酷暑の午後、京都市北区の立命館大学国際平和ミュージアムを訪れた。京都駅から50系統の市バスに乗るとバスは西へ向かう。西大路通りを一路北上し40分ほどで大学に到着する。衣笠山の山際、龍安寺、等持院、金閣寺にほど近い場所である。山の照り返しが激しく気温は40度近くありそうだ。大学から道路1本東側に鉄筋2階、地下1階のかなり大きな建物がある。国際平和ミュージアムである。常設展示室だけで1200平方メートルもあり、収蔵資料約4万点のうち1200点が展示されている。このミュージアムは1992年開館、2005年にリニューアルした。今年6月4日来館者数が70万人を超えた。なお館内撮影禁止のため写真は撮影できなかった。
テーマ1は「15年戦争」、はじめのコーナーは「軍隊と平和」である。1943年の徴兵検査でパンツ1枚で筋肉や十指の運動機能検査を受ける青年たち、七尾海員養成所や少年通信兵の訓練などの写真、「武運長久」の寄せ書きをした血染めの日の丸など、一見もうひとつの遊就館のような雰囲気が漂う。しかしその先の進展は真逆だ。「兵士の加害行為」というタイトルで、シンガポールのチャンギーキャンプのやせ細った捕虜、南京大虐殺で川に浮かぶ死体、泰緬鉄道を修理する捕虜、731部隊、軍隊慰安婦など、慄然とする写真が並ぶ。「戦争で日本の兵士は人権を踏みにじった」「日本軍は毒ガスや細菌兵器をつかった」と的確なキャッチコピーが付されていた。
このミュージアムは、解説がたいへん充実している。たとえば徴兵検査のブロックでは、1928年3月と40年1月の甲乙(合格)、丙(国民兵役には適す)、丁(兵役免除)、戊(徴兵延期)の検査区分の違い、常備兵(現役と予備役)と後備兵役・補充兵役・国民兵役の違いが説明される。「戦時下のくらし」は原寸大の家屋のレプリカが建っており、室内におひつやラジオが置かれている。原寸の家屋展示はいろんな歴史博物館にもあるが、建物の正面に解説板が置かれていた。おひつには、「敗戦近くには雑炊や水団(すいとん)、大根の葉などしか食べられなくなった」、七輪には「都市ガスが出なくなり都会でも七輪が重宝された」、神棚の前の出征中の親族の写真と陰膳には、「出征兵士の無事を祈るため」とていねいな解説(いずれも要約)が書かれていた。
立命館の歴史についても誠実に紹介していた。立命館では昭和天皇即位の1928年に立命館禁衛隊を組織し、御所を警備した。41年には石原莞爾を講師に招き国防講座を行った。「軍事色の濃い学園だった」と内省的に自校の歴史を紹介している。33年の京大・滝川事件の際、佐伯千仭ほか多くの教官を受け入れた学校として有名だったので、わたしには意外だった。
展示物のなかに、貴重なノートをみかけた。「わが命月明に燃ゆ」の著者、林尹夫(ただお)の遺稿ノート3である。学用ノート統制株式会社という統制会社のもので、几帳面な小さい文字で「昭和18年12月19日~19年7月13日」とあった(林が四国沖で戦死したのは1945年7月28日)。高校生のころ筑摩書房の本を読んで感動したが、著者の筆跡をみたのは初めてのことだ。
「植民地と占領地」では抗日運動、「空襲・沖縄戦・原爆」では沖縄戦、「平和への努力」では山本宣治のデスマスク、「戦争責任」では元慰安婦の絵が印象に残った。普通の博物館はせいぜい戦時中の反戦活動までで終わりなのだが、ここはきちんと「戦争責任」というコーナーが展示されている。重苦しいコーナーを経てテーマ1は一区切り、しかしこれはまだ半分、いや1/3に過ぎない。
テーマ2は「現代の戦争」。はじめのコーナーは「2つの世界大戦と戦争を防ぐ努力」でオーランドのビルケナウ絶滅収容所やニュルンベルグ裁判が扱われていた。
「植民地の独立と冷戦」では、朝鮮戦争、ベトナム戦争が紹介される。72年12月B52のハノイ爆撃で、バクマイ病院が爆撃され多くの死者が出た現場の写真、68年3月の北区王子のエプロンデモの主婦の写真などが展示されていた。
「兵器の開発」では、クルド人虐殺に使われた化学兵器、地雷、トマホーク(巡航ミサイル)、劣化ウラン弾、クラスター爆弾の写真が展示されていた。この60年間兵器は進歩し続けた。現実に使用されると、こどもにまで被害は広がる。
