諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

76 音楽の経営術#3 第1楽章

2020年04月25日 | 音楽の経営術
         静かな公園で

 指揮台の尾高忠明は何もしない。
テンポの要点と小さな合図だけである。音を「強要」することは一切ない。
意図を感じさせる指示は一度だけ。やや出すぎたフルートを指先で「小さく」と制しただけだ。
そういう意味からは特別なことは何もしていない。
 
 指揮者のありように定型はないらしい。
フルトヴェングラーは彼がホールのドアに姿を現しただけでオケの音が変わったという統率型だ。指揮者のイメージを具現するのが楽器演奏者だと考える。
アバドは、指揮ぶりが美しくオケが魅了されていくという。
バーンスタインはアメリカンスタイル?でオープンに楽団員と話合ったという。
小澤の指揮は正確で常に指示のナイスパス?が各パートにくることで信頼されると聞いたことがある。
マタチッチの指揮は力士がする手刀のような小さなものだったが、スケールの大きな音を引き出す。これは破天荒な人間性によると楽団員が言っていた。

 こんな状況だから指揮のあり方に決まった型はない。だから指揮法は教えにくいというのは納得できる。
そういえば有名な経営学者の説によると❝組織の経営の手法について定義はない❞というのだから、一般にもそういうものなのかもしれない。
 私たちの学校というヒューマンサービスの組織経営も指揮者の創造性に似た感覚が必要なのではないか、と思考が横道にそれる。

 尾高は煽らない。
身体の前、ストライクゾーンの範囲で腕を振る。
指揮棒を持たない。両手でその時々のブラームスの音を形として見せようとしているかのようだ。
表情は人が遠くのものを凝視するときやや上目遣いになるように、うつむき加減にオケを見渡し、照明の具合もあって少し怖く感じる。
野球の捕手は「ここは外角低めにストレート」と強く投手に求める時、全身からオーラを発して投球を待つという。そんな緊張感を放っている。

 一方、オーケストラは激しく働いている。音楽家というより、音楽製造中の作業員である。
パン工場を一望するような現場感がここから見ると分かる。
音そのものを表現とする芸術は、次々に音を発していないと成り立たないから忙しい。

 ただ、問題は、今この瞬間流れいる音が聴く人にとってブラームスになっているかである。
次々の流れる音のリズムや質感がの作曲家の意図したものになっているかである。

 演奏者は動的でも、ブラームスを聴く側は静的な気持ちで待っている。
大きく指揮をしない尾高。
尾高の「静」はオケの「動」の中に静的なものを要求しているようだ。

 オーケストラのすべてのパートの音の集まるベクトルの先に尾高がある。
名捕手のようにすべての音の投球を待っている。無言でブラームスの音を強く求めて構えている。
オーケストラはそこに思い切り彼らのブラームスを投げ込む。たぶんそこにこそ名指揮者尾高がそこにいる意味なのだろう。

 それぞれのパートの渾身のブラームス音?は交じわりつつ尾高の身体を通りぬけてホールの広い空間で結実する。
そんな仕組みで音は生産されていくようだ。

「協働意欲は協働の目標なしには発展しえない」(チェスター・バーナード)
尾高は協働の目的を静かに大きく提示している。
   ブラームスの交響曲第2番は、第2楽章に入っている。 ……ん!、尾高の雰囲気が1楽章と変わってる。

                        (つづく)

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 75 音楽の経営術#2 ブラームス | トップ | 77 音楽の経営術#4 第2楽章 »