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集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

新たな『皇民化教育』にどう立ち向かうか?

2009年06月19日 | 集会報告
6月13日(土)夜、中野区商工会館で、「抵抗の灯は消せない! 新たな『皇民化教育』にどう立ち向かうか?」 という集会が開催された(主催 河原井さん根津さんらの「君が代」解雇をさせない会)。皇民化教育は、天皇を中心とする大日本帝国への忠誠を要求した教育政策である。台湾、朝鮮など戦前の占領地で強制された。しかし戦後の教育改革で一掃されたはずだった。過去の集会で、根津公子さんは立川町田の停職出勤の体験で「子どもたちが「校長や教育委員会など偉い人に従うのは当たり前という少国民に育てられた」ことを実感したと話していた。石原慎太郎都知事のもと、日の丸君が代の強制により、東京の学校では新たな「皇民化教育」が着々と進行しつつある。しかしそれに抵抗する教員はまだ確固として存在する。

記念講演 関東大震災時の朝鮮人虐殺と秋田雨雀
          山田昭次
さん(立教大学名誉教授)
関東大震災の朝鮮人虐殺は、東京や東京に近い千葉ではたしかに軍隊・警察が行った。しかし東京から遠い埼玉、群馬で虐殺したのは自警団だった。自警団の人は徹底した皇民化教育を受け、国家のためといって朝鮮人を殺したと思う。それに対し青森出身の劇作家・秋田雨雀(本名・徳三 1883-1962)は、日本の民衆は偏狭な愛国心から脱却しないと朝鮮人に被害を与えるだけでなく、最終的には自分たち自身がひどい目にあうことを、論説やドラマを通して訴えた。そういう点で今日的意義をもつ。
関東大震災は1923年9月1日正午直前に発生した。従来「朝鮮人が暴動を起こした」というデマは民衆が流したといわれていた。ところが調べてみると驚くべきことに9月1日の夕方には警察官が「朝鮮人が暴動を起こした」と触れ回っていた。このことは小学生の日記や寺田寅彦の日記で判明した。
9月2日には埼玉県が不逞鮮人警戒の通達を発し、3日には内務省警保局長が無線で全国に発信している。4日には埼玉県本庄で自警団が警察を襲撃し、拘束されていた朝鮮人80人を殺害した。農民らしい人物が「夕べは16人も殺したぞ」と豪語したことが警察官の証言に残っている。これは教育勅語でたたきこまれた「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」に基づく教育の一大成果である。
一方、軍隊による社会主義者の検束についても、従来言われていた3日の亀戸署より早く、1日夜60人の検束が始まっている。2日には東京市に戒厳令が布告され、3日には東京府、神奈川県へ地域が拡大した。
秋田雨雀は「演劇新潮」1924年4月号に「骸骨の舞跳」という戯曲を発表した。舞台は東
京から150里離れた鉄道の駅の震災避難者救護所で、登場人物は東京から避難する老人と書生の青年である。
日本人はなぜ朝鮮人を殺すのかと老人が問うと、青年は「あの人たちには自信がないのです。他人の着せた衣服。(きもの)を大事に着ているだけです。僕は国民としての日本人には失望しましたが、人間としての日本人には失望していません」と答える。「他人の着せた衣服」とは国家が民衆に植えつけた国民道徳のことで、自警団員は国民道徳の体現者であり、国民道徳から解放されたときはじめて人間性を回復できるというのである。
そこに自警団員が入ってきて、青年のうしろにこごんでいる男を朝鮮人だといって騒ぎ出す。
青年は「君たちのいうように或いはこの人は朝鮮人かもしれない、然し朝鮮人は君達の敵じゃない。日本人、日本人、日本人、君達に日本人が何をして呉れたか?日本人を苦しめているものは、朝鮮人じゃなくて日本人自身だということ。そんな簡単な事実が諸君には解っていないのか?」と語る。
敵は日本人自身というのは発禁を避けた表現で、日本の支配者を指す。
さらに「君達は一体何だ?君達のもっているものは、黴の生えた死んだ道徳だけだ。(略)諸君は生命のない操り人形だ!死蝋だ!木乃伊(みいら)だ!骸骨だ!」と叫ぶ。
自警団員たちが青年と朝鮮人を殺そうとすると、自警団員たちは骸骨に変わり、ワルツを踊り出し、最後に倒れる。この戯曲はここで終わる。
秋田は、日本の民衆は国家のお仕着せを着せられ、他民族を殺すことを罪と感じないほど人間性を失った、生命のない操り人形だと、日本人の国民意識の空しさを指摘したのである。
また1923年11月26日付け「読売新聞」に「民族解放の道徳」と題する論説を書いた。そのなかで、自然災害に対し人間は互いに助け合わなければならないのに、日本人は自然災害に数倍するほどの残虐性を朝鮮人に与えたことを問題視した。そして「国民道徳と私達の読んでいるものから民族が解放されて、そこから本当の広い自由な新しい道徳が生まれること」の必要性を強調した。
関東大震災で虐殺された朝鮮人は6000人ともいわれるが本当のことはわからない。荒川の土手を掘ったが骨は出なかった。あとでわかったのは、ある時期に警察が、骨がみつかると反日運動が盛り上がるという理由で、どこかへもっていったことだった。出ないはずである。中外日報というミニコミに、遺族が「殺されたことは我慢しても、遺骨をねんごろに弔うことができないのが残念だ」と書いている。いま強制連行された人の遺骨返還運動があるが、さかのぼって関東大震災にも日本の国家はむちゃくちゃなことをやっていたということだ。
結局秋田の警告は生かされず、日本人自身にふりかかり戦争で多くの人が国家により「無意味な死」を遂げた。しかし「無意味な死」を謝罪した戦後の首相は一人もいない。日本の国家は、国家責任を謝罪し償うべきなのにやっていない。それがいまの日の丸君が代の強制へと突き進んでいる
85年前の秋田の警告は、いまも生々しく生きている。