エレベータを上った2階は、テーマ3「平和を求めて」である。戦争と平和をテーマにした絵画、ピースボートやJVCなど平和を求める市民ボランティアの活動などを紹介する平和創造展示室がある。2007年4月凶弾に倒れた長崎市長・伊藤一長氏の血染めのワイシャツも展示されていた。
その他、戦没画学生の絵を集めた上田の「無言館」の京都分館があり、絵や岡部伊都子さんが兄や近所の人の思い出を収め大事にしていた二つの文箱が展示されていた。
ミニ企画展示室では、企画展「ラヂオ体操の歴史」が開催されていた。
ラジオ体操は1928年11月昭和天皇の即位行事の一環として逓信省簡易保険局、日本放送協会、文部省の3者の協力で始まった。日本のラジオ放送開始が25年3月なのでわずか3年後のことだ。放送が始まって3年後の31年には東京で「夏休みラヂオ体操の会」が組織され全国に広まった。その後38年に国民の健康増進と体力の向上は国防の根本として厚生省が設置されたことを思い起こさせる
当初のラジオ体操の作曲は福井直秋(武蔵野音楽学校の設立者)だった。1946年4月の2代目を経て現在のものは1951年5月6日放送開始、作曲は服部正、ラジオ体操第2は現行(3代目)のものが1952年6月放送開始、作曲は團伊玖磨、有名な作曲家ばかりだ。もうすぐ60年の歴史となる。なお「新しい朝が来た」の歌詞の現行「ラジオ体操の歌」は藤山一郎の作曲で、時期は少し後の1956年の曲である。
☆立命館大学というと河原町丸太町から少し北の広小路学舎の印象が強い。衣笠は理工学部と思っていたが1981年に広小路は閉鎖されたそうだ。69年には全共闘によるわだつみ像破壊が話題になった。その「きけわだつみ像」が、国際平和ミュージアムの1階吹き抜け部分に再建されていた。
1946年から69年まで23年間総長を務めた末川博の揮毫による碑文が像の下にある。「未来を信じ、未来に生きる。そこに青年の生命がある」で始まる「像と共に未来を守れ」という文で「なげけるかいかれるかはたもだせるか きけはてしなきわだつみのこえ」の句とともに刻まれている。揮毫の月日は敗戦から8年後の53年12月8日である。
住所:立命館大学国際平和ミュージアム
電話:075-465-8151
開館日:火曜~日曜
開館時間 9:30~16:30(入館は16:00まで)
京都市北区等持院北町56-1
入館料:大人400円、中学・高校生300円、小学生200円
テーマ1は「15年戦争」、はじめのコーナーは「軍隊と平和」である。1943年の徴兵検査でパンツ1枚で筋肉や十指の運動機能検査を受ける青年たち、七尾海員養成所や少年通信兵の訓練などの写真、「武運長久」の寄せ書きをした血染めの日の丸など、一見もうひとつの遊就館のような雰囲気が漂う。しかしその先の進展は真逆だ。「兵士の加害行為」というタイトルで、シンガポールのチャンギーキャンプのやせ細った捕虜、南京大虐殺で川に浮かぶ死体、泰緬鉄道を修理する捕虜、731部隊、軍隊慰安婦など、慄然とする写真が並ぶ。「戦争で日本の兵士は人権を踏みにじった」「日本軍は毒ガスや細菌兵器をつかった」と的確なキャッチコピーが付されていた。
このミュージアムは、解説がたいへん充実している。たとえば徴兵検査のブロックでは、1928年3月と40年1月の甲乙(合格)、丙(国民兵役には適す)、丁(兵役免除)、戊(徴兵延期)の検査区分の違い、常備兵(現役と予備役)と後備兵役・補充兵役・国民兵役の違いが説明される。「戦時下のくらし」は原寸大の家屋のレプリカが建っており、室内におひつやラジオが置かれている。原寸の家屋展示はいろんな歴史博物館にもあるが、建物の正面に解説板が置かれていた。おひつには、「敗戦近くには雑炊や水団(すいとん)、大根の葉などしか食べられなくなった」、七輪には「都市ガスが出なくなり都会でも七輪が重宝された」、神棚の前の出征中の親族の写真と陰膳には、「出征兵士の無事を祈るため」とていねいな解説(いずれも要約)が書かれていた。
