焼津名物 “炎の弾丸男!!”    【富士山通信 Vol.2】

“百見は一体(体験)に如かず”を信条とし、持続可能な人類、世の中を目指し、人間性の向上と楽しい人生を目指すパワフルな鮪屋

ペリー&ハリス 

2008年04月28日 | ひとりごと!

毎度 焼津名物 炎の弾丸男!!でござる。

昨日の江戸東京博物館のつづき。

前日よりスタートした
ペリー&ハリス 展の開催を記念して

『泰平の眠りを覚ました男たち』というタイトルで  井沢元彦さんの記念講演が行われていたので、お邪魔しました。

面白い内容でしたが、前日の夜更かしが崇り、ところどころウトウト。

そんな状態で携帯にメモったことは以下

 鎖国をした江戸時代は内外での争いが無かったために武器改良があまりになされなかった。

 鋼鉄を作る溶鉱炉がなかったので、日本大砲は銅製で弱く 、遠くに飛ばすことができなかった。
 一方、鋼鉄製の黒船のは丈夫で遠くに飛ばすことができ、さらに弾がカートリッジ式で火薬が詰められていたので、その威力と性能に大きな差があった。

そんな状態で(大砲の性能の差を理解してなかった?)薩摩・長州は外国と戦い(薩英戦争馬関戦争)に負けたために開国を悟る。

多くの人はアメリカの開国を求めた最初の動きがペリーの黒船と思っているが、ペリーの前任者ビットルが1846年に黒船で来ている。
さらに民間では1837年天保8年にモリソン号が来ており、当初は友好的条約締結を希望していた。

渡辺華山高野長英らの蘭学者は開国を訴える


友好的な開国が断れ続けたので、ペリーは脅して条約締結を迫った。
治外法権、関税自主権なしの不平等条約

ペリーは相当強引な人柄だった。

以上、こんなところでしょうか?

それにしても今からたった150年ほど前の日本は国内外事情において大変エキサイティングで、すばらしい人材が多くいたようですねぇ。

益々いろいろ知りたくなった。

そう、おかげで昨晩の篤姫はいつも以上に時代背景を踏まえ大変楽しく観る事ができた。

さて、150年後に今の世の中はどのように描かれるのでしょうか?

不人気でハッキリしない総理大臣が舵を取ったこの世の中は・・・(汗)

では・・・

PS.結局江戸東京博物館も半分しか見ることができなかったので、次回東京に行って時間ができたら行くことにします。
 是非皆さんもどうぞ!! 
 双眼鏡でジオラマ見るの嵌りますよ!

 

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