多面体F

集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

村山知義のベルリン その2

2012年01月09日 | 村山知義
ベルリンに旅をした。ベルリンを訪れた理由のひとつは、21歳の村山知義がちょうど1年暮らした街を見てみたかったからだ。ベルリン大学の哲学科で原始キリスト教の勉強を志した青年がなぜ美術家や演劇家に「転向」したのか。ベルリンの街は第二次大戦での空襲や市街戦、東西分断と統一があったので90年前の面影はおそらくないと思う。ただその痕跡は見られるのではないかと考えた。なおこの記事は、村山の著書「演劇的自叙伝2(東邦出版社 71.8)のほか「言語都市ベルリン(和田博文ほか 藤原書店 06.10)を多く参考にしている。
1922(大正11)年2月村山知義はベルリンに到着した。第一次世界大戦終結から4年、ヴァイマル憲法制定から3年、巨額の賠償でドイツのインフレが始まったころだった。そのため日本人にとってはとても暮らしやすい時期に当たる。村山は半年前に渡独していた一高時代の友人、和達知男に大きなユッタリした部屋、食事付きという条件を示し、アウグスブルガー街のカイザー・ウィルヘルム教会近くにある賄付きの下宿に住むことになった。陸軍中将の夫をヴェルダンの役で亡くし、3人姉妹をもつ未亡人・シュルツェ夫人が家主だった。村山の部屋は5階建ての建物の3階にあった。
いまは住宅はないが、高級街であることは間違いない。アウグスブルガー街47という地番は、現在スイスホテルの正面玄関、あるいはやや右手の駐車場入り口のあたりである。通りの向かいはコンコルドホテルだった。
本当に教会と目と鼻の距離だった。戦災のままの姿をみることができるかと思ったが、2012年中ごろまで大改修中で残念ながらすっぽりカバーがかかっていた。ただごく一部を観光用に無料で展示していた。天井のモザイクが美しかった。

この下宿に何月までいたかはわからないが、6月27日にはまだこの下宿にいた(自叙伝p69)。この下宿にいたころアンゲルマイヤー夫人(「演劇的自叙伝2」の口絵にあり)を3か月かけて描いた(p59)とある。

いかがわしいストリップ小屋で法外な料金を吹っかけられたことがきっかけで、下宿にいられなくなった村山が、次に住んだのはウィルメルスドルフ区メーリッツ街7番地の労働者街だった。シュッテ夫人という70歳くらいの老未亡人が経営しており、未亡人の肖像を描いた。老未亡人の11歳の姪が夏休みに泊まりにきていて、思いを寄せられ別れるのに苦労したとある。この子のミニアチュア(9センチ×12センチ)の肖像も仕上げた。この下宿には3ヵ月ほどいた。
この家は、地下鉄ベルリナーシュトラーセとブリッセシュトラーセの真ん中くらいの大通りから路地を入ったところにある。路地といっても車3車線分の広さの通りに各4m程度の歩道がついていてかなり広い。その両側に6階建ての建物が立ち並んでいる。7番地は全部で20戸ほどの住宅で、「イシハラ」という日本人と思われる表札もみえた。1階は、オープンテラスのパン屋と小さな保育園だった。定年後の男性2人が新聞を読みながらお茶を飲んでいた。

画家仲間の永野芳光を追い、最後に住んだのはシュテーグリッツ区の「さらに場末」、「今度のところはまったくひどいところで、1階は靴屋、小間物屋、魚屋、食料品屋、理髪店、古道具屋などで、ウォーヌンクはその上にのっかっていた」(p82)と書いている
しかしここは、村山にとって最も思い出深い下宿となった。というのは1階下に住むユダヤ人少女、ゲルダ・マヨロウィッツと出会ったからだ。ゲルダは16歳、英、独、仏、ユダヤ語に堪能だった。父がチェロ、母と息子たちがバイオリン、ゲルダがピアノを弾き、メンデルスゾーンやヘンデルの室内楽を演奏するような家庭だった。そして 戦争未亡人の大家には8歳の男の子と10歳の女の子がいた。その子をモデルにした「エルスベットの像」(10号)やゲルダをモデルにした「或るユダヤの少女の像」(変形10号)を創作した。またこの下宿にいたころのことを素材に、のちに戯曲「勇ましき主婦」(1926)や小説「リヂアの家」(1927)を書いた。大家に「ぜひクリスマスを過ごしていけ」とすすめられたが、年末慌ただしく帰国の途についた。正月はインド洋で迎え、1月31日に東京の自宅に帰宅した。
この家の跡地にぜひ行ってみたかったが、この家の住所だけは本に書かれていない。仕方がないので、地下鉄ラートハウス・シュテーグリッツで下車してみた。少なくともいまは場末ではなかった。赤い壁のゴシック教会のような建物があり、近くに行ってみると役所だった。日本の役所と違い平日昼間に開いているわけではない。月曜は8-15時だが、水・金は8-13時、火・木は11-18時といった具合だ。商店街にはスーパー、看板は中華料理なのにインドネシア人のマスターがやっているアジアン・レストラン、服屋などが並んでいる。そこから200-300mの距離の教会の向かいに1階にかばんや財布を売っている店があった。建物は5階建てだったので、場所も何もわからないが、こんな家に住んでいたのかなあと眺めた。

