多面体F

集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

千田是也と村山知義

2008年01月21日 | 村山知義
こ早稲田の演劇博物館(正式名称は早稲田大学坪内博士記念演劇博物館)で「集団の声、集団の身体――1920・30年代の日本とドイツにおけるアジプロ演劇」をみた。

アジプロとは、アジテーション(扇動)とプロパガンダ(宣伝)という二つの言葉の合成語で、特定の劇場を活動の場とするのではなく、工場や路上で上演するため移動することが特徴だった。
展示品は、俳優座の中心人物・千田是也のコレクションとドイツから借用したものが主だった。
アジプロ演劇は1920年代にソ連で始まった。代表的な劇団はレニングラードのトラム(労働者青年劇場)とモスクワの青シャツ隊だった。ドイツではワイマール共和国の「黄金の20年代」に1927年創設されたベルリンの「赤いメガフォン」をはじめ、ケルンの青シャツ隊、ハノーファーの「振るえ左」、デュッセルドルフの「振るえ北西」など数多く存在した。ドイツの展示品には、屋外舞台や路上での上演写真も数多くあった。ビオメハニカという器械体操のような身体訓練法もオリジンのひとつであるようで、数人の役者による決めポーズが多くあった。また1932年の「赤いメガフォン」の路上上演風景(ブレヒトがシナリオを担当した映画「クーレ・ヴァンペ」から4分ほど抜粋したもの)をビデオで流していた。シュプレヒコールも混ざり、「集団の声、集団の身体」というテーマがよく理解でき、観客の熱狂ぶりがよくわかった。当時、ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)は1930年6月の選挙で議会第2党に躍進し、32年7月には第1党になる途上にあった。一方ドイツ共産党も議席を伸ばしていたがその宣伝に使われたもののはずである。熱狂の様子は、その後のナチスの党大会のフィルムと似ていた。
日本では、1926年1-3月の共同印刷の争議に八田元夫や柳瀬正夢がトランク隊を組織し上演したのが最初である。トランク隊の一部が26年12月前衛座を結成、分裂・再統合ののち28年4月東京左翼劇場を結成したが、2mくらいある大きな旗が展示されていた。
千田は村山知義の3歳年下、村山に5年遅れて1927年4月にベルリンに渡り1931年11月に帰国した。千田はベルリンの赤シャツ隊や「劇団1931」に参加した。帰国後その経験を生かしメザマシ隊(前身は、東京左翼劇場のメンバーが分派したプロレタリア演芸団)でアジプロ演劇活動を活発に行った。

さて、村山と千田の関係である。この展覧会では村山の「ロビンフッド」のパンフ(1926)や「日本プロレタリア演劇論」(天人社 1930)の展示はあったものの村山への言及があまりにも少ない。そこで大笹吉雄「日本現代演劇史・昭和戦前篇」(白水社1990)で調べてみた。千田のベルリン出発の前年26年10月千田、佐々木孝丸、青野季吉らが前衛座を結成し12月にルナチャナルスキー(ソ連の初代文部大臣)の「解放されたドン・キホーテ」を上演したが、これは千田の訳で舞台美術を柳瀬と村山が担当した。千田は革命家の役、村山は反動の親玉・ムルチオ伯爵役で舞台に立っている。
千田がソ連やドイツに行っている間に、前衛座は前衛劇場と名を変え村山作の「ロビンフッド」で旗揚げ公演し、28年4月にはプロレタリア劇場と合同して東京左翼劇場を結成し第1回公演「進水式」を上演していた。29年2月にはナップ(全日本無産者芸術団体協議会)が結成され、美術、映画、作家、音楽など専門団体の一団体として演劇団体プロットが設置され、村山は佐々木、佐野碩、中村、小野宮吉らと並び執行委員の一人になっていた。その後30年5月に治安維持法違反で検挙され12月まで収監された。
千田は1931年11月末に帰国し、12月初めにプロットのメンバーにドイツの労働者演劇の現況を報告したとある。村山は、小野、杉本良吉、中村らとともに幹部だったので報告を受けたのだろう。プロットのメンバーとともに撮った千田の写真が展示されていた。いまそのまま現れても、まったく不自然でないような若者の姿でびっくりした。千田は32年からメザマシ隊で活動したが、村山は32年4月再び検挙され33年12月まで獄中にいたので千田との接触はなかったと思われる。このように千田と村山は点ではつながっていたが、村山の投獄と千田の留学で線のつきあいはなかったようだ。

早稲田大学坪内博士記念演劇博物館
☆昨年3月、増田さん支援のため黒マスク、黒マント姿でコントを上演したことがあった。この展覧会をみて、あれはまさしく現代版アジプロであることがわかった。
☆東西線の駅に向かう途上、早稲田銅羅魔館を発見した。昔、早稲田小劇場(現・SCOT)の芝居を一度だけ見たことがある。かぶりつきでみたら頭にキャベツが山のように降ってきた(「鏡と甘藍」)。その劇場がまだ残っていてうれしかった。ただしオーナーは早稲田大学に代わり、名称もひらがなの「どらま」になっていた。

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