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集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

台湾原住民族と日本

2007年10月03日 | 読書
柳本通彦「かわさき市民アカデミー講座ブックレット24 ノンフィクションの現場を歩く 台湾原住民族と日本」(川崎市生涯学習財団)を読んだ。
昨年、日本の侵略のルーツを探ろうと、日中戦争、韓国併合、日清日露戦争と時代をさかのぼって本を読んだところ、行きついたのが1874年の台湾出兵だった。明治維新からわずか7年、むりやり日朝修好条規を締結させた江華島事件出兵の1年前のことである。そのとき読んだのは毛利敏彦「台湾出兵――大日本帝国の開幕劇」( 中公新書1313 1996年)と中島光孝「還我祖霊―台湾原住民族と靖国神社」(白澤社 2006年)の2冊だった。後者から1930年にタイヤル族が蜂起した霧社事件のことを知り、柳本氏の著書を読むことにした。

柳本通彦氏は1953年京都市生まれ、87年家族とともに台湾に渡り、現在アジアプレス台北代表を務めるジャーナリスト。
わたくしは、これまで台湾の歴史をほとんど知らなかった。しかし無理もない。本書によると「中学校の歴史の教科書に台湾という文字は二、三回しか出てこないはず」とある。
台湾には4つの民族のグループがある。まず、タイヤル族、アミ族など公認されているだけで12民族からなる原住民族。台湾には3000m級の山が連なる中央山脈がありその東側は原住民の世界である。ただし人口は40万人(人口比2%)程度。なお原住民族は台湾憲法上の用語で、日本語の用法では「先住民」のことである(または居住単位を指す)。
次に17世紀以降、対岸の福建から移住した漢民族、そして客家人、最後に戦後国民党政権とともに渡ってきた外省人。台湾は、このように多民族国家なのである。
1895年下関条約で台湾が割譲され日本の統治が始まった。同じ日本の植民地でも、朝鮮半島と台湾は根本的に状況を異にする。朝鮮には確たる国家があり民族の文化があった。しかし台湾には統一国家がなく小さな民族が数多くいた。
やがて山地にも徐々に支配が及ぶようになった。日本軍に降伏したには、まず派出所をつくり警察官を駐在させた。警官のなかの2-3人が学校の先生の係になり子どもを通学させる。学校は、比較的開けたところは公学校、山奥は蕃童教育所と呼ばれ、普通の勉強だけでなく衛生指導・農業指導などすべてを教えた。卒業すると成績優秀な男の子は警察が雇い、女の子は助産婦の講習会に送り、衛生所に置くようにしていた。また日本の警察官は原住民の有力者の娘と結婚するという、一種の政略結婚が行われた(といっても現地妻であり、夫が帰国すると子どもとともに残される)。
柳本氏が取材したのは、いま80代の戦中派の老人である。きれいな標準語の日本語を話し、おばさんたちの宴会では「トントントンカラリンと、隣組」など日本時代の歌が次から次へと出てくる。男性は、平山一夫、中村武男など日本名も持っている。
日本の植民地支配の特徴は、イギリスのインド支配のように経済的に搾取するレベルを超え、全員を日本人に改造しようというしくみだった。台湾の人を日本人に改造するために、日本語教育をするだけでなく原住民の宗教だったアニミズム的な原始的宗教を禁止した。日本の国家神道を彼らに植え付けるため各集落に神社を建てて子どもたちを参拝させた。そして日本の天皇が神様になってしまった。
徹底した皇民化政策で民族教育の連鎖が断ち切られたため、両親から学ぶことは少なく、彼らは「日本はオトウチャン」だという。
台湾では1941年に志願兵制度、44年に徴兵制が実施された。「日本の先生」に対する信頼はたいへんあついものだった。先生自ら出征していったので、彼らは先生の後に続けとばかりに志願して出征していった。台湾から20万人が出征し、5万人が帰らなかった(靖国に合祀されているだけで3万人)。そのなかで原住民は高砂義勇隊という軍属の部隊(7回まであった)で激戦地のフィリピンやニューギニアに向かった。敵前上陸の先鋒として使われたり、もともと狩猟民族なので、番刀で道を切り開き、獲物を仕留めて日本兵を助けた。
