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日韓条約 50年 過去清算でつながろう!

2015年07月05日 | 集会報告
今年は日韓基本条約が締結され50年目の年に当たる。締結日は6月22日だがその2日前の6月20日(土)水道橋の在日本韓国YMCAスペースYで「日韓条約 50年 過去清算でつながろう!」が開催された(主催 日韓つながり直しキャンペーン2015 参加500人)。
日韓条約、なかでも「請求権協定」の「完全かつ最終的に解決された」という文言は、日本政府に対し植民地支配責任(戦時補償)を求め訴訟をおこした元軍人・軍属や元徴用工の韓国人に煮え湯を飲ませてきた。「条約という『暴力』」そのものだった。
シンポジウム「検証!日韓条約・請求権協定「1965年体制」はもう終わりだ」(進行 庵逧由香さん(立命館大学教授))から、太田修さんと金昌禄さんの部分を紹介する。

それでも「解決済み」論を批判する
      太田修さん(同志社大学グローバル・スタディーズ研究科教授)
日韓条約締結で国交が正常化され、往来する人は飛躍的に増えた。たとえば1965年に韓国から日本に入国した人は1万7000人に過ぎなかったが、いまや(2013年)272万人にも上る。では問題は何か。過去の植民地支配や戦争責任が覆い隠されたことだ。
日韓条約は基本条約と4つの協定から成るが、今日は財産請求権交渉と協定に的を絞る。
日本政府は「解決済み」と主張するが、そこには3つの問題点がある。
1 「財産」「請求権」という枠組
「財産」「請求権」はサンフランシスコ条約4条a項に規定される。4条a項とは「日本国及びその国民の財産で第二条に掲げる地域にあるもの並びに日本国及びその国民の請求権(債権を含む。)で現にこれらの地域の施政を行つている当局及びそこの住民(法人を含む。)に対するものの処理並びに日本国におけるこれらの当局及び住民の財産並びに日本国及びその国民に対するこれらの当局及び住民の請求権(債権を含む。)の処理は、日本国とこれらの当局との間の特別取極の主題とする」というものだ。日本は当初、相互放棄を主張し、4条a項にすら不満を持っていた。
「財産」「請求権」は、植民地支配の責任を問わない。連合国と日本がつくったものだからだ。日本政府の植民地支配正当論は3つの考え方から成ることが、新たに公開された日韓会談資料で鮮明になった。まず適法に植民地支配していたという「植民地支配正当・適法論」だ。次に植民地であったあいだ、日本は韓国によいことをしたという「施恵」論、「近代化」論だ。三番目は、朝鮮の独立は、解放されて独立したわけではなく、国際法上の「分離」にあたるというものだ。だからたんに領土分離の場合の財産の継承関係にならえばよいという主張になる。連合国(とくに旧植民地帝国)もこの考えを共有していた。この点では日本政府と共通・共犯関係にあった。
2 経済協力方式
過去の償いではなく、経済協力で処理するという考え方のこと。60年7月外務省北東アジア課の柳谷謙介が「対韓経済技術協力に関する予算措置について」というタイトルで書き、伊関佑二郎アジア局長が主導したのが始まりである。日韓会談文書のなかで最重要資料のひとつである。ただし筆写本やタイプ本はあるが、原資料はまだみつかっていない。5次会談(10月14日)直前の省庁打ち合わせ会議で、伊関局長は「最終的には政治的解決をすることになるにしても、初めから請求権の議論を全然しないわけにはいかないから、とにかく一応委員会を開いて議論し。「数字で話を決めるのは不可能だ」ということを先方に納得させる必要があろう」と発言し、大蔵省の吉田理財局次長は「一番無難なところで戦死者の数でも話し合えば多少時間はつなげる」と答えた。つまり事務レベル交渉では「芝居」をしていたことになる。労務者、軍人、軍属の未払い賃金や補償金を求める韓国に、日本は「法的根拠や事実関係を立証せよ」と、いまから考えると理不尽な要求をした。
こうして事務レベル交渉は62年3月に終結し政治折衝に移った。62年11月に経済協力方式による大平・金合意が交わされた。
この背景には、日韓ともに経済開発主義を推進する政権になったこと、アメリカの冷戦戦略としての経済開発、日本の1950年代の東南アジア諸国への「賠償」「経済協力の経験、フランスのアルジェへの「独立+経済協力」方式(エビアン合意)などがある。
3 条約――法による暴力
62年ごろから在韓被爆者や強制動員された被害者から日本政府に陳情や請願の声が上がっていたが、政府は無視し、訪日しても門前払いをくわせた。「慰安婦」の人たちに至っては声さえあげられなかった。しかし国家は、条約により「完全かつ最終的に解決した」といい、門前払いし排除する。サンフランシスコ条約や日韓財産請求権協定という条約―法そのものの「暴力性」が問われなければならない。

