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ヴァイマル憲法とヒトラー独裁政権

2016年06月20日 | 集会報告
6月17日(水)夕方、参議院議員会館で石田勇治・東京大学教授の「なぜ文明国ドイツにヒトラー独裁政権が誕生したのか?」という特別講演を聞いた(主催 村山首相談話を継承し発展させる会)。
最も民主主義的といわれたヴァイマル憲法下で、なぜナチが合法的に政権をとり、憲法は敗戦まで維持されたはずなのに政治犯の逮捕、ユダヤ人ジェノサイト、侵略戦争が起こったのか。わたくしも知らなかった。
また3年前の2013年7月に麻生太郎副首相(当時)がナチス政権を引き合いに「あの手口を学んだらどうか」と発言し、大きな問題になったことも思い出す。
石田さんは1957年生まれ、東京外国語大学卒業、マールブルク大学でPh.D取得、現在、東京大学大学院総合文化研究科(地域文化研究専攻)教授である(プロフィールは講談社・現代新書「ヒトラーとナチ・ドイツ」より)。ベルリン工科大学客員研究員やハレ大学客員教授も務めた。

なぜ文明国ドイツにヒトラー独裁政権が誕生したのか?
              石田勇治・東京大学教授
1 ヒトラーは選挙(民意)で首相になったのか?
ヒトラーは1933年1月30日に首相になった。この日付はぜひ記憶に留めておいていただきたい。ヒトラーは選挙で首相になったと思われているが、それは半面に過ぎない。
32年11月の選挙でナチ党は得票率33.1%(有権者の26%)を獲得したに過ぎず、前回(32年7月)の選挙と比べ、得票は200万票減らし下降局面にありナチは没落するとすら思われた。そうした中で首相に就任したが、単独政権ではなく保守政党との連立で、合わせても議席の41.9%、すなわち少数派政権だった。11閣僚のうちナチ党の閣僚は、ヒトラー、フリック、ゲーリングの3人だけだった。ヒトラーは大統領大権に依拠して成立した「大統領内閣」だった。しかしこうした状況はヒトラー以前の3代の首相(ブリューニング、パーペン、シュライヒャー)も同じように少数派政権だった。

2 大統領内閣とは何か
大統領は直接選挙で選ばれるが、首相は日本と同じく間接選挙で選ばれる。当時の大統領は第一次大戦の英雄、旧ドイツ帝国陸軍元帥のヒンデンブルクで、キングメーカーである。初めはヒトラーを「ボヘミアの一兵卒」と見下していた。
大統領内閣という言葉はヴァイマル共和国憲法に書かれてはいない。しかし、1 首相と閣僚の任免権、2 国会の解散権、3 国家緊急権(緊急令)の3つを組み合わせると大きな権力となる。
ヴァイマル憲法は基本的には議院内閣制だが、一方大統領にも大きな権限を与えた。というのは第一次大戦敗戦まではドイツはカイザーが君臨するドイツ帝国だった。普選はあったが議会の力は弱く、いざというときは皇帝が力を発揮した。それで大統領は「代替皇帝」とも呼ばれた。
ヒンデンブルクは、1930年にミュラー政権(社民党)が倒れたあと、もはや議会に多数派形成の力はないと判断し、それを利用し大統領緊急令を通じた統治を実行し始めた。以降、議会政治の空洞化が少しずつ進んだ。
緊急令(ヴァイマル憲法48条)は、「大統領は(緊急の場合)公共の安全および秩序を回復させるために必要な措置をとることができ、必要な場合には武装兵力を用いて介入できる。この目的のため、大統領は一時的に、人身の自由、意見表明の自由、集会の権利、結社の権利など憲法の7つの基本権の全部または一部を停止することができる」など5項目から成る。「これらの措置は共和国議会の要求があれば失効する」ことになっており、つまり議会と緊急令は対等(対重)ということになる。「詳細は共和国の法律で定める」ことになっていたが、ついに第二次大戦敗戦まで定められることはなかった。
緊急令を、大統領を動かし発令すれば、首相は国会から独立して国政を運営できることになる。非常時には大統領が特別立法者になるが、ナチの時代にものをいうことになった。1930年7月17日ブリューニング首相は財政再建案が国会で否決されたとき、大統領を動かし緊急令として公布した。すると野党は廃止法案を提出し、国会で可決したが大統領は国会を解散し、いったん廃止された再建案を再公布した。こうした手法に反政府世論は沸騰し、この選挙(30年9月)でナチ党が第二政党、共産党が第三政党に躍進した。

