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集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

多田謡子没後30年の反権力人権賞受賞式

2016年12月20日 | 集会報告
12月17日(土)午後、今年も多田謡子反権力人権賞受賞式が連合会館で行われた。弁護士・多田謠子さんが肺炎のため29歳の若さで亡くなったのは1986年12月18日未明、今年はちょうど30年に当たる。同じ事務所で机を並べた辻恵弁護士は「とても寒い夜だった」と振り返る。小中学生時代のエピソードは毎年語られるが、今回は、弁護士として集会あいさつをしたときマンガのキャラクターのついたTシャツを着てきたとか、事務所に入所したころ「Dr.スランプ」のアラレちゃんのようなかわいい人だったと、2年足らずの弁護士時代の珍しいエピソードも披露された。
多田謡子反権力人権賞は今回で28回、アリさんマークの引越社で闘う労働者個人、 松村比奈子さん(首都圏大学非常勤講師組合)、郵政20条裁判原告団、水戸喜世子さん、経産省前テントひろばなど6人、9団体(合計15)の候補から「東京拘置所のそばで死刑について考える会」「篠原弘典氏」「沖縄から基地をなくし世界の平和を求める市民連絡会」(略称:沖縄平和市民連絡会)が受賞した。

沖縄の辺野古や高江ではずっと全国からの市民の座り込みが続いている。とくに高江で全国から集められた機動隊員の暴力は「高江―森が泣いている(監督:藤本幸久、影山あさ子 森の映画社)などで見られるとおりすさまじくまさに「無法地帯」である。その県民の目の前で12月13日夜オスプレイが海に墜落し、機体がバラバラになった。ところが稲田防衛大臣はじめ日本政府やNHKなどだけが米軍発表に合わせて「不時着水」と表現している。機体をコントロールしたまま、着水予定地に下りたたことを不時着水というのだそうだが、(ヘリモードでなく)固定翼機モードのまま着水し機体がバラバラになることが予定通りだったのだろうか。そんな飛行機を17機3600億円で購入する防衛省はよほどどうかしている。また12月20日には辺野古埋立承認取り消し訴訟で、県の敗訴が最高裁で確定した。
そこで、沖縄平和市民連絡会の共同代表のお一人、高里鈴代さんの講演を中心に、報告する。

沖縄から基地をなくし世界の平和を求める市民連絡会(沖縄平和市民連絡会)
                              共同代表 高里鈴代さん

沖縄平和市民連絡会は、突然開催が決まった2000年沖縄サミットを前に99年8月に結成した。サミットは沖縄県が誘致したものではなく、政府が基地問題への「口封じ」のため産業振興などを口実に開催したものだった。4月17日反対集会を開き「沖縄民衆平和宣言」を採択した。また米軍基地撤去運動を展開し93年に完全撤退させたプエルトリコのビアカスやフィリピン、韓国の人たちを招待した。
サミット終了後、一坪反戦地主会、ヘリ基地反対協、行動する女たちの会など環境・平和・人権に関する33団体で再構築した。
一方、沖縄平和市民連絡会が政党、労組などに呼びかけて99年9月に「普天間基地・那覇軍港の県内移設に反対する県民会議」を結成した。事務所は沖縄平和運動センターに置いているが、その議長が山城博治さんだ。この会議が高江や辺野古の反対運動をリードしている。昨年4月山城さんが急性リンパ腫で倒れたときには、代役として、週7日を市民連絡会が2日、平和運動センターが3日、統一連が2日責任をもって分担することにした。山城さんは11月に無事に戻ったが、今回10月17日に再び拘束され長期拘留されている。昨年の体験があるので、担当を分担し、高江には今度は事務局長を送った。
平和市民連絡会は9.11以降は、イラクやアフガンに人を送り、向こうの人と連帯し、たとえばイラクの子どもを支援している。一方選挙については、市民連絡会は政治団体ではないので、市長選、知事選、衆議院選などで期間限定の勝手連を組織し、独自の事務所をつくり独自の車、ビラで運動している。
いま平和市民連絡会がもっとも力を注いでいるのは辺野古、高江の座り込み闘争だ。事務局長を辺野古へ送り、アパートを借りて宿舎にして活動している。またボランティアを募り、辺野古と高江に毎日支援者送迎のクルマを出している。
また、アメリカの上下院議員やシンクタンクにアタックすることを提案し、2012年1月に当時フリーだった伊波洋一さんを送った。2015年11月には島ぐるみ会議として訪米した。米軍基地建設は日本の会社が工事をしたとしても、つくらせているのは米軍である。アメリカは一方の当事者なのだから基地建設について環境保護やジュゴンの保護などを米国の法律に抵触していないかチェックすべきだとアピールするための訪米である。
その結果、バークレイ市議会が辺野古支援の決議を挙げてくれ、連邦議会に対し基地建設の環境問題について公聴会を開くべきという主旨の決議も含まれている。今後もアメリカの市民や運動団体との連携を続けていきたい。