このあと、「不起立教員思いを語る」というテーマで、根津さん、河原井さんをはじめ5人の教員からスピーチがあった。
高校教員Aさん
2年生のクラスの担任をしたとき中国籍の生徒がいた。彼は中国の中学で日本人がしたことを学んでおり、日本人の生徒が何もわかっていないことに衝撃を受けていた。その生徒が卒業式での着席の決意を語ったとき「オレも座る。君を一人にはさせない」と声をかけた生徒がいた。わたしは常々クラスの生徒に「友達の心の痛みを考えよう」といってきた。自分自身の不起立が伝わると担任団から「学校全体が大変なことになるので考え直してほしい」と心配の声が上がった。これがもっとひどくなると、転向を迫られることなのだろうと感じた。しかし自分がいままでやってきたことや生徒にウソをつきたくない。正しいと思えないことをやってはいけない、と考え卒業式で着席した。学校ではいじめに等しい目にあうこともあり、精神的に不安定になる。それを支えてくれるのは生徒の暖かい言葉だ。

高校教員Bさん
10.23通達以降、外の警備や受付などを担当したが、今回はじめて会場に入り不起立をした。
理由は、教員を階層化する東京都の主任教諭制導入だった。これにより普通の日の丸君が代反対者は職場で完全に黙ってしまった。一度にらまれれば給料は上がらないし、再雇用されないと思い込んでいる。日の丸君が代どころではない。みんな試験を受けた。教育はチームでやらないといけないのにタテ系列の、上からいわれたことだけ行う階層制になった。何もいわない、言ってもムダ、聞いていればいいという雰囲気になっている。最大の踏み絵は日の丸君が代であり、日の丸君が代の儀式が核になっている。
こういう状況は教育にとって明らかにおかしい。それに対する「No」を込めて今回不起立しなければいけないと決意した。
不起立に当たり最も悩んだのは、式の進行が乱れ、卒業生や保護者を不愉快な気持ちにさせることだった。ところが実際、不起立してみるとまったくの杞憂であることがわかった。副校長はこっそり「立ってください」と言っただけだし、回りが立っているなか一人座っているだけなので前のほうの生徒にわかった程度で、まったく目立たなかった。

●河原井純子さん

6月はじめに沖縄を訪れた。珊瑚舎スコーレの普通部、高等部、夜間中学部、専門部、沖縄大学の生徒と話をした。
夜間中学のおばぁたちは「君が代は皇室の歌さ、皇室の歌でいいさ」「日の丸は真ん中の赤を取るといいさ、赤は血の色だから。みんな真っ白の旗を持てば戦争なんか起きんから」という。とてもうれしかった。わたしは国旗はいらないと思うが、それは少数派なので、もしいるとすればどんな旗がいいか、そこから論議を起こしたい。
また普通部や高等部の若者は、「いままで当たり前に立ち君が代を歌っていた。しかし「学校は雑木林』を読み、なぜ不起立かわかりました。僕はこれから学校で学ばなかったことを学んでいきたい」と言ってくれた。そこから始めたい。
日の丸君が代の問題に一人ひとりが逃げず、きちんと向き合って、末長くつきあうことが大切だ。

近藤順一さんは「日の丸君が代問題は、学テと同じく、教育に直接介入する重大な問題だ。5年10年踏みとどまらないといけない」と語り、根津公子さんは「分限免職にならずあと2年突っ走りたい。分限免職させないことは、自分の問題だけではなく、東京の教育をこれ以上ひどくしない防波堤になる。なんとか逃げ切ろうと思う。ぜひみなさんの力を借してほしい」と訴えた。
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