夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

「天人図 ゆめとのは」 会津八一筆 その2

2021-12-06 00:01:00 | 日本画
当方の叔父が本作品と同じような歌が書かれた作品を所蔵していました。その作品は叔父亡きあとには思文閣が買い取られたようです。また就職した際の新人研修で宿泊した会社の研修所には会津八一の書が飾ってありました。そのような記憶からか良さそうな作品があると収集の食指が動くのですが、意外にいい作品が少ないようです。



なお会津八一の書画の作品は以前に本ブログにて「虫瓜図画賛」(紙本水墨軸装 軸先木製 宮川寅雄鑑定箱 全体サイズ:縦1550*横470 画サイズ:縦680*横330)の軸装の作品を紹介しています。



本日は当方では2作品目の所蔵となる作品の紹介です。

「天人図 ゆめとのは」 会津八一筆
紙本水墨額装 長島健鑑定シール(平成8年:1996年4月鑑定) 誂タトウ+黄袋
全体サイズ:縦660*横550 画サイズ:縦490*横370



作品中の歌(法隆寺東院にて 第1首)の読みと意味は下記のとおりです。

法隆寺東院にて(第1首)
 ゆめどの は しづか なる かな ものもひ に
                  こもりて いま も まします が ごと 
          (夢殿は静かなるかなもの思ひに籠りて今もましますがごと)

*法隆寺東院:「聖徳太子の住居であった斑鳩宮の跡に建立されたのですが、その回廊で囲まれた中に八角円堂の夢殿があります。」
*ゆめどの 「本尊は救世観音。夢殿の呼称は、聖徳太子が三経義疏(さんぎょうぎしょ)執筆中に疑問を生じて持仏堂に籠ると、夢に金人(きんじん)が現れて疑義を解いたのによるという逸話からのようです。なお国宝に指定されています。」
*ものもひ 「(上記三経義疏執筆中の)物思い。第2首と関連していますが、ここでは法隆寺東院にての第2首の紹介は省略いたします。」 
*まします 「(聖徳太子が)おられるます。」



歌意:夢殿はなんと静かなことであろう。今も聖徳太子が籠って物思いに耽っていらっしゃるかのように。

この歌は静かなたたずまいの夢殿を聖徳太子への思慕と共に詠っているものです。八一は自註鹿鳴集で、太子の瞑想を「上宮聖徳法王帝説」(12世紀以前)や「聖徳太子伝暦」(平安中期)を引用して述べ、太子への敬慕を表していますが、その記述において「・・・今のいはゆる夢殿が天平11年頃の造立にして、聖徳太子(574~622)在世のものにあらざるは、今にして学者の常識なるも、この歌を作るに当たりては、その区別を問わざることとなせり・・・」と述べています。

*三経義疏(さんぎょうぎしょ):聖徳太子の著したと言われる経典注釈書。法華義疏、維摩(ゆいま)経義疏、勝鬘(しょうまん)義疏。日本人の手になる最初の本格的な注釈書だが、作者は確定していないようです。       



会津八一の略歴は下記のとおりです。

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会津八一:1881‐1956(明治14‐昭和31)。歌人,書家,美術史家。秋艸道人(しゆうそうどうじん),渾斎(こんさい)の号を用いています。

新潟市に生まれ,早熟の天才ぶりを発揮し,中学時代すでに新聞俳壇の選者になったり,当時北陸旅行中の尾崎紅葉の話相手をつとめたり,まだ評価の定まっていなかった良寛和尚の芸術をいちはやく認めて正岡子規に知らせたりしています。

早稲田大学英文科では坪内逍遥の知遇を得,卒業後,早稲田中学の教師を経て,1926年以降,早稲田大学で東洋美術史を講じ,34年《法隆寺法起寺法輪寺建立年代の研究》(1933)で文学博士の学位を受けています。



上記写真は土門拳による撮影によるものです。

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*なお本作品を鑑定している長島健は会津八一書論集などを執筆しています。

