身も心も

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8月15日、、その翌日

2011-08-16 15:43:42 | 日記
「昭和20年8月15日の翌日、日本人はどうしていたのだろう?」と、終戦記念日を迎える度考える。

そう言えば私が高校生の時、日本史担当の教師は「日本では『終戦記念日』と言うけれど、本当は『敗戦記念日』です」と言った。
実り少なき高校時代であったが、この言葉は胸に刻まれている。

私が子供だった時、お盆の法要で集まった母方の親戚が、この時の事を話していたのを思い出す。
8月15日の朝、「本日正午、天皇陛下様より大事なお言葉がある。皆、心してラジオを聞くように」と村のお偉いさんから通達がった。

親戚皆が、最敬礼で放送を聞いた。
しかし田舎のおんぼろラジオ、受信状態が悪く雑音だらけ、また『お言葉』が難し過ぎて何を言っているの分からなかった。
誰かが「もっとがんばれと、おっしゃっているのだ」と言い、納得したそうだ。

昼過ぎ、軍事工場に働きに出ていた17歳の叔母が真っ青な顔をして「日本は戦争に負けたんだって、、」と、幽霊の様にふらふらと帰って来た。
それから大騒ぎになったそうだ。
当時13歳だった母は「夜、明かりを点けて夕飯を食べられた。嬉しかった」と言った。

それから2、3週間、皆何もしなかった。
農家だったが畑も田んぼも放りっぱなし。
暑い夏だった。日がな一日、ごろごろだらだら。
それにも飽きて、、「田んぼの草取りでもするべー」と、放置し雑草だらけになった田んぼや畑に出る様になった。

その内、村に噂が広まり始めた。
「男は去勢され奴隷にされる。女は辱めを受ける。男は女の着物を着て顔を粉で白くしておけ。女はかまどの墨を顔に塗り、髪を切れ」
恐怖で震えた。

しかし、いつになっても「鬼畜米英」は来ず、その代わり「どこに隠してあったの!?」と思う、鮭缶や砂糖や小豆、小麦粉やアメリカの見た事もない『肉の缶詰』が各家に配られた。

「戦争が終わった。良かった~」と実感したそうだ。

13歳、食べ盛りの母は「この時の嬉しさは忘れられない」と言った。

母は「食べ物」に対する執着が強かった。
「飢え」を実体験しているからだろう。
茶碗に一粒の米を残しただけで、母から叩かれた。

私が摂食障害の症状を繰り返していた時「強い罪悪感」に囚われていた。

母の生きて来た軌道が、強く影響を与えていた。


父はこの時20歳だった。一度も自分の人生を語った事が無い。

父は徴兵検査に落ち、戦争に行っていない。
誰から聞いたのか?たぶん母からだと思う。

男は戦争に行ってお国の為に死ぬ。
それが当たり前だった時代、父はどんな気持ちでいたのだろう、、、世間からどんな扱いを受けていたのだろう、、、。

父の死後、遺品を片付けていた。
引き出しの中に「尋常小学校同窓会名簿」があった。

父は小学校しか卒業していない。
8人兄弟の次男。父親は8番目の弟が生まれ、数ヶ月後に亡くなった。
貧しい農家の次男として、家計を支えなければならなかった。

「学歴が無い」この事は、父の中で生涯影を落としていた。
口には出さなかったが、私にはそう見えた。

名簿の最後に「戦争で亡くなられた方々」と、たくさんの「男の名」が書かれてあった。
終戦間近、窮地に追い込まれた日本は10代の青年を戦争へ送った。

これを見た時、号泣してしまった。
父が亡くなった時でさえ泣かなかった私は、一人で泣き続けた。

老人ホームの個室で、父はどんな気持ちでこれを見ていたのだろう。

「もっと、父と話しておけば良かった」

残念ながら私は、そう思えるほど父を甘受出来ていない。














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