記し「田制において、その一・二を知るを得るは、皆翁の賜物なり」と感謝しています。これをもっても、尉信と村上量弘の関係を知ることができます。
義兄弟の契り<色川三中と佐久良東雄>
色川三中
尉信は、天保4年(1833)に色川三中と義兄弟の契りを結んでいます。 三中の父が今川家から色川家に養子に入りますが、色川家は醤油醸造を営み、その家業も栄えていました。三中は、その経済力を活用して.図書の収集筆写につとめ、敬神尊王の考えを深めていきます。
また、長島尉信は水戸藩の彰考館及びその史館員から借用・書写してきたものを快く、三中に提供しています。これが三中の古文書の書写・収集を促進することになります。特に尉信から借写した『香取文書』の影響が大きかったといわれています。
佐久良東雄
佐久良束雄は、文化8年(1811)新治郡浦須村(石岡市)に生まれました。東雄は、9歳で下林村観音寺に入り、住職康哉(「万葉法師」の別名もある)の弟子となり、この学統を受け、歌人としての力と純粋な精神を養うことになります。師康哉が死去した後、東雄は、長島尉信を頼ることでこの心的破綻を免れることになります。
天保6年(1835)12月、東雄は真鍋の善応寺に移りますが、同11年11月19日に光格天皇の崩御があり、 12月20日に大葬が行なわたこのころ、東雄が、色川三中の勧めもあって還俗の意志を固めていたようです。天保14年、5月下旬、常陸式内社めぐりに出立するにあたって、名を佐久良靱負と改めています。
嘉永2年(1849)、東雄は大坂坐摩宮の祝部となり、和学・歌道の指導をするとともに出版事業も推進し、平田篤胤の『出定笑語』などを出版しています。安政六年(一八五九)春、長島尉信に「たのもしきもの」として
ひたすらに かみにいのりてきみにつかへ おやにつかふる ひとのありさま
と詠み送っています。尉信と違って、ひたすらに尊王運動に邁進している姿を見ることができます。
郷里に残っていた尉信は、天保14年に東雄が残していった『万葉集和歌抄』を大事に保存し、同じ義兄弟であった色川三中の弟美年がそれに読み仮名をふっています。所を異にしても.互いに思いやっている姿をここに見ることができます。
この他に、伊勢の北方探検家松浦武四郎、城里町孫根の尊王運動家加藤木賞三、笠間の加藤桜老、兵庫県但馬の漢学者石田碩一郎らがいます。
全国の勇士と交流する長島尉信の意気盛んな姿を想像することができます。