3 ヒトラーの「政権掌握」?
政府の政策はどれも暗礁に乗り上げ、ますます緊急令に依存し、法律に代わり緊急令が公布され続けることになった。
すると政策は、大統領周辺の官僚や専門家がつくるので、新たな権力空間が生まれた
1932年7月パーペン政権下の選挙で、ナチ党は第一党になったが、共産党も伸長し2党で国会の過半数の議席を占めることになった。この意味は大きい。両党ともにヴァイマール共和国打倒を目標とする「原理的反対派」だったからだ。このころ共産党はソ連の影響を強く受け、社民党を「ブルジョアと手を組み資本主義の延命に手を貸す」と敵視していた。
こうなるとまともな議会運営はできない。1932年9月にはゲーリングが議長だったくらいである。
貴族出身のパーペン首相は新国家体制を打ち出し国会を解散した。この新国家体制とは、議会制民主主義に代わり他の政体をめざすもので、制限選挙の導入、政党の禁止、身分制国家を掲げた。国会不要論により、街頭が政治闘争の場になり、内乱のような状況となった。
32年11月の選挙でナチは議席を減少させヒトラー人気に陰りがみえた。しかしナチ党と共産党で議席の過半数という状況は変わらず議会は動かないままだった。
ヒンデンブルクは軍人出身のシュライヒャーを首相に任命した。シュライヒャーはナチ分断を目論み、ナチ左派と労組、軍部による政権を模索したが、ヒトラーの逆鱗に触れ失敗した。
このころ財界にとって、脅威はナチではなく共産党だった。財界は32年11月、大統領にヒトラーを首相にするよう懇請した。また前首相パーペンは「ヒトラーを飼いならせる」と大統領にヒトラー首相策を進言した。ヒトラー政権は保守派とナチ党の同盟により成立したといえる。両者の共通の目標は、1議会制民主主義の終焉、2 共産党の弾圧、3 再軍備の実施である。何も決められない議会をなくし、「強いドイツ」により社会を活性化しようとした。
こうして33年1月30日、ヒトラーは首相に就任して国会を解散、3月5日に選挙が行われた。

4 議事堂炎上令(大統領緊急令)から授権法へ
ヒトラー政府は、少数政権ではあるが3つの飛び道具をもっていた。
ひとつは前政権と同じく大統領緊急令、次に街頭で政敵を威圧する突撃隊や親衛隊、3つ目は世論を味方につける大衆宣伝組織である。
突撃隊・親衛隊は党内組織にすぎないのに補助警察として使われ、暴力・殺人も行った。選挙戦では、さっそく緊急令を発令して言論統制し、自由な選挙は不可能になり、反対派拘束に突撃隊・親衛隊が乗り出した。
さらに2月27日の国会炎上事件を共産党の陰謀と断定し、緊急令により7つの基本的人権を当分停止して共産党の国会議員を逮捕し、反対派を収容所に拘束した。「当分」のはずだったのに結局1945年まで維持された。

5 授権法の成立
3月5日の選挙ではナチが圧勝し、3月23日授権法が成立した。ヒトラーがもっとも手に入れたかったものだ。これにより政府に全面的に立法権が与えられ、しかも2条で「その法律は憲法に反してもよい」とされた。これでヒトラーは国会や大統領から自由に法律を制定できることになった。しかもヒンデンブルクや国家人民党も支持した。
さてこの法律を制定するには議員の2/3の出席と出席議員の2/3の賛成が必要だった。共産党議員は全員逮捕されていたので、社民党は欠席戦術を取り定足数不足にしようとした。ところがナチは投票直前に議院運営規則を変更し、議長が認めない理由での欠席は登院を認めない、しかも欠席した者は「出席とみなす」と変更し、その結果授権法が成立した。
このクロル・オペラ座での国会決議の写真が残っているが、議場内にナチの制服を着た党員が何人も立つ異様な光景である。
授権法により、7月には新党設立禁止法が制定され、その他ユダヤ人を公職から追放する職業官吏再建法、遺伝病子孫予防法、国民投票法などナチのイデオロギーがやすやすと政策化されていった。
1930年には法律と緊急令を合わせて100本ほどだったが、1933年には法律が209本、緊急令が25本に激増した。財界の要望にこたえ決められる政治に転換したということだ。
ヒンデンブルクが亡くなる直前の34年8月大統領と首相の地位(権限)をあわせもつ総統という官職を法律で制定し、ヒトラーが就任し、国民投票で承認された。ヒトラーが首相に就任し半年で新党設立禁止法を制定、1年半後に総統になった。