韓国と日本の条約・協定をめぐる争い
                金昌禄さん(韓国・慶北大学法学専門大学院教授)
基本条約が結ばれて50年の今年、韓日関係は史上最悪のきわめて非正常な状況におかれている。1965年に何が「解決」されたのか、その結果いまどんな課題が残っているのか考える。
1 基本条約:合意の不存在
争いの核心は基本条約第2条「1910年8月22日以前に大日本帝国と大韓帝国とのあいだで締結されたすべての条約及び協定は、already null and void(もはや無効)であることが確認される」の解釈の違いにある。
「無効の対象」について、韓国は「1910年8月22日以前に大日本帝国と大韓帝国とのあいだで締結されたすべての条約及び協定」といい、日本は「1910年条約」だけだという。無効の時期は、韓国は「当初から」、日本は「当初は有効だったが、1948年8月15日の対韓民国政府樹立により失効」したという。「already」を、韓国は「nulland void」の強調だといい、日本は「現時点ではもはや無効」という。解釈の根拠について、韓国は「日本の侵略主義の所産」、日本は「正当な手続き、対等な立場」だといい、「35年の支配の性格」について韓国は「不法強占」といい、日本は「合法支配」だという。    
韓国政府はこういう解釈も可能だということを知っていて、別々に解釈しようと「談合」して合意した。その後95年の村山談話で「植民地支配と侵略により多大な損害と苦痛を与え」「痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明」し葛藤を乗り越え歩み寄るきっかけとなった。しかし「合法不当論」の主張を続けた。1910―1945年の支配の取るべき責任は課題として残されている
  
2 請求権協定:合意の不十分さ
協定1条で無償3億ドル、有償2億ドルの援助を約束し、2条でサンフランシスコ条約4条a項に規定されたものを含めて、完全かつ最終的に解決されたことを確認し、3条で、署名日以前に生じた事由に基づくものに関していかなる主張もすることはできない、としている。非常に強い表現を使っているが、しかし協定文のどこをみても、解決された原因について言及がなく、何が解決されたのか明らかでない。そうなったのは1で述べたように両国の解釈が異なり合意を得られなかったからだ。
にもかかわらず「領土の分離・分割に伴う財政上および民事上の請求権」であることに合意し、韓国政府もそういう主張をした。要するに請求権協定は、日本による支配の「不法性」を前提にしていない。これは韓国の「併合はもともと違法」という主張と矛盾するが、65年当時の韓国政府の能力の限界を示す
日本が植民地支配責任を解決していないということは、いまも韓国政府は同じ主張を続けており、2005年の韓日会談文書公開後の委員会発表や2012年の大法院判決が確認している。
一方、日本政府は「すべて解決済み」と主張しているが、論理的にムリがある。たとえば日本軍「慰安婦」問題は65年当時は認識しておらず、はじめて認めたのは1992年の加藤談話のときだし、植民地支配責任の存在を認めたのは1995年の村山談話のときである。65年に認識していなかった問題をその時点で解決することはありえない
日本政府の主張はそもそも「植民地支配責任が問題ではない」という前提に立脚しないと論理的整合性を維持できない。安倍政権はそもそも植民地支配に問題はないという前提に立脚している。
65年締結の基本条約と請求権協定には不完全さと不十分さがある。明確な「植民地支配責任の清算」を通じて韓日関係の新たな「法的な枠組み」をつくるべきである。