 

冒頭の首印はなんという印でしょうか? 左下の印章には同一作品が数多く存在します。下の写真は思文閣発刊の「墨蹟資料目録」掲載の作品からです。

 

会津八一の略歴を補足する資料は下記によります。

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資料

新潟県新潟市古町通五番町に生まれています。中学生の頃より『万葉集』や良寛の歌に親しんだそうです。

*新潟市屈指の料亭 會津屋の次男として、1881年(明治14年)8月1日に生まれており、生まれた月日から八一(やいち)と名付けられたそうです。

1900年新潟尋常中学校(現新潟県立新潟高等学校)卒業後、東京専門学校(早稲田大学の前身校)に入学し、坪内逍遙や小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)らの講義を聴講しています。この頃すでに「東北日報」の俳句選者となっています。

会津八一にこの頃一番大きな影響を与えたのは33年6月の正岡子規との最初で最後の面会であったそうです。俳句、和歌、漢詩について子規に教えをうけた八一は、子規の俳句革新の影響を大きく受けるようになります。

1906年早稲田大学英文科卒業。卒業論文にはキーツをとりあげています。
卒業後は、私立有恒学舎(現:新潟県立有恒高等学校)の英語教員となって新潟に戻り、多くの俳句・俳論を残しました。
1908年に最初の奈良旅行をおこなって奈良の仏教美術へ関心を持ち、またこの旅行が俳句から短歌へと移るきっかけともなっています。

*奈良旅行をきっかけに短歌を詠むようになり、明治42年、新潟新聞に寄稿した「我が俳諧」では、「技巧の臭を去て、人生の真味を加へよ」と語り、子規の死後、固定されてしまった俳句革新を打破し、卒業後の針村での生活では自己の人生観を、漫然主義、漠然主義、飄然主義とし、反自然主義的傾向に接近していきます。

1910年に坪内逍遙の招聘により早稲田中学校の英語教員となり上京。

*東京専門学校卒業後(明治39年)、新潟の有恒学舎の教師として赴任したのが教育者としての始まりでした。八一はこの地に4年赴任し、明治43年には坪内の推薦で早稲田中学の英語教師となります。超人的な授業時間数での学生との接触が教師という職業に八一をひきつけ、大正3年には「秋艸堂学規」という八一の人生訓を送ります。

一.ふかくこの生を愛すべし
一.かへりみて己を知るべし
一.学芸を以て性を養ふべし
一.日々新面目あるべし

これは、「拙居家塾の塾生の為めに定めしもの」と注記され、八一自ら「率先して実践躬行」しようと述べていますが、この人生訓はとても有名ですね。

1914年、東京小石川区高田豊川町に転居し、「秋艸堂」と名付けました。
1918年、早稲田中学校の教頭に就任。
1922年には東京郊外の落合村にあった親戚の別荘に転居し、やはり「秋艸堂」と名付けています。
1924年、初の歌集『南京新唱』を刊行。

*この時から短歌が中心になり、昭和8年には私費で『南京余唱』を発行します。また、八一の後半期にあたる戦中・戦後には、戦争による罹災、養女の死など一連のことがらが八一に悲痛と絶望を媒介とした激しい詩的営みを喚起させ、『山光集』『寒燈集』を出版。身近な実生活、戦争体験をモチーフにしたシリアスな悲傷の歌は、国民の胸をえぐり共感を誘いました。

1925年には早稲田高等学院教授となり、翌年には早稲田大学文学部講師を兼任して美術史関連の講義をおこない、研究のためにしばしば奈良へ旅行しています。
1931年には早稲田大学文学部教授となります。
1933年に仏教美術史研究をまとめた『法隆寺・法起寺・法輪寺建立年代の研究』(東洋文庫)が刊行され、この論文で1934年に文学博士の学位を受けています。