6 ヒトラーに惹きつけられて
一般国民は当初授権法にもろ手をあげて賛成というわけではなかった。しかし3―4月にまず公務員が大量にナチ党員になり、権威あるヒンデンブルクも「輝かしい未来へと率いるリーダー」とヒトラーを称賛し、ハイデガーやカール・シュミットも党員になった。
一大プロパガンダで「洗脳」された国民は、当初は乱暴な手法に眉をひそめたが、「これは非常時だから多少の自由の制限も仕方がない拘束されたのはごく少数で自分には関係ない、国内のユダヤ人は1%もいないのだから自分たちに関係ない、こんな状態が長く続くはずがない」と考える人がどんどん増えていった。
そして宣伝相となったゲーリングは「民衆宰相ヒトラー」「平和主義者ヒトラー」と国民向けプロパガンダを展開した。

講演を聞きながら、いくつかのフレーズでここ数年の安倍政権のふるまいが頭に浮かんだ。
たとえば「野党は廃止法案を提出し」というところでは、今年2月野党5党が共同で「戦争法廃止法案」を提出したこと、「政策は、大統領周辺の官僚や専門家がつくる」は、「安保法制懇」をはじめ安倍の私的諮問機関戦後70年談話に関する有識者会議、各省出身の首相秘書官、さまざまなコンサルや評論家などが浮かんだ。
大統領緊急令や授権法では、もちろん安倍が改正したがっている憲法の「緊急事態条項が、そして「何も決められない議会をなくし、強いドイツを」に関しては3年くらい前に「決められない政治」「強い日本を取り戻す」というキャッチをよく耳にした。
プロパガンダや宣伝活動では、たとえば安倍の写真が15枚、14pに1点出てくる中学・公民教科書、「その法律は憲法に反してもよい」というところでは、憲法違反の戦争法が頭に浮かんだ。
5月16日の予算委員会で安倍は自分を「立法府の長」と発言し、あとで議事録を修正したが、案外、心底そうだと信じこんでいた可能性もある。さらに願望として「議会制民主主義の終焉」も心のなかにあるのかもしれない。
安倍や稲田政調会長はアベノミクスの成果として雇用の改善を強調する。ヒトラーも「失業問題の解消」を大いに宣伝した。しかし、講演のなかで、じつは勤労女性を家庭に戻し、共稼ぎ禁止令を制定し、再軍備により若者を徴用したことが大きいし、またアウトバーンももとはケルン市長だったアデナウアーが始めたことだと聞いた。アベノミクスの「雇用の改善」もひょっとすると何らかの統計のマジックがあるかもしれない。
80年前のドイツで起こったことが、まるでいま目の前でみている光景、デジャビュのように感じられた麻生財務相のいう「あの手口を」をすでに十分学び、実践しているのではなかろうか

3月に92歳になった村山富市・元首相は講演の感想を聞かれ、次のようなことを述べた。

ナチスの経過と最近の日本の動きを照らし合わせると何かにおう気がする。いまが一番危ない大事な時期だと思う。これに対し、自分たちが主人公だという意識をもって危ない道を阻止することが大事だ。だれかに頼るのでなく自分自身で判断して生きる。主権在民、わたしたちが主人公だ

☆昨年11月27日から3日間「戦争法の廃止を求め、侵略と植民地支配の歴史を直視しアジアに平和をつくる集い」という集会が開催され中国や韓国の戦争犠牲者を招待した。韓国の人はビザ不要なので入国できたが、中国の細菌戦被害者12人は外務省がビザ発給を拒否し入国できなかった。そこで今年3月24日、国を相手取り国家賠償請求訴訟が提訴された。
この日、原告である田中宏・一橋大学名誉教授と高嶋伸欣・琉球大学名誉教授から裁判支援のアピールがあり、浅野史生弁護士から説明があった。「ビザ発給拒否・集会妨害裁判を支援する会」の問合せ先はこちら
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