身も心も

病気の事。ヨガやアロマの事。日々の事。好きなもの。

体の不思議

2011-08-27 17:36:45 | 病気
2週間前の診察時、首のレントゲンを撮った。
昨日その結果が出て、頚椎の状態が思っていたより悪かった。

次回、さらに詳しく検査する事になった。

恥ずかしい話だが、、医師から言われた時、呆然として言葉が出なかった。

確かに痛みは1ヶ月以上続き、自由に動かせない。動かす時「ゴキゴキ」音がする。
ちょっと、普通じゃないな~と思っていたが、はっきり言われると焦る。

血液監査をする為、検査室に向かう。ぼ~として違う部屋に入ってしまった。

「おい、しっかりしろ!!」と自分に向かってはっぱをかけた。

左腕血管に注射針を刺す。
「あれ~、血液の流れが止まった!!」と看護師さんが言った。
「最初、勢い良く注射器に血液が入って来たのに突然止まっちゃった~」

再度、今度は右腕に刺す。やっぱり同じ。

「息して下さい。大きく吸って吐いて下さい」

どうやら私はショックの為、息を止めていたようだ。
よく驚いた時「息を飲む」と言うけれど、私はそう言う状態になっていたのだ。

ほらほら、ヨガで学んだでしょう。呼吸よ呼吸!!落ち着いて!!

ゆったりと息を吸って吐くを繰り返す。採血は無事終了。

体は意識によって大きく変わる。顕著に反応する。
だめだと思えば、だめになる。大丈夫だと思えば大丈夫なのだ。

改めてこの事に気付いた。

焦る必要は無い。ゆっくりやって行けば良いのだ。
大丈夫。きっと良い方向に向かって行く。



















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雨の日曜日

2011-08-21 11:20:39 | 病気
雨が降って、気温が急激に下がって、、、ちょっと体にきています。

頚椎痛い。頭痛い。首回らない。肩凝る。

さして中身が詰まっているとは思えないのですが頭が重い。

自分の頭の重みを初めて感じました。

こんな時は、色々後ろ向きな思考回路に陥って行きます。

50歳を過ぎて、毎月2,3回の病院通い。
毎日、投薬。
こんなの私の人生設計には無かった~!!

やっぱりあれかね~28年も摂食障害の症状繰り返して来た事が、今になって体に出たのかな、、、、、病院の帰り道、とぼとぼと下を向いて歩いてしまう。

ここまで「痛み」が出ないと、自分の痛みに気が付かない私は、、、ばかだな~。

だけど心の奥底では「絶対私は大丈夫。自分が今まで経験して来た痛みや苦しみは意味がある。それを自分の力として生き行ける」根拠の無い、お気楽な自信があるのです。
これは自分でもびっくり。

私ってこんなに強かった~!?って驚いてしまう。

外野からは「あんたは十分強い!!」って声が聞こえて来る気もする、、。

まぁ、こんな日はゆっくり休みましょう。







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8月15日、、その翌日

2011-08-16 15:43:42 | 日記
「昭和20年8月15日の翌日、日本人はどうしていたのだろう?」と、終戦記念日を迎える度考える。

そう言えば私が高校生の時、日本史担当の教師は「日本では『終戦記念日』と言うけれど、本当は『敗戦記念日』です」と言った。
実り少なき高校時代であったが、この言葉は胸に刻まれている。

私が子供だった時、お盆の法要で集まった母方の親戚が、この時の事を話していたのを思い出す。
8月15日の朝、「本日正午、天皇陛下様より大事なお言葉がある。皆、心してラジオを聞くように」と村のお偉いさんから通達がった。

親戚皆が、最敬礼で放送を聞いた。
しかし田舎のおんぼろラジオ、受信状態が悪く雑音だらけ、また『お言葉』が難し過ぎて何を言っているの分からなかった。
誰かが「もっとがんばれと、おっしゃっているのだ」と言い、納得したそうだ。

昼過ぎ、軍事工場に働きに出ていた17歳の叔母が真っ青な顔をして「日本は戦争に負けたんだって、、」と、幽霊の様にふらふらと帰って来た。
それから大騒ぎになったそうだ。
当時13歳だった母は「夜、明かりを点けて夕飯を食べられた。嬉しかった」と言った。

それから2、3週間、皆何もしなかった。
農家だったが畑も田んぼも放りっぱなし。
暑い夏だった。日がな一日、ごろごろだらだら。
それにも飽きて、、「田んぼの草取りでもするべー」と、放置し雑草だらけになった田んぼや畑に出る様になった。