最後に、ワルデンが経営し1階が本屋兼画商、2階に表現主義のシュトルムの事務所があったポツダマー街12番地(現在134a)に行ってみた。
村山は和達にこの店を教えられ表現主義の画集を次々に買い込む。
ポツダム広場(場所はポツダマー街から1.5キロほど北東)の新ナショナルギャラリーで20世紀前半の美術展をみた。村山が訪れたのは、キルヒナーやエミール・ノルデらのドイツ表現主義が台頭し始めたころで、新即物主義より少し前の時期である。
村山がベルリンでまず引きつけられたのは、アーキペンコの30センチくらいの彫刻だった。しかしワルデンの紹介で本人に会ったとき、「どの作品がどこの美術館に買い入れられた」という話ばかりするので幻滅し、次はカンディンスキーに夢中になる。
「『いったいこんなに美しくてもいいのだろうか?』と心のなかで叫んだ」(自叙伝 p18)と書くまで好きになった。帰国後23年8月に「カンディンスキーの劇および劇論」を書いている。

グロッスの「Grey Day」
またグロッスに対しては「彼は芸術を通して、私の目を初めて社会に向けて目を開かせてくれた恩人であった」(自叙伝p19)と書いている。「左翼活動」への関心はこのあたりからかもしれない。
新ナショナルギャラリーにグロッスの「Grey Day」(1921)が展示されていた。1921年グロスはすでに地下生活に入っていたようだ。
次に魅了されたのがパウル・クレーで「子供の幻想のように素朴で、しかもいまだかつて見たこともない、洗練された感覚である」(p35)と書いている。
村山がいた1920年代にはポツダマー街はベルリンの目抜き通りだったようだ。たしかに道路はいまも広いのだがさびれた感じで、シュトルムの事務所があった場所には化粧品と薬を売る店があった。
カンディンスキーもクレーも、グロピウスが1919年から初代校長を務めたバウハウスのマイスターだった。地下鉄ノレンドルフの北にあるバウハウス資料館でわたしの目を引いたのは数々の舞台美術だった。1928年にダッソウで上演された「Jonny spielt auf」という作品のデザイン画が12点展示されていた。またナジの「ホフマン物語」(オッフェンバック、ベルリンKrollオペラ 1929)や驚くべきことにカンディンスキーの「展覧会の絵」(ムソルグスキー ダッソー劇場 1928)の舞台画まで展示されていた。当時は、舞台は総合芸術なので美術家が腕を競い合ったようだ。アルノルト・シェーンベルク作曲の「幸福な手」というオペラの作品も展示されていた。帰国後、村山が舞台美術を積極的に手がけたのも、当時の風潮からするとごく自然な流れだったわけだ。

☆新ナショナルギャラリーの入り口で「ベルリン 大都市のシンフォニー」というドキュメンタリー映画の一部を見た。1927年の作品なので、村山訪独より5年ほど後のフィルムだが、ベルリンが芸術のみならず、産業、交通、スポーツ、娯楽の大都市であったことがよくわかった。スクリーンに社交ダンス、レビュー、女子アイスホッケーなどが映し出された。ヨーロッパのなかの後進国、第一次大戦の敗戦国とはとても思えない活気に満ちた都市だった。
一方、いまのベルリンは、中心部全体がみやげもの屋とホテルが並ぶ観光都市だった。ポツダム広場のように高層ビルが立ち並ぶ一角もあるが、日本でいうと上野や浅草のような街だった。
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