立命館の歴史についても誠実に紹介していた。立命館では昭和天皇即位の1928年に立命館禁衛隊を組織し、御所を警備した。41年には石原莞爾を講師に招き国防講座を行った。「軍事色の濃い学園だった」と内省的に自校の歴史を紹介している。33年の京大・滝川事件の際、佐伯千仭ほか多くの教官を受け入れた学校として有名だったので、わたしには意外だった。
展示物のなかに、貴重なノートをみかけた。「わが命月明に燃ゆ」の著者、林尹夫(ただお)の遺稿ノート3である。学用ノート統制株式会社という統制会社のもので、几帳面な小さい文字で「昭和18年12月19日~19年7月13日」とあった(林が四国沖で戦死したのは1945年7月28日)。高校生のころ筑摩書房の本を読んで感動したが、著者の筆跡をみたのは初めてのことだ。
「植民地と占領地」では抗日運動、「空襲・沖縄戦・原爆」では沖縄戦、「平和への努力」では山本宣治のデスマスク、「戦争責任」では元慰安婦の絵が印象に残った。普通の博物館はせいぜい戦時中の反戦活動までで終わりなのだが、ここはきちんと「戦争責任」というコーナーが展示されている。重苦しいコーナーを経てテーマ1は一区切り、しかしこれはまだ半分、いや1/3に過ぎない。
テーマ2は「現代の戦争」。はじめのコーナーは「2つの世界大戦と戦争を防ぐ努力」でオーランドのビルケナウ絶滅収容所やニュルンベルグ裁判が扱われていた。
「植民地の独立と冷戦」では、朝鮮戦争、ベトナム戦争が紹介される。72年12月B52のハノイ爆撃で、バクマイ病院が爆撃され多くの死者が出た現場の写真、68年3月の北区王子のエプロンデモの主婦の写真などが展示されていた。
「兵器の開発」では、クルド人虐殺に使われた化学兵器、地雷、トマホーク(巡航ミサイル)、劣化ウラン弾、クラスター爆弾の写真が展示されていた。この60年間兵器は進歩し続けた。現実に使用されると、こどもにまで被害は広がる。
エレベータを上った2階は、テーマ3「平和を求めて」である。戦争と平和をテーマにした絵画、ピースボートやJVCなど平和を求める市民ボランティアの活動などを紹介する平和創造展示室がある。2007年4月凶弾に倒れた長崎市長・伊藤一長氏の血染めのワイシャツも展示されていた。
その他、戦没画学生の絵を集めた上田の「無言館」の京都分館があり、絵や岡部伊都子さんが兄や近所の人の思い出を収め大事にしていた二つの文箱が展示されていた。
ミニ企画展示室では、企画展「ラヂオ体操の歴史」が開催されていた。
ラジオ体操は1928年11月昭和天皇の即位行事の一環として逓信省簡易保険局、日本放送協会、文部省の3者の協力で始まった。日本のラジオ放送開始が25年3月なのでわずか3年後のことだ。放送が始まって3年後の31年には東京で「夏休みラヂオ体操の会」が組織され全国に広まった。その後38年に国民の健康増進と体力の向上は国防の根本として厚生省が設置されたことを思い起こさせる
当初のラジオ体操の作曲は福井直秋(武蔵野音楽学校の設立者)だった。1946年4月の2代目を経て現在のものは1951年5月6日放送開始、作曲は服部正、ラジオ体操第2は現行(3代目)のものが1952年6月放送開始、作曲は團伊玖磨、有名な作曲家ばかりだ。もうすぐ60年の歴史となる。なお「新しい朝が来た」の歌詞の現行「ラジオ体操の歌」は藤山一郎の作曲で、時期は少し後の1956年の曲である。
☆立命館大学というと河原町丸太町から少し北の広小路学舎の印象が強い。衣笠は理工学部と思っていたが1981年に広小路は閉鎖されたそうだ。69年には全共闘によるわだつみ像破壊が話題になった。その「きけわだつみ像」が、国際平和ミュージアムの1階吹き抜け部分に再建されていた。
1946年から69年まで23年間総長を務めた末川博の揮毫による碑文が像の下にある。「未来を信じ、未来に生きる。そこに青年の生命がある」で始まる「像と共に未来を守れ」という文で「なげけるかいかれるかはたもだせるか きけはてしなきわだつみのこえ」の句とともに刻まれている。揮毫の月日は敗戦から8年後の53年12月8日である。
住所:立命館大学国際平和ミュージアム
電話:075-465-8151
開館日:火曜~日曜
開館時間 9:30~16:30(入館は16:00まで)
京都市北区等持院北町56-1
入館料:大人400円、中学・高校生300円、小学生200円