東京拘置所のそばで死刑について考える会そばの会

毎月のビラまきに参加されているメンバーの方々
この会は、綾瀬駅前で毎月1回、原則として第3土曜の16時半からビラをまいている団体で、平野さんはじめ4人の方のリレートークがあった。ビラまきは1997年5月から始まったので来年で20年になる。
きっかけは93年に死刑執行が再開され、なんとか止められないかと考えた統一獄中者組合のメンバーが、東京拘置所に一番近い駅である綾瀬駅で一般の人に「死刑について考えてみませんか」というビラを配り始めたことだった。声高に叫ぶのでなく、トラメガは使わず、ひたすらビラを撒いている。
また親族以外でも、死刑囚の方に現金や切手を差し入れることはできる。年頭、お盆、年末の3回集中面接を行い、そのときに差し入れている。礼状を送ってくれる人も1/3くらいいるが、受け取ったこととお礼以外は墨塗りにされた手紙だ。しかし健康状態を推測することなどもできる。こちらは「あなたを忘れていない」という気持ちで差し入れている。
ただ、最近は東京拘置所の未決囚の人数が減っている。私見だが、裁判員裁判は集中して審理するので接見禁止期間後、面会できる時間が少なくなり、かつ控訴審の時間も短くなっているからではないかと考えている。
ビラまきを20年も続けられたことにはいくつか理由がある。まず、死刑執行後の抗議活動はいつなのかわからず、執行されてからあたふた行動することが多いが、ビラまきならこちらで時間設定できること、月に一度くらいなら自分たちのペースで続けられることがある。次に、ビラまきなら紙代と印刷代くらいで、おカネがかからないことがある。

「原発の町、女川」で反原発運動を半世紀近く続ける  篠原弘典さん

1970年10月23日女川の漁民が原発反対総決起集会を開いた。わたしは東北大学工学部原子核工学科3年で、小出裕章さんが2年下にいた。この集会に参加したことが反原発運動との出会いとなった。
女川は牡鹿半島の付け根にあり、きれいな砂浜が広がる遠洋漁業とカキ、ワカメなどの養殖で漁民が豊かな生活を送るまちだった。東北電力が原発建設を公表したのが67年3月、漁民は69年6月反対決議をし、70年10月はじめて総決起集会を開催、海上デモも行った。東北電力は漁協の上層部から切り崩し、スピーカーを曲げたという微罪で機動隊を導入して青年行動隊2人を逮捕するなどして、78年6月の総会でとうとう漁業権放棄が決議された。
そして79年12月に着工し、1号機は84年6月営業開始した。当初計画では75年運転開始だったので反対運動のため10年遅れたことになる。
88年には2号機建設の第2次公開ヒアリングが行われるというので、矢崎泰久さん、中山千夏さんを招きみやぎ夏祭りを開催し、そのときに反対の意思表示をするため5日間のハンストを行った。
しかし2号機、3号機が増設され、女川は東北電力の企業城下町になり、ものの言えない雰囲気の町になっていった。
そして2011年に大津波が襲い女川の町の7割が破壊された。本来対策拠点になるはずだったオフサイトセンターや県の原子力センターにも水が来て人が死んだ。ぎりぎりのところで水が止まったが、一歩間違えば福島と同じ状況だった。女川は埋立地だったので、液状化が起こった。それで盛り土をしてその上に住宅を建てようとしている。駅も新駅になり商店街をつくったが、生活のにおいのない街をつくって「復興」といっている。あれから5年半たってもほとんどの人が仮設住宅暮らしの状況だ。
50年近く原発と格闘し、「原発事故が起こるというオオカミ少年」ともいわれた。事故が起こり口惜しい思いをしたが、やはり再稼働を止め、子どもを放射能から守りたいと思っている。
東北電力は2017年4月以降に再稼働させる計画を立てている。わたしたちは自由にものが言えるまちをつくり、単に反対ではなく議論を起こそうと「原発のない東北の復興を考える」シンポジウムを開催している。第1回が昨年11月、第2回が今年5月、来年1月29日仙台国際センターで第3回を行う。
また日本基督教団東北教区放射能問題支援対策室いずみの依頼で顧問に就任し、子どもの甲状腺検査を3年間やっている

山城博治さん救援の檄布
昨年この賞を受けた山城博治さんは、10月17日の逮捕以後いまも接見禁止という状況で長期拘束されている。
受賞式で、獄中の山城さんからの「昨年に続き2年連続沖縄からの受賞ということで大きな喜びを感じています。個人団体を問わず、とてもよく見ていただいているのがとてもよくわかりました(略)わたくしも賞の名に恥じないよう、力を尽くしてがんばりたいと思います」とのメッセージが読み上げられた。そして救援のためのカンパ集めと檄布づくりが呼びかけられた。
昨年の受賞式で、「お帰りなさーい」という山城コールに応え、「このとおり元気になったことを、まずお伝えしたい」とあいさつされた山城さんの元気な姿を思い出す。 
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