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集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

原発敗戦の年の12.23反天連集会

2012年01月02日 | 集会報告
恒例の天皇誕生日の反天皇制運動連絡会の集会が12月23日午後、千駄ヶ谷区民会館で開催された。青空で天気はよかったが、寒い午後だった。
この日のテーマ、「原発ファシズム・天皇制」の原発ファシズムとは、山本義隆氏が「福島の原発事故をめぐって」(みすず書房 2011)で使った言葉で、政官財、学会、マスコミが一体となり原発推進翼賛体制をつくりあげた遂行方法を指す。
この日の講師は田浪亜央江さん(ミーダーン〈パレスチナ・対話のための広場〉)、山口素明さん(フリーター全般労働組合共同代表)、天野恵一さん(反天皇制運動連絡会)の3人だった。

左から山口さん、田浪さん、天野さん
●天皇と原子力 天野恵一さん(反天皇制運動連絡会)
これまで12月の集会では、天皇制の戦後責任を考えてきた。今回はあまりいわれたことのない問題だが、天皇の原発推進責任について、アウトラインをお話する。
3.11後、人家がなく瓦礫だけ残った風景をみて、年輩の人は敗戦がもう一度やってきたと感じた。これは、風景そのものだけではなく、国家がホラを吹いて戦争をやらせていたのが敗戦でベールがはがれ、支配者はウソツキだと実感して風景が違ってみえたせいもある。敗戦のあと天皇は戦争責任を「忘却」させるため地方巡幸したが、今回も天皇が慰霊巡幸した。
また戦前との連続性を裏で演出したのは天皇だった。天皇は松平康正式部官長、ニューズウィークのパケナムとカーンを経由してダレスに「巣鴨プリズンや公職追放の政治家や財界人は役にたつ」とメッセージを伝えた。そしてA級戦犯だった岸信介は55年以降自民党の領袖になっていく。
戦前の旧財閥は戦後、原子力産業において足並みを揃えて復活を遂げた。藤田祐幸「戦後日本の核政策史」(影書房 2007)によれば、原子力委員長に就任した正力松太郎は、1956年2月産業界の代表71人を集め、原子力産業会議を準備した。そして55年10月から56年4月にかけ三菱グループ(32社)、住友グループ(住友原子力委員会 14社)、三井グループ(日本原子力事業会 37社)が次々に復興した。旧財閥系以外に日立製作所など16社の原子力事業会、川崎重工業など25社の第一原子力産業グループも結成された。
原爆は本土決戦によりアメリカの青年100万人が死なずにすむように落としたとか、日本を無条件降伏させるため落としたというアメリカの主張はウソだ。戦後アメリカが核大国として原発外交を展開し、ソ連に優位に立つには原発投下が必要だったからだ。天皇が延命を図るため、敗戦受諾をぐずぐず延ばしたので、トルーマンは原爆投下の口実に使った。こういう意味で原爆投下にも天皇に責任の一端がある。
59年5月に晴海で開催された東京国際見本市に小型原子炉UTRが出展された。視察に訪れた天皇は柵を取り払って階段を上がり、炉心部を見下ろした。まさに「天覧」原子炉であり、天皇が原子力の平和利用の宣伝に積極的に動いた一例である。

