多面体F

集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

朝鮮に渡った村山知義

2008年06月06日 | 村山知義
村山知義が敗戦前後に朝鮮にいたということは聞いたことがあった。しかし、どういう目的で朝鮮に渡ったのか、そもそも危険人物視されていた村山が、なぜ自由に外地を訪問することができたのか、不思議に思っていた。
この事情がわかる本を読んだ。「現代史の証言5 八・一五敗戦前後」(汐文社 1975年8月15日)である。16人の回顧が収録されており、村山は「朝鮮での敗戦」という17pの文を寄稿している。村山が朝鮮でどんな活動をしていたかよくわかった。

村山は1940年8月に検挙され3度目の入獄をした。いままでの豊多摩刑務所ではなく巣鴨刑務所だった。42年8月懲役3年の一審判決が下りたが執行猶予は付かなかった。
44年4月二審の判決で懲役2年執行猶予5年と刑が確定した。
その後、この裁判長に招かれ世田谷の自宅を訪れる。
「目下軍部は万一日本の敗戦を予想して、君達のようなものを、ドイツの(ような)コンセントレーション・キャンプに閉じ込める準備をしている。万一敵軍上陸ということになれば、君達を皆殺しにしてしまう予定だ。僕は君の芝居をいくつか見ている。君を殺させるには忍びない。そこで一計を案じて、君を朝鮮にやりたいと思う。京城の最近出来た朝鮮演劇文化協会に僕の知っている男がある。彼に紹介状を書いてそこの嘱託という名義にしてあげようと思う。(略)」
まるで芝居のような話だが、こういういきさつで45年3月村山は朝鮮に渡った。乗船したのは最後の関釜連絡船だった。
村山は新協劇団の「春香伝」公演などでそれまでに2度朝鮮を訪れたことがあった。下宿したのは、古くからの知人、趙澤元の東大門区敦岸町にある自宅だった。趙は石井漠門下の舞踊家だった。当時、朝鮮語の芝居はだんだん止め、日本語の芝居にするという総督府の方針があった。しかし村山は朝鮮語で映画「春香伝」をつくろうと思い立ち、シナリオを書き、斉南周をプロデューサーとし、主役も選んだ。一方オペラ「春香」を朝鮮語でやることにし、興行社と契約書を取り交わし、初日を8月19日ときめた。
また満州映画の木村荘十二(そとじ)に舞踊を中心とするシナリオを書いて送っておいたところ実現することになり主役の踊り手、陳寿芳を紹介するため長春に出張した(なお陳寿芳は事情があり訪問できなくなった)。ところが街の様子をみると現地の人の顔が、いままでとは違い、敵視するような顔だった。「これはもうあぶない」と直観し、すぐに京城に戻ると数日たたぬうちに8.15となった。
村山は趙澤元の家族とともに玉音放送を聞く。「私は私のまわりに張りめぐらされた悪魔の網が今やハッキリと切り裂かれたと思い、全身宙におどるような思いで、思わず両手を挙げて「万才!」と呼んだ」と書いている。

戦時下でも生き生き活動しているように思えるが、敗戦後さらに積極的な活動お開始する。「革命劇場」という劇場が、それまで禁止されていた芝居をやり始め、村山もゴーゴリの「検察官」を演出した。中国に脱出中の金史良が京城の村山を訪ね、塹壕のなかで書いた「胡蝶」という戯曲を日本語に訳し読みあげた。その戯曲に感動した村山は上演を決め、装置も衣装も描いた。日本人狩りが始まっても「私は一般の日本人とは全く違う『朝鮮人の友達』だと思われていたから、平気でいた」と書いている。また朝鮮にいた9か月で肖像画を71点描いたともある。
しかし朝鮮人の友人に「一応、日本に帰った方がいい」「もうこれで帰還船は最後になるぞ」といわれ、とうとう45年12月に日本に帰ることになった。
村山自身は、まだまだ朝鮮にいたかったようで「おためごかしの勧説」のためなどと書いている。9か月の朝鮮滞在となった。
考えてみると、1922年のドイツ滞在も1年だったが収穫は大きかった。

☆村山はいつもエネルギッシュで楽天的なようにみえる。1941年7月「興行取締規則98条」により「一切の業務」を禁止され、小説も戯曲も書くことを許されず、演出をすることも、舞台装置をすることも禁じられてしまった。
そんな状況でも、本人の了解を得て名前を借り1942年「閣下」(北条秀司)、12月「あしたの茶碗」(堤千代)を演出、1943年には「岩崎谷」(真山青果)「桑港から帰った女」(菊田一夫)「米百俵」(山本有三)「わが町」(織田作之助)など13本、1944年には「無法松の一生」(岩下俊作)「名器の思い出」(堤千代)など4本を演出した。
ただ「演劇的自叙伝」もそうだが、数十年もあと(この本では30年後)に書いた本なので記憶違いや、昔のいやなことは忘れ楽しかったこと中心に書いている可能性は大いにある。たとえば二審判決を1942年暮れと書いているが、事実は6月らしい
☆「現代史の証言5」は敗戦50周年の8月15日に発刊された。1901年生まれの村山知義と古在由重(哲学者)から1919年生まれの永井智雄(俳優)まで、阿木翁助(劇作家)、黒田了一(大阪府知事)、羽仁説子(評論家)、山本安英(俳優)など16人が8.15の自分の思い出を書いている。八田元夫(演出家)はサクラ隊に参加し原爆で被災した丸山定夫をやっと発見したが翌16日死去する。山本安英(俳優)はラジオの「護持院ケ原の仇討」に出演するため疎開先の蓼科から上京したがNHK正面玄関で兵隊に通行止めされてしまった。柳沢恭雄(ジャーナリスト)はNHKの報道部で、正午の降服ニュースの編集責任者を務めた。
戦時中は社会主義者として苛酷な体験をした人が多く含まれ、それぞれの体験談には戦争反対、再軍備反対の迫力がある。かつてはこういう証人の話を聞くことができたが、1945年に25歳の人はいまや88歳、だんだん難しくなりつつある。一方、安倍、中川、麻生などタカ派政治家の勢力が強くなってきたように感じる。
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