*大正12年奈良美術研究会を創立します。そして14年中学教員を辞め、15年早稲田大学文学部で東洋美術史を担当。昭和4年には『東洋美術』を創刊します。また昭和8年に東洋文庫から刊行された『法隆寺法起寺法輪寺建立年代の研究』に集大成される法隆寺再建非再建論争に参加し、日本美術史学界の水準向上に寄与するなど積極的に活動しました。

1935年、早稲田大学文学部に芸術学専攻科が設置されると同時に主任教授に就任しています。
1940年、歌集『鹿鳴集』を刊行。
続いて1941年、書画図録『渾齋近墨』、
1942年、随筆集『渾齋随筆』、
1944年、歌集『山光集』をそれぞれ刊行。



妥協を許さぬ人柄から孤高の学者として知られていますが、同僚であった津田左右吉が右翼から攻撃された際は、早大の教授たちが行動を起こさなかったのに対して、丸山眞男らによる署名運動に参加し、津田の無実を訴えるという一面もあったそうです。

1945年、早稲田大学教授を辞任。空襲により罹災し、秋艸堂が全焼したため新潟に帰郷。同年7月、養女きい子が病没。
1946年、「夕刊ニヒガタ」創刊され、社長に就任しています。
1948年、早稲田大学名誉教授。
1951年、新潟市名誉市民となる。同年、『會津八一全歌集』を刊行し、読売文学賞を受けました。
戦後は故郷新潟に在住。弟子の一人に歌人の吉野秀雄がいます。
1956年、冠状動脈硬化症で死去、75歳。戒名は自選した「渾齋秋艸同人」。
なお新潟県の地方紙「新潟日報」の題字は会津が揮毫したもので、他にも歌碑など会津の揮毫になるものが各地にあるようです。

新潟市會津八一記念館が、會津八一の調査研究をし、業績を広く市民に伝え、教育に役立つことを目的として1975(昭和50)年4月開館しています。

*なお會津八一記念館においては「會津八一の書画の筆跡を著作権継承者である当記念館が厳正に判定し、八一作品の信頼と信用を高めるために、鑑定会を毎年春と秋の2回実施します。」とのことです。

**早稲田大学にも會津八一記念博物館があります。

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この歌は下記の作品「春日野」(会津八一と杉本健吉の合同書画集より)にも書かれています。会津八一と杉本健吉は歌書画集「春日野」(1954年)などを合作しています。



本ブログにてお馴染みの杉本健吉と会津八一の関係が読みとれる作品となっていますね。杉本健吉の描く天女に似たような絵になっています。



「俳句を短冊に書く」ことが書を始めるきっかけだそうで、八一が自己を書人として意識していく過程で「潤規」(作品の価格表と規定)を作ったそうです。水墨画、てん刻などもやり始め、昭和9年には『村荘雑事』を自筆の書で発行し、17・18年度の東京美術研究の講義では「書道論」を行っています。そして昭和20年、空襲で罹災し新潟へ移り、書が大きな位置を占める新しい生活に入ります。24年には中村屋で個展を開き、昭和26年以降は毎年開催。また新潟でしばしば書論、書談を講演し、昭和31年の永眠まで、"古い時代の仮名と中国の漢詩"の固定した対立を起こしている書道界に対して警告を送りつづけたそうです。

絵と書の作品などは数年前では100万円を超えるなど人気の高い会津八一の作品ですが、今では知っている人も少なくなったようです。ただ小生にとっては同窓の先人、書も人柄も惹かれるものがあります 

本日紹介した作品は一万円もしない金額で入手したもので、むろん真贋などは解りません(會津八一記念館の鑑定会で観てもらおうかな?)が、杉本健吉との関連や歌に惹かれての入手です。

*本作品は真作に相違ないと当方では判断しています。

先人に教わることが多く、まさしく「ふかくこの生を愛すべし かへりみて己を知るべし 芸を以て性を養ふべし 日々新面目あるべし」という人生訓をかみしめています。



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