夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

初夏水辺 福田豊四郎筆 その159

2024-03-30 00:01:00 | 掛け軸
当方で所蔵する作品が増えてきた福田豊四郎の戦前の作品の紹介です。掛け軸類は近年とみに人気がなくなり、いい作品がかんたんに入手できるのはありがたいことです。しかし一方で、これだけ廉価になると蒐集する意欲が削がれるのもまた事実ですね。



初夏水辺 福田豊四郎筆 その159
紙本水墨淡彩軸装 軸先象牙細工 共箱二重箱
全体サイズ:縦2030*横440 画サイズ:縦1210*横310


昭和10年頃の作と推定しています。



故郷を描いた作品と思われますが、詳細は不明です。

福田豊四郎、小松均、吉岡堅二ら3人は1934年(昭和9年)「山樹社」を結成しています。当時の日本画壇を代表する作家たちの作品に不満を持ったことと、里見勝蔵、長谷川三郎、宮本三郎ら、当時前衛と呼ばれた若い洋画家たちとの交流が同社の結成に影響していたとされます。その後、日本画家・岩橋英遠らを加えた14名で「新日本画研究会」を結成し、さらに同会を拡大する形で1938年(昭和13年)「新美術人協会」を発足、これは新日本画を志す有力団体として戦後1947年(昭和22年)まで続いています。

*この作品は上記の頃の作と推定されます。



様々な団体を結成しながら日本画のモダニズムを推し進め、戦前の日本画革新運動の先導者として活躍しています。戦前の代表作《樹氷》(1937年、第1回新文展)は郷里の八幡平を描いた作品で、単に写実ではなく、洋画に通じるモダンなフォルムの樹氷と、旧来の日本画的な表現によって天空へ駆け抜ける鹿たちが対照的に描かれています。

1938年(昭和13年)陸軍従軍画家となり、吉岡堅二と共に満州、華北、華中へと赴いています。二人は中国について早々に大連で新作画展を開いており、また数ヶ月に及ぶ従軍行では多くのスケッチを残しています。

1939年(昭和14年)陸軍美術協会にも早くから加入していますが、具体的に作品をもって活躍しだすのは太平洋戦争以降です。1942年(昭和17年)陸軍省からボルネオに派遣され、第1回大東亜戦争美術展に写実的な「英領ボルネオを衝く」を発表。豊四郎の作戦記録画はこれ一点のみですが、その後も徐々に「日本画のモダニズム」と「日本画の戦争画」を折衷させていく姿勢を鮮明にしています。翌年の第2回同展に一般出品した「落下傘」(出品時の題名は「神兵落下」)は、パラシュート部隊の降下の光景を単に写実的な表現にとどめず、日本画の装飾性を活かし、モダンなフォルムで満たした作品です。




1945年(昭和20年)2月には秋田県由利郡に疎開していますが、翌年2月東京に戻っています。1948年(昭和23年)山本丘人、上村松篁、吉岡堅二ら13名と「世界性に立脚する日本絵画の創造」をスローガンに「創造美術協会」を結成します。創造美術第1回展に出品した「秋田のマリヤ」では、土間の片隅で仕事の手を休め、乳を与える母親を描いています。戦後の混乱の中から創造美術という新団体を結成するにあたって、日本のイコンとして描かれた本作は、日本画の新生を期した豊四郎の戦後の代表作とされています。この戦後から新たな福田豊四郎の画境の作品が生み出されてきます。

下記の写真は入手時の箱の誂えです。



不足しているものは当方で誂えて、説明書きを添え、箱を開けて作品を見なくてもひとめでどの作品が収められている解るように保管します。これはとても大事なことで、いちいち箱を開けて掛け軸を広げないとどの作品かは分からないような保管方法は軸を傷めます。



表具は改装しているようで、非常にいい状態ですし、軸先はいいものを使用しています。



この印章と落款は若い時のものです。

  

初期の頃から晩年までの福田豊四郎の作品が蒐集でき、現在で150点を超える作品数になりました。



父の友人、家族ぐるみで付き合っていた画家の作品を地元に遺すことができあそうです。このことは当方の蒐集の大きな目的のひとつです。


































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