夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

椅子の座る女性 田村孝之介画

2024-04-01 00:01:00 | 洋画
当方で気になっている画家は宮本三郎と田村孝之介・・。この二人の画家については、いつかはいい作品が欲しいと思っていました。



椅子の座る女性 田村孝之介画
油彩額装 誂タトウ+黄袋
P3号 全体サイズ:横385*縦465 画サイズ:横182*縦273



大きな作品ではありませんが、伊勢正義や木下孝則といった当方で蒐集している作品と相通じるところのある昭和レトロの感のある女性を描いた田村孝之介の作品を入手しました。



田村孝之介の画歴は下記のとおりです。

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田村孝之介:(たむら こうのすけ) 1903年9月8日~1986年6月30日。洋画家、文化功労者。

1903年(明治36年)大阪市生まれ。本名・大西孝之助。
1920年(大正9年)太平洋画会研究所に入所、その後に信濃橋洋画研究所で小出楢重に師事。
同13年小出らが信濃橋洋画研究所を創立すると同所で修学し、ひき続き小出、鍋井克之の指導を受ける。同年第1回大阪市美術協会展に「静物」を初出品
1926年(大正15年)二科展に「裸婦」が初入選。同15年第7回中央美術展に出品し中央画界に登場する。
1926年(昭和2年)全関西洋画展で「裸女習作」、「蔬果静物」が入選。第14回二科展に「裸婦立像」「風景」で初入選。同11年同展に「薄衣」「噴水」「海風」を出品して奨励を受賞。翌12年二科会員に推される。
1939年(昭和14年)の二科展には傷痍軍人をいたわる看護婦を描いた「岩陰」を出品。題材も戦時色を強めた。



第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)には大阪市立美術館付設美術研究所で小磯良平などと後進への指導を行う。二科会再建に参加せず1947年(昭和22年)に宮本三郎らとともに9人の創立会員をもって二紀会を結成し、以後同会に出品を続ける。27年渡欧しフランス、オランダ、ベルギー、イタリア、スペインなどを巡って翌年帰国、同37年渡米し、7ケ月滞在の後ヨーロッパをまわって38年10月帰国する。以後たびたび渡欧し、ヨーロッパ風景を多く描く。49年宮本三郎の死去に伴い二紀会理事長に就任。59年日本芸術院会員となり、60年文化功労者として顕彰された。フォーヴ的な明るい色彩と装飾性を特色とする。著書に『スケッチの技法』(昭和33年、美術出版社)、『大阪 わがふるさとの……』(藤沢恒夫と共著、同34年、中外書房)があり、52年には『田村孝之介画集』(日動出版)が刊行された。

1977年(昭和52年)神戸市灘区にあった自宅でに六甲洋画研究所(後の神戸二紀)を設立。過去の生徒であった中西勝らも加わり指導に当たる。
1985年(昭和60年)文化功労者。
1986年(昭和61年)6月30日、胃潰瘍のため東京都渋谷区の中央鉄道病院で死去。享年82。洋画家の大西甲二は次男、ドラマーの大西英雄は孫にあたる。

フォーヴ的な明るい色彩と装飾性を特色とする。

著書に『スケッチの技法』(昭和33年、美術出版社)、『大阪 わがふるさとの……』(藤沢恒夫と共著、同34年、中外書房)があり、52年には『田村孝之介画集』(日動出版)が刊行された。

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このような品格のある女性像を描く画家は今はいなくなりましたね。



当方の生きてきた時代の影響から当方の好みとなっているのでしょう。



作品中のサインなどは下記の写真のとおりです。真贋は当方では一切解りませんが、お気に入りの作品のひとつとなりそうです。

 

このような小さめの作品は当方ではよくトイレに飾っています。



下記の作品は木下孝則の作品。



下記の作品は伊勢正義の作品。



小さな作品は頻繁に架け替えるのには手頃ですね。



絵を架け替えるのは意外に手間がかかりるもので、前に飾ってあった絵を収納し、新たな絵を出して飾りますが意外に体力も費やします。それよりも気落ちするのは変な絵?を飾ると我が家の批評家から手厳しい評価の集中砲火を浴びることです。とくに特に女性を描いた作品は難しいのですが、我が家の批評家の意見は的を得ているようで、いい絵を飾ると何も言わない・・・。










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