さて本日より、亡妻の三回忌のため帰郷します。それゆえ来週の月曜日まで休稿します。
ふ~、あまりに忙しく、三回忌がうまく段取りが出来ているやら・・。
呉昌碩の作品は「瓜図」に続いて、第2作目です。「瓜図」は現在、表具に頼んでいます。
無量寿仏 呉昌碩筆
紙本水墨着色額装 縦450*横330
本作品の制作年代は「丙申吉年 呉俊卿敬製」とあることから、1896年(明治29年)と推察され、呉昌碩(中年から昌碩と名乗り、その前は俊卿と称した)が53歳の時、絵を本格的に任伯年に学び、著名になり始めた頃と思われる。
出身地からの名の「安吉?」の朱方印が押印され、左下には遊印?が押印されている。
「無量寿仏」の題は阿弥陀仏の異称である。阿弥陀仏は西方浄土の教主で、すべての衆生を救おうと48の誓いを立てた仏。浄土宗・浄土真宗では本尊とし、念仏による極楽往生を説く。弥陀、阿弥陀、阿弥陀如来ともいう。中国では画題に取り上げられることが多く、このような姿で描かれることも多い。
賛の読み、意味は不明で、真贋も含めて後学といたします。痛んだ状態にて購入しましたが、汚れ、虫食いがあるのが残念です。入手時がまくりの状態であり、のちに額装としました。
呉昌碩(1844-1927):清末に浙江省安吉県に生まれる。名は俊卿、字をはじめ香圃、中年以降に昌碩とする。別字に蒼石、倉石、倉碩。号に缶廬(フロ)、苦鉄、破荷、大聾、老蒼、石尊者、石人子、石敢当、破荷亭長、蕪青亭長、五湖印丐など。中国近代の文人家。
在官十余年で上海に隠棲。詩(漢詩)、書、画、印(刻印)に優れ、「四絶」と称えられている。画は筆力と気格のある個性的画風に達し、清朝最末期の代表的画人となった。書は周の石鼓文に基づき高古疏落の新様式を樹立、一世を風靡した。
日本の文墨に携わる人たちとも深い交流があり、日本にもファンは多く作品もたくさん残されている。70歳をすぎてから最も多作の時期を迎え、84歳でこの世を去るまでに残した作品は数多く、中国国内外へ多大な影響をおよぼした近代の巨匠。
70歳で上海の北山西路吉慶里へ移り住んだ。民国16年(1927年)、中風が悪化し病没。享年84歳。
ふ~、あまりに忙しく、三回忌がうまく段取りが出来ているやら・・。
呉昌碩の作品は「瓜図」に続いて、第2作目です。「瓜図」は現在、表具に頼んでいます。
無量寿仏 呉昌碩筆
紙本水墨着色額装 縦450*横330
本作品の制作年代は「丙申吉年 呉俊卿敬製」とあることから、1896年(明治29年)と推察され、呉昌碩(中年から昌碩と名乗り、その前は俊卿と称した)が53歳の時、絵を本格的に任伯年に学び、著名になり始めた頃と思われる。
出身地からの名の「安吉?」の朱方印が押印され、左下には遊印?が押印されている。
「無量寿仏」の題は阿弥陀仏の異称である。阿弥陀仏は西方浄土の教主で、すべての衆生を救おうと48の誓いを立てた仏。浄土宗・浄土真宗では本尊とし、念仏による極楽往生を説く。弥陀、阿弥陀、阿弥陀如来ともいう。中国では画題に取り上げられることが多く、このような姿で描かれることも多い。
賛の読み、意味は不明で、真贋も含めて後学といたします。痛んだ状態にて購入しましたが、汚れ、虫食いがあるのが残念です。入手時がまくりの状態であり、のちに額装としました。
呉昌碩(1844-1927):清末に浙江省安吉県に生まれる。名は俊卿、字をはじめ香圃、中年以降に昌碩とする。別字に蒼石、倉石、倉碩。号に缶廬(フロ)、苦鉄、破荷、大聾、老蒼、石尊者、石人子、石敢当、破荷亭長、蕪青亭長、五湖印丐など。中国近代の文人家。
在官十余年で上海に隠棲。詩(漢詩)、書、画、印(刻印)に優れ、「四絶」と称えられている。画は筆力と気格のある個性的画風に達し、清朝最末期の代表的画人となった。書は周の石鼓文に基づき高古疏落の新様式を樹立、一世を風靡した。
日本の文墨に携わる人たちとも深い交流があり、日本にもファンは多く作品もたくさん残されている。70歳をすぎてから最も多作の時期を迎え、84歳でこの世を去るまでに残した作品は数多く、中国国内外へ多大な影響をおよぼした近代の巨匠。
70歳で上海の北山西路吉慶里へ移り住んだ。民国16年(1927年)、中風が悪化し病没。享年84歳。