諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

160 「学び」と私たち#15 「学び」と私たち

2021年10月17日 | 「学び」と私たち
秋 枝の間の秋空 秋が差し込んできた気配がします。

テキスト:佐伯 胖『「学び」の構造』東洋館出版

このテキストをずっと読んできました。
フィードバックできることを思いつくまま書き留めたいと思います。

小学校の教師時代の記憶でもある。
教科指導とは、学習指導要領の内容に準拠した検定教科書にしたがって、定めらた内容を子どもたちに「おさえていく」ことである。
もちろん、いろいろな教える方法があり、先生方は工夫をこらす。
しかし、児童が次の学年に上がったとき、引き継いだ先生に「〇〇さん(児童名)、約分、それから帯分数と仮分数の関係、おさえられていませんね」なんていわれると、本人にも、その先生にも本当に申し訳なく、情けない気持ちになったりするものである。
ショックといってもいい。

こんなリアリティーと同居しながら、教科指導をすすめていくと、「学び」ということがだんだんわからなくなる。
「とりあえず、単元ごと、市販のテストの成績をあげねば…」
と。

そんなことを思い出しながら、テキストから拾う。

考えてみれば、日本中の企業はハウ・ツウ型でいままでつっぱしってきたのだし、そういう企業だけが「成長」し「躍進」してきた。
しかし、そういう企業に人を送り込んできたのは、ほかならぬ大学であり学校である。
そこでは「ガリ勉」であったために先生にかわいがられ、有名校に進学でき、一流大学にはいったとたんか、あるいはそこを卒業したとたんに、無気力型かハウ・ツウ型に「変身」する。ハウ・ツウ型は「出世」し無気力型をうまく使いこなす。

そのような学校を出た人が結婚し、女房に「ハウ・ツウ的」方法的道徳を躾け、あるいはダンナが「要領わるく出世しない」と尻をひっぱたいて飼育する「賢夫」、「賢婦」となる。子どももできれば同じことで、「……しなくちゃあ」「……させなくちゃあ」とあせって、「ほかの子どもはもうこんなことができている」「ほかの学校ではもうこんなことをさせている」と目を配り、子どもに学校にガンガン要求をつきつける。


時代性を感じる面があるが、学びがシステム化し、硬直化した感じを表している。学びの入り口と出口が短縮化し、心を伴わない学びの末路を洞察しているようだ。

もちろん「学び」とはその子に資するものである。教える大人もそのつもりで支援をする。
だが、市販のテストで80点以上が目標だと、子どもも、大人も暗黙に了解したとき、肝心の中身については彼(場合のよっては教師も)の関心から外れ、積極的に心をつかう対象にならなくなる。

一流大学に入るためにこの高校にいると思うと、高校の勉強の中身そのものへはあまり感動しなくなり、高校というものが、手段であることがあたりまえのようになると、そのためには不利といわれる高校にいる生徒は、散ればめられた学びのヒントに目がいかなくなる。

こうした現状を呈する傾向を佐伯さんは、
われわれの自身の心の中にある、絶望的なまでに深い、「学び」を妨げる傾向
といい、謙虚にこう結ぶ、

学べなくしているのは誰かーそれは、われわれ自身である。
学べる人間をどうやってつくり出すかーそれには、まずわれわれ自身が、ひとりでもふたりでも多くの人々が、まず自ら「学ぶ」ことである。





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