●「笑顔のファシズム」と原子力の「平和利用」
      田浪亜央江
さん(ミーダーン〈パレスチナ・対話のための広場〉)
今回の原発事故に際し、山下俊一・福島県放射線健康リスク管理アドバイザーは「ニコニコ笑っていれば放射能の被害は受けません。クヨクヨしていれば受けます」と講演で語った。県民から非難の声がわき起こったがくじけない。「永井博士がずっとそうだったから」と理由を語った。そこで永井隆とはどういう人物だったのか調べてみた。
永井隆(1908年2月3日―51年5月1日)は松江生まれ、長崎医大を卒業し放射線科の医師となる。原爆より前の45年6月白血病で余命3年と診断された。7月教授に昇進し8月に大学で被爆した。妻は即死。11月の合同葬で弔辞を朗読、その後「この子を残して(48年)、「長崎の鐘(49年)などを発表し、51年5月43歳で亡くなった。
永井を批判する視点はいくつかある。80年代には「浦上燔祭(はんさい)説」という批判が出された。これは永井が合同葬の弔辞で「世界大戦争という人類の罪悪の償いとして、日本唯一の聖地浦上が犠牲の祭壇に屠(ほふ)られ燃やさるべき潔(きよ)き羔(こひつじ)として選ばれたのではないでしょうか」と述べたことに着目し、犠牲者をいけにえとするのは、天皇の戦争責任やアメリカの原爆投下責任を免罪にするものだという批判だった。
また「長崎の鐘」を脱稿したのが46年で出版許可が下りたのは49年と3年のタイムラグがあるのはアメリカの検閲のせいで、永井やこの作品はアメリカの宣伝に利用されたという批判もあった。たしかにこの本の1/3は特別付録「マニラの悲劇」である。また49年に天皇が九州巡幸し永井を慰問したことに対し、永井が「巡礼」と評し天皇崇拝者の側面をあらわにしたことも批判された。
しかし3.11以降の文脈でみると、永井の原子力エネルギー礼賛を批判しなければいけない。永井は被爆者だが、「いよいよ原子時代になりましたね。原子力を自由自在に使うようになると、世の中がすっかり変わりますよ(略)飛行機、汽船、汽車、自動車。そんな交通機関はみんな原子力で動くから(略)地球が一つの家みたいになってしまいます。(略)狭い国土と人口問題などは解消して産児制限などをまじめに考えるばかはいなくなります」という文章を残した(「原子野録音」)。
この背景として、戦時中、理論科学をはじめとする科学者が冷遇されたこと、軍部の方針が非科学的だったこと、クリスチャンとして神が人間の目から隠したもの、すなわち原子力エネルギーを人間が努力して見つけ出すという信仰上の見解、原爆病という新しい病気を研究しようという「科学者魂」などが挙げられる。
なぜ日本は被爆国なのに原発大国となったのか。被害を受け自分だけが生き残ったという罪悪感にさいなまれた人は多かった。それでも死なずに生きていこうとするとき、永井の燔祭説にすがることで、前向きな気持ちで生きていけることは、わからくはない。逆にすがりたいわたしたちがいる。こういう角度からこの問題を考えたいとも思う。

●少数の被爆労働者と多数者は、どうすればつながれるのか
       山口素明
さん(フリーター全般労働組合共同代表)
3.11直後の17日にわたしたちの組合は「グスコーブドリのいないイーハトーヴはいらない」という声明を発表した。まず頭に浮かんだのは、原発事故収束のために働いている人を英雄視し英霊化するシステムが働かないかという懸念だった。だれかを死地に追いやり、安全な場所でわたしたちのために働いてくれていると称賛するようなことは倫理的にやってはいけないと思った。第二に、こういう事態を招いた責任を雲散霧消させないこと、責任者は名指しされるべきであること、第三に、情報被爆からどうして抜け出すか、町に出ていろんな人と話行動しよう、というものだった。
ところがそのように行動しようとするとなかなか難しかった。
まず倫理的な姿勢についてだが、思ったほど被爆労働者は「英霊化」されなかった。被爆労働者は圧倒的に少数の問題である。放射線管理手帳の発行数は1年で1万1000冊程度、40年で単純に掛け算すると40万人に過ぎない。これに対し、雇用労働者は6000万人、派遣労働者は400万人いる。これが原発問題を考える際、基底に置くべき事実である。
次に責任の問題だ。原発の被害はみんなの問題、多数の問題だ。だから多数を被害にあわせて金もうけする人の責任を追及すべきというのが、多くの反原発運動が前提とする図式だ。それに同意する気持ちもあるが、半面、首都圏に住み過疎地に立地した原発の恩恵を受けている「受益者」として福島への責任も感じる。こうした問題に対して、「受益」や「被害」についてもうすこし精緻に考えないと、ざっくりした責任論となってしまう。
その後、4月半ばに、組合員に電話かけし個別アンケートを行った。組合員は派遣労働や有期雇用の20-30代が中心だ。「震災後の状況変化」については「変化なし」という答えが多かった。震災前から失業やクビを切られることが多かったからだ。また「不安に思うこと」という質問には、3割くらいが「原発」「放射能」と答えたが、多くは「取り立ててない」という答えだった。はじめ、被害が薄く広く共有され、それをバネに責任を問うという仮定を立てたが、いかに難しいかということだ。社会がだんだん原発事故を気にしなくなるなか、労災前提の職場で日常的に被爆している少数の労働者とつながっていくことは難しいと実感した。
責任の問題で、あまり追及されていないことで株主責任がある。東電はいままで1株60円、年間900億の配当を実施してきた。配当は原発の収益から出ている。大株主は第一生命、日本生命などだが、いままでもらった配当を返還させるべきだ。返還なしに料金を値上げされるのは腹立たしい。もちろん経営者にも責任があり、ちゃんとけじめをつけてもらうべきだ。
被爆労働を担うのは少数者だが、多くの人とどうすればつながれるか。原発も人が動かしているのだから、多くの人とつながり被爆労働する人がいなくなれば、必ず原発は止められる。少数者とつながることが課題である。

●2010年の「総目次」を作成した。リンクさせたので、参考にしていただけると幸いである。
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