続・エヌ氏の私設法学部社会学科

無理、矛盾、不条理、不公平、牽強付会、我田引水、頽廃、犯罪、戦争。
世間とは斯くも住み難き処なりや?

食育基本法・事例編、お金があるのに不幸せ

2010-11-07 | 法学講座
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 お金があるのとないのでは、どちらが不幸せだと思いますか。

 もちろん、ない方が不幸せです。
 お金があって不幸になった例はごく稀ですが、お金がなくて不幸になった例は、古今東西、枚挙に暇がありません。

 ただし、お金があっても、自ら幸せになる機会を放棄している場合があります。

 私が子どもの頃、外食などというのは、お祝いごとでもあったときだけで、普段は、家で倹しい食事をしていました。
 特に牛肉などは高価で、スキヤキといえば大ごちそう、ビーフステーキなどは、だいぶ歳が進んでから初めて口にしたもので、美味かったと言うよりも、こんな豪華なものを食べたという満足感で、腹が一杯になりました。
 また家族揃って外出するときは、母が弁当をこさえて、水筒にお茶を詰めて出かけたものです。

 現在では、スキヤキでもステーキでも好きな時に食べられ、外出すれば、どこにでもレストランはあるし、喉が渇けば、自動販売機でジュースでもお茶でも売っています。
 社会は豊かだし、我が家の家計にも、人並みにそれをするぐらいの余裕はあります。

 しかし、それは幸せなことでしょうか。

 レストランの食事は、確かにおいしいですが、少なくとも母親の愛情はこもっていないし、注文して、料理がきて、お金を払うだけでは、食を通じて子どもに教えてあげられることは何もありません。

 食事とは、ただ単においしいものを食べることではありません。
 昔から、どんな名料理人でも、奥さんの手料理には敵わないと言います。

 まして、母親が愛情こめて子どもに作ってあげるお弁当は、子どもの体だけでなく、心をも養うことになります。
 また、朝早くから、せっせと弁当の準備をしている母親の姿を見せることは、両親への感謝の気持ちや、食べ物の大切さを教えることにもなります。

 そして、弁当を食べながら、「ほら、○○ちゃんの好きなタコさんのウインナーだよ」とか「××ちゃんは三角形のおにぎりに、海苔を巻いたのが好きだから、お母さん、頑張って作ったよ」といった会話は、手作りの弁当でなければ絶対に味わえない、食事そのものの味を超えた「醍醐味」です。

 おいしいものを食べられるのは、幸せなことです。
 弁当やお茶など重たいものを持って行かずに、手軽に食事ができるのは幸せなことです。
 でも、母親が作った弁当を、家族みなで囲む幸せに優っているでしょうか。

 レストランで食事をする程度のお金があるばかりに、「作るの面倒くさいし、重たいし、外で買えばいいや」と、そうした幸せを逃がしていませんか。
 外食するようなお金がなければ、必然的にお弁当となりますが、かえって、そうした幸せを逃すこともありません。
 悪いのは、中途半端にお金がある場合かもしれませんね。

 我が家の外出?
 カミさんが弁当を作っている横で、私は、水筒や荷物の準備に余念がありません。

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