続・エヌ氏の私設法学部社会学科

無理、矛盾、不条理、不公平、牽強付会、我田引水、頽廃、犯罪、戦争。
世間とは斯くも住み難き処なりや?

宇垣纏(1890-1945)

2012-07-24 | 史学講座
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 先にお断りしておきますが、私は戦争を心底憎んでおり、武人を尊敬することは、古今東西あり得ません。(政治家として、または人間としての尊敬は別として)
 これは駄文「歴史上の英雄と戦争・人間」にも記したとおりです。

 しかし、尊敬はしませんが、歴史を学ぶにあたって最も重要な観点、「人間とは何か」および「それを自分にどう活かすか」を考察する上で、非常に興味を惹かれる人物はいます。

 その中の一人が、表題の人物、宇垣纏(うがきまとめ)です。


*以下の駄文において、宇垣纏の評価に対する異論は、一切受け付けません。

 宇垣纏海軍中将は、太平洋戦争末期、爆弾を抱いて敵艦に体当たりする、いわゆる「特攻」を立案・計画、そして数多くの兵士に実行させた中心人物です。
 そして終戦の日の夕方、つまり玉音放送が流れた後に、部下十数名を連れて出撃し、宇垣自身を含めて全員が帰還しませんでした。
 しかし玉音放送の「後」、つまり終戦後に出撃し未帰還となったため、戦死とはされず、宇垣の行動は「部下を道連れにした自殺」との評価が大勢で、戦死ではないから階級の特進もありませんし、長い間、靖国にも祀られていませんでした。

 ・・・このあたり、学識者の間でも、玉音放送を以って「終戦」とするか、宇垣が出撃前に語ったように「玉音放送はあったけれど、停戦命令はまだ届いていない」の弁を支持するかで、論争は止みません・・・ので、異論は受け付けない次第です。悪しからず。

 いずれにせよ、宇垣の行動が計画的で、終戦~勝利にしろ敗北にしろ~の際には、自分が死へ追いやった数千名の部下たちに対し、冥土で詫びるつもりだったことに疑いの余地はありません。
 写真は、最後の出撃直前に、自分の棺桶となる「彗星」の前で撮影されたものですが、どう見ても、とてもこれから死に行く人間の顔ではなく、むしろ晴れやかで喜ばしい表情であり、宇垣自身、「自分に武人としての死に場所を与えてくれ」と言っていることからも、その表情には、「これで、やっと死ねる」という安堵が観て取れます。
 それは、特攻を行った兵士たち自身は言うに及ばず、死を命令した側の、苦悩の裏返しが、こうした表情を創ったのでしょう。

 と、ここで宇垣に対する評価の大団円を演じてもいいのですが、まあ、それは歴史家に任せましょう。・・・どうせ決定的な結論は出ないでしょうから。

 さて、私が宇垣に興味を持ったのは、まさに、この写真を見てからでした。
 憎むべき戦争という愚行の最中において、さらに特攻という自暴自棄な作戦を実行した人物が、場違いとも言える程、このように穏やかな顔で死地に赴いた、それは歴史に学ぶ上で、「人間とは何か」という私の考察心を呼び起こすに十分過ぎる写真でした。

 そうして宇垣について調べるうち、驚くべき事実に突き当たりました。(研究者にとっては、別段驚くことではありませんが)

 宇垣が出撃したのは、わが郷里、大分基地からだったのです。
 当然、写真も大分で撮影されたものです。
 これだけでも、郷土を深く愛する私には、興味をそそるに十分なのですが、さらに私個人にとって、「大分基地」というものが、重要な意味を持っています。

 大分市にあった航空隊大分基地は、戦後、民間の大分空港として生まれ変わり、同地に新日鐵大分製鐵所ができるまで、大分の、空の玄関口として活躍しました。
 その、旧大分空港の南側、少し離れたところに、父の実家(私にとっては祖父の家)があり、また、祖父の畑が空港のすぐ側にあり、私自身の幼い記憶にも、畑仕事を手伝っている向こうに、旅客機が発着していた様子があります。