一方、残された妻にも過酷な運命が待ち受けていた。日本の警察が来て「生活が苦しいだろう。給料をやるから日本軍の兵舎で洗濯しないか」といって兵舎に連れて行く。しかし兵舎での仕事は洗濯や修繕だけではすまなかった。隊長がいった言葉は「お前たちの夫は命を陛下にささげて戦っているのに、お前は自分の身体もささげられないのか」。彼女たちは、そう言われるとそうしなければいけないという教育を受けてきたので、断ることができない。最終的になかば自分が折れる形で慰安婦として兵隊の相手をしていたので、自分が悪いことをしたという自責の念がだれにも話せないまま、ずっとある。日本の警察は夫婦そろって使い捨てたのである。
1945年8月の敗戦で捕虜になり、やっと故郷に生還するとすでに「お国のために死ね」「陛下のために働け」と言った日本の先生も警察もいなかった。国民党の軍隊がやったのは、日本色を取り去ることだった。「お前たちは半分日本人になった腐った『漢民族』だ、それをたたき直してまともな中国人にしてやる」と彼らに言った。
孫の世代は北京語で育っており言葉が通じない、テレビをつけても言葉がわからない。
軍人軍属として働いていたときの給料は日本の軍事郵便貯金のかたちで残った。本来は終戦処理のひとつとして中華民国政府と日本政府で債務の処理方法を考えるべきだったが、取り決めがなかった。93年5月台湾人が300人集まって日本の郵政省に軍事郵便貯金の払い戻しを求めたが、郵政省は拒否した。その後、宮沢喜一内閣のときに払い戻すことになったが、金額は額面の120倍という低い倍率だった。彼らは平均して1000円から2000円の残高を所持していた。当時1000円あれば家が建ったが、いま120倍で返されてもわずか12万円にしかならない。これに抗議して、96年6月日本の大使館に当たる台北の交流協会を台湾の老人たちが襲撃する事件が起こった。
いまの日本に道徳がありますか。徳ということは日本の先生に教えてもらった言葉です。私たちは無一文でぼろぼろになって帰ってきたんですよ。あまりにひどいですよ。残酷ですよ」との感想が聞かれた。
ドキュメント「花蓮三勇士――陛下、勲章が泣いています」を制作した著者は「彼らの本心としては金が問題なのではなくて、日本人に認めてほしいわけです。30万なり50万のお金に加えて『たいへんお世話になりました。おかげで日本は平和な国になりました』というその一言がほしいのです。日本人としての道徳の問題だと思います」と述べる。
また著者は言う。「死んで靖国で会おう」が戦友たちとの合言葉だったので、靖国神社で涙を流す原住民がいる。「ひとつ情けないなと思うのは、(略)彼らはいまでも日本のことを愛してくれている、日本の台湾に対する植民地支配は成功したのだ。よかった、いい時代だったのだ、というようなことを発言する人たちです。
自分の意見や主張を補強するために純朴な台湾原住民のお年寄りを利用しようというのは、あまりに非道かなという思いがします。情けないことです。彼らがあまりにも可哀そうだという気がします

☆この本を読んだ後、周婉窈「図説 台湾の歴史」(平凡社 2007年2月)を読んだ。97年10月に発刊され学術書なのに累計9万部近く売れたとある。柳本氏の本に出てくる前の時代のオランダ東インド会社時代、清の初期に鄭成功が来たこと、また日本語版のため追記された戦後篇には1947年の2.28事件、「白色テロ」の時代、79年の美麗島事件のことも出てくる。
国民党時代には中国本土の歴史は教えても台湾の歴史教育が行われなかったそうだ。戦中派世代の歴史的記憶は「化石化」し、日本の植民地時代は優れていたと思っている人も少なくない、とある。
戒厳令解除後の90年代半ば以降、やっと台湾の地理・歴史教育が開始された。
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