PICO's BLOG~きままな日記帖~

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大般若経展その歴史@美術博物館

2016年03月14日 09時41分58秒 | 街中暮らし

今日は昨夜半からの冷たい雨が降っている。

庭に咲く黄色の水仙はあざやかだ。

そして雨のホワイトデー。

 

昨日は大般若展に行って来た。

すっごく地味な展示会ですが、興味のある人は熱心に見入っていました。

わが町石巻神社に所蔵されていた大般若経の展示と講演、

100名足らずの参加者ですが、その研究成果発表をした

愛大大学院の学生と奈良元興寺文化財研究所研究員、愛知県立大学教授

のお話はすごく興味のあるものでした。

まず基調講演では愛知県立大学教授:上川さん

仏教伝来の系図とそこに関わった人々、インドで起こった釈迦の思想が

どう中国、日本に伝わったのか、その時どのようにお経は伝わったのか、

インド語(その頃はまだインドという国は形成されていなく釈迦はマガダ語で

弟子に説教をしていた。釈迦入滅後200年以上経った時代に、その孫弟子

たちがサンスクリット語で書き残した、これがお経の元となった。

そのご645年ごろ(日本では大化の改新のころ)玄奘三蔵がインドに行き

仏典を中国に持ち込んだ(孫悟空にみられる)

その頃大般若経も持ち込まれた。

そして中国ではそのサンスクリット語を漢文に翻訳した。

それを遣唐使員たちが日本に持ち込んだ。しかし日本ではその漢文、漢字を

そのまま書写した、ここに仏教史的に大きな違いがある。

その漢文を日本語の音読みをして伝えた。日本へは6世紀に

仏教を導入、政治的に利用する。

よって大和から畿内、全国と政治ルートを使って広まっていった。

広めるためにはお経は数多く必要となる、そこで書写が始った。

奈良時代は下級官人が仕事として書写しており、誤字脱字があると

給料を減らされるなど、業務としての書写であった。

そして平安半ばまで僧侶や貴族が写経するようになる。

平安後期(院政期)から中世に入るが、その頃から勧進という

費用と労力を募る方式が取られるようになる。

それは貴族や僧侶だでなく一般庶民まで幅広く参加誘導した

活動になっていったことになる。それは地域の事業ともなった。

 

そうして写経された経典を元に各地で大般若会が開催され

その時、釈迦十六神像を掲げて、大般若経を音読みするのである。

それを後で聴いている庶民は意味は分らないが、なんだか呪文の

ように聞こえるが本当は呪文ではないが、そこへ自分たちの

願いを重ね合わせることができると思うようになった。

それは与えられた権威ではなく、自ら求めた思想であった。

釈迦十六神像図 中央が釈迦でその右下に玄奘三蔵が描かれている。

背に経箱を背負っている、この中に大般若経も入っていたのであろう。

 

服部元興寺文化財研究員の話は、石巻神社の大般若経を今再調査する意義、

強度歴史資料としての重みなど、そのお経を具体的にどのようになされて

いったのか、そこから分ったことなどを話されていた。

地元のお寺ネットワークの構築、その分担また書写されたお経はだれが

購入したのかなど面白く聴くことができた。

 

二人の大学院生からは、書写されている石巻神社所蔵を一つ一つ

膨大な資料を分析した内容を発表された。

足掛け5年もかかった、この事業は現代日本の県境でも最新の

ものである。

彼らは、大般若経書写事業の群像として

書写した人物は誰か、代表的な三人の人物像、書写した人の筆跡の

分析、奥書(経巻の最後にかかれている署名のようなもの)から

人物像の解析、書写事業へのかかわり方ー寄り合い書ーの意義など。

一般庶民がどう関わったのかも、その書写から紐解いた研究が発表された。

 

600巻におよぶ大般若経の分析には相当な時間と労力が必要で

あったであろう。貴重な話しを聴くことができた。来週もあるので聴きに行く。

 

*大般若経の字数を計算してみた

 一行17字、一紙26行として442字、一巻は20紙あるので、8840字

600巻あるので、全部で5304000字となる、膨大な字数である。

これを一つずつ調べるのは大変な作業であろう。