その内、村に噂が広まり始めた。
「男は去勢され奴隷にされる。女は辱めを受ける。男は女の着物を着て顔を粉で白くしておけ。女はかまどの墨を顔に塗り、髪を切れ」
恐怖で震えた。

しかし、いつになっても「鬼畜米英」は来ず、その代わり「どこに隠してあったの!?」と思う、鮭缶や砂糖や小豆、小麦粉やアメリカの見た事もない『肉の缶詰』が各家に配られた。

「戦争が終わった。良かった~」と実感したそうだ。

13歳、食べ盛りの母は「この時の嬉しさは忘れられない」と言った。

母は「食べ物」に対する執着が強かった。
「飢え」を実体験しているからだろう。
茶碗に一粒の米を残しただけで、母から叩かれた。

私が摂食障害の症状を繰り返していた時「強い罪悪感」に囚われていた。

母の生きて来た軌道が、強く影響を与えていた。


父はこの時20歳だった。一度も自分の人生を語った事が無い。

父は徴兵検査に落ち、戦争に行っていない。
誰から聞いたのか?たぶん母からだと思う。

男は戦争に行ってお国の為に死ぬ。
それが当たり前だった時代、父はどんな気持ちでいたのだろう、、、世間からどんな扱いを受けていたのだろう、、、。

父の死後、遺品を片付けていた。
引き出しの中に「尋常小学校同窓会名簿」があった。

父は小学校しか卒業していない。
8人兄弟の次男。父親は8番目の弟が生まれ、数ヶ月後に亡くなった。
貧しい農家の次男として、家計を支えなければならなかった。

「学歴が無い」この事は、父の中で生涯影を落としていた。
口には出さなかったが、私にはそう見えた。

名簿の最後に「戦争で亡くなられた方々」と、たくさんの「男の名」が書かれてあった。
終戦間近、窮地に追い込まれた日本は10代の青年を戦争へ送った。

これを見た時、号泣してしまった。
父が亡くなった時でさえ泣かなかった私は、一人で泣き続けた。

老人ホームの個室で、父はどんな気持ちでこれを見ていたのだろう。

「もっと、父と話しておけば良かった」

残念ながら私は、そう思えるほど父を甘受出来ていない。














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憧れの地

2011-08-07 16:50:57 | 日記
好きな番組の一つ、BSフジ「和菓子で巡る京の四季」
この番組を見ながら京都の地図を広げる。

「あ~京都行きたい!!!!」

「夢は?」と聞かれると「京都に住む事」と答える。
実際京都に移り住んだ知人に聞くと、
京都は独自の文化を持ち、外者がその中で「隣人」として受け入れられるのは
難しい事の様だ。
いつまでたっても「あなたは他所の人」と、物腰柔らかくニッコリ「否定」されてる様な気がすると、言っていた。

「京都は旅人として訪れる街」

でも、夢なのだ。憧れなのだ。
京都駅に着き新幹線を降りる。ホームに立った時「空気が違う」と思う。
包み込まれる様な、、、懐かしい気持ちで一杯になる。
「あ~やっと帰って来た」と言う気持ちになる。

前世は京都に暮らしていた。そう信じている。



6月末に吐血し、緊急入院した母の状態が不安定なままだ。

胃ろうの処置をして3年が過ぎた。
管を通して直接胃に流し込む栄養剤が逆流し、食道炎と肺炎を起こす。
これを何度も繰り返している。

食道の炎症がひどい様だ。
検査する為の、5mmのファイバースコープカメラが通らない。
「1、2mmの隙間が、かろうじて空いている」そうだ。

胃ろうの管は、半年に1度交換する事になっている。
交換時期は5月だった。
母の状態が悪く、交換する事ができない。

病院からの突然の呼び出し。
説明を聞き、何枚もの書類(同意書)にサインし捺印する。

苦しみを長引かせる為に生かし続けている。
ミイラの様に小さく固まった母を見て思う。

これは母が望む生き方なのだろうか。
人間は尊厳を持って生きる者。
ならば尊厳を持って死ぬ事は許されないのだろうか。

母はどうしたいのだろう。
母の「憧れの地」は何処なのだろう。













コメント (2)
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頸椎ベルト

2011-08-06 15:11:35 | 病気
まぁ~こう言う訳で(どう言う訳?)この暑いのに、こんな状態です。
今週始めより、首がグキグキ。
大袈裟ですが、家事する時は付けています。

お陰様で、大分良くなって来ました。
コメント (1)
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