その他、阿部浩己さん(神奈川大学教授)は「国際法は政策決定者のための学問だったので、外務官僚の価値観と一致しており、韓国併合条約に問題はない、請求権問題に「紛争」はないとしてきた。ところが1990年以降、人権の理念が重視され始め、女性の声、マイノリティの声、過去の声を積極的に組み入れ、劇的に変化してきた。この新しい潮流を組み入れ、65年協定をどう解釈するか、法―暴力をどのように脱暴力化していくかが問われている」と述べた。
日韓会談に関する全国紙・地方紙の記事を投書欄まで含めて分析した五味洋治さん(東京新聞編集委員)は「残念ながら当時の報道は低調で、政府に追随するような記事が多かった。しかし50年たったいま、お互いに相手のことを思いやり、過去の後遺症を治すため最小限のメスを入れる外科手術が必要なのではないか」と述べた。
金丞垠さん(民族問題研究所研究員)は、「韓国政府は対日民間請求権補償に消極的だったが、請求権協定締結の6年後の71年に法律を制定し、75年から2年間補償を施行した。財産被害に対しては、徴用者の未払い金、年金などは確認が難しいとして除外した。94000人が支給決定になったが、あまりに補償額が低く2万人が放棄した。人命被害は強制徴用、徴兵による死亡者に対するものだ。遺族は1人1000万ウォンを要求したが、30万ウォンのみ支給した。合計92億ウォンだがこれは請求権協定の無償3億ドルの8.7%に過ぎない。それも協定締結から12年もかかっての結果だった」と調査結果を述べた。

庵逧さんの見解や分析もお聞きしたかったが時間不足で聞けなかったのは残念だった。最後の討論で五味さんが「韓国の人は「歴史はひとつ、真実はひとつ」というが、あまりこだわり日本人に押し付けると、残念ながらとまどいを生む。それが日本の現実だ。現状を理解したうえで主張していただけるとありがたい」と述べた。韓国に何年も特派員として駐在した人の発言だけにリアルティを感じる発言だった。

会場の在日本韓国YMCA(水道橋)
シンポジウムの前に2本の記録映画が上映された。「私を記憶せよ!」は韓国人被害者のドキュメンタリーで、元「慰安婦」の方のほか、徴用され炭鉱労働した人、海南島で掩体壕づくりをした人、富山の不二越で働いた女性などのインタビューだった。とりわけ捕虜の虐待を強いられた捕虜監視人の方の証言は悲惨だった。
「慰安婦」に限らず、どうやら日本人があまりやりたがらない「仕事」を植民地・朝鮮の人に押し付けていたようで、日本人の人種差別観がよくわかった。「慰安婦」問題だけが特殊なわけでもなさそうだ。こうした植民地支配の被害者救済を阻んでいるのが日韓条約と請求権協定である。
もう1本は「1965年――あの時代、あの闘い…」という日韓条約阻止闘争の証言映像だった。証言したのは、当時の大学生、国鉄労働者、和田春樹氏(当時東大助手)ら学者、朝鮮総連国際局の方だった。
国労では、当時、新橋や品川が強く座り込みなどの動員があったそうだ。いまでは考えられない。ただ国民的にはそれほど盛り上がらなかった。理由のひとつは15年にもわたる長い闘争で「肝心のときに疲れてしまった」という事情もあったようだ。なおこのころはベトナム戦争、原潜寄港といった国際情勢も運動に影響していた。
また朝鮮学校「高校無償化」排除問題と群馬県の追悼碑撤去問題のアピールがあった。群馬県の「朝鮮人・韓国人強制連行犠牲者追悼碑(碑名は「記憶 反省 そして友好」)の撤去問題は少しは聞いていたが詳しいことは、わたくしははじめて聞いた。群馬では太田や伊勢崎に中島飛行機があり、吾妻の鉄鉱石採鉱や吾妻線建設のトンネル工事のため多くの朝鮮人が強制労働されられた。
そこで98年から市民団体が県立公園に追悼碑を建てる運動をスタートし2004年に、1万人の浄財を得て竣工した。ところが2012年ごろから女性右翼団体「そよかぜ」が攻撃を開始した。ネトウヨも加わり、とうとう2014年6月県議会が「追悼碑設置許可取り消しを求める請願」を採択する。守る会は抗議声明を発表、県との話し合いを重ねたが、11月に前橋地裁に提訴した。2015年1月に第1回口頭弁論、8月17日に第3回口頭弁論が予定されている。
2015日韓市民共同宣言」を採択し第1部を終え、神保町や小川町へデモに繰り出した。
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