 この話を父にしたところ、終戦当時14歳だった父も、基地があったことは憶えていて、「兵隊さんが、飯の入った桶を運んでいるのを見た」と言っていました。(その兵隊が、運んでいる飯を手づかみで盗み食いしていたのを見て、「こりゃ、日本はもうダメだ」と思った、とも言っていましたが)
 そうすると、もしかすると父は、宇垣中将を目にしたことがあるかもしれませんし、さらには、片道切符を手に離陸する宇垣機を、そうとは知らず見送った可能性だってあるかもしれません。
 戦争下での、海軍中将の所在などは極秘事項だったでしょうし、当時の父に、将兵の階級や顔の判別などつこうはずもありませんから、今となっては、確かなことは何一つありません。

 そして、旧大分空港の移転以来、田園は都市へ変貌し、祖父の畑も今は幅40mの道路になってしまいました。
 しかし、私のおぼろげな記憶にある昭和40年代初頭の長閑な田園風景は、昭和20年当時と大差ないはずで、宇垣中将が最後に見た、その同じ空や風景を、父も私も見た、とは言えると思います。

 日本にとって忌まわしい記憶の最終章が、人も景色も、かくも穏やかであったこと、それが戦争を知らない私の記憶にもつながっている、「歴史」が「現在」につながっているという、頭で理解していたはずのことを、電撃となって実感させられた瞬間でした。

 これらの事実から翻って、「人間とは何か」を考察すれば、私は、特攻などという愚かな作戦を指揮した者とは、どのような鬼畜であろうかと想像していたのですが、写真で見る宇垣の顔は、まるで仏のようで、人間はやはり人間であった、という結論に至ります。

 また、「それを自分にどう活かすか」を考察すれば、子供たちの教科書には、私や妻が現実として見聞きしてきたことが、「歴史」として載っており、私たちの年代には、歴史の生き証人として、それらを後世に伝える責務があると思います。・・・父が私に語ってくれたように。

 さて、では次男坊の、社会科の宿題でも手伝いましょうか。

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2 コメント

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伝えていく (mari)
2013-07-02 02:53:34
私が小学生の時の事件を思い出す時、

東大安田講堂事件・よど号ハイジャック・あさま山荘事件のテレビからの緊迫感を思い出してしまいます。

そして話題になる度に子供たちにも伝えてきました。

また
出征の直前で終戦になった父の話や焼夷弾から裸足で逃げ回った母の話も、

伝えてきた、つもりでした。

最後は「だから戦争はだめ」という言葉で締めていましたが、

エヌ氏のいうように「なぜだめか」を考えなくて伝えていかなくてははなりませんね。
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体験した歴史 (エヌ氏)
2013-07-02 16:35:49
 mariさん、こんにちは。
 覚えている事件や、父上の年齢からして、ちょうど私と同じか、少し上と拝察いたします。

 私は、安田講堂は、学生運動というものを理解する年齢ではなったため、記憶にありませんが、よど号とあさま山荘は、よく憶えています。

 息子の、社会科の教科書を見ると、私たちがテレビの生中継で見た、2001年アメリカ同時テロさえも、「歴史」として載っており、「オレの体験は、もう、歴史なのか」と、自分の歳を、実感せざるを得ませんでした。

 しかし逆に、先達が私たちに、戦争の実体験を語ってくれたように、私たちも、実体験を後世に伝えていく義務があるのだと、その時、はっきり認識しました。

 私たちには、単に命を次世代へ引き継ぐだけでなく、先人の知恵を引き継ぎ、さらに、先人の(私たちも含めて)過ちを繰り返させない責務があります。
 しかし残念ながら、知恵は引き継がれず、過ちは繰り返されるのが現実です。

 しかし諦めず、一人でもいいから、ひとつでもいいから、若い世代には、私が持っているものを受け渡して生きたいと思っています。
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