夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

忘れ去られた画家 楼閣山水図 萩尾九皐筆

2016-08-06 00:01:00 | 掛け軸
わが家は皆さん、朝から働き者です。特に夏は日中は暑いので畑仕事は早朝から朝飯前です。息子も畑のお手伝いです。ブルーベリーの採取ですが、これは非常に手間のかかる作業のひとつです。



ところで「嫁は農家から貰え!、坊主と医者の娘は嫁を貰うな」という格言?を親から聞いた覚えがあります。要は「よく働く親の姿を見て育った娘を貰え」ということのようです。「坊主と医者」は別として、これはかなり的を得ている訓告かもしれません。

「働かざるもの食らうべからず」、「贅沢は敵!」これもまた真実のようで、苦労して育った人が一番よき伴侶になるようです。お嬢様育ちのような苦労知らずはなにごとにも中途半端なようです。

嫁という男の伴侶は大切です。なんといっても日本を背負う子供らを育てる役割を持つのですから・・。ゆめゆめゴルフや外食,ショッピング、海外旅行にうつつをぬかしているお嬢様を選んではいけません。息子がこれを読む頃に私は居ないと思うのですが・・・。さ

て息子も手伝ったブルーベリーは昨日は会社で皆さんにおすそ分け・・。直接そのまま食べても美味しいし、ジャムや砂砂糖水に浸けてから食べるのも一興。



本日紹介する作品は「萩尾九皐」という画家の作品です。ほとんどの人が知らない画家だと思います。このようなあまり知られていない画家の出来のよい作品を蒐集するのが一番良い蒐集とされています。

楼閣山水図 萩尾九皐筆
絹本水墨軸装 軸先象牙 共箱
全体サイズ:横720*縦2370 画サイズ:横570*縦1450



全体に金泥を施した絹本に描かれた力作。雪舟に戻れという幕末から明治にかけての日本画再興の意欲がうかがえます。



明治期の狩野派の最後の画家として著名な狩野芳崖を彷彿とさせるような作品です。



床の間に映える作品です。武家様式とも言える江戸末期には失なわれた狩野派の真髄をみるようです。手前は以前に紹介した室町時代の古備前の壷(真作)です。



よく見ると絹に金泥がうっすらと下地処理されおり、力作で高級感のある作品になっています。



明治期の南画がつくもね山水と称せられてはいましたが、まだまさ南画隆盛の頃にこのような作品はどう評価されたのでしょうか?



「雪舟に戻れ」という岡倉天心に言葉通りの作です。



雪舟を超えた迫力があるといってもいいでしょう。



僅かに胡粉も使われているようです。



全体の構図のバランスを崩すことなく細かく描写されています。



宮内庁に作品を収めたという記録がありますが、如何せん現在では忘れ去られた画家のひとりでしょう。



*************************************

萩尾九皐:(はぎおきゅうこう)文久1(1861)年9月11日~大正12(1923)年。明治・大正期の日本画家。

本名熊吉 文久元年9月11日福岡県八女郡広川村長延で生まれる。菊池氏の武将の血をひき江戸期広川地方の大庄屋の流れをくむ。一時八女郡福島町本町二番地のニ百六十八番地(現八女市本町古松町)に居住。

 

明治12年ころ柳川藩絵師諸藤実斎に狩野派の絵を学ぶ。同18年上京して廻国修業ののち京都に定住して四條派の幸野楳嶺に学ぶ。日本画家深田直城の娘と結婚。

一時期四国に住むが、明治31年(1898)から大阪に定住した。画業が進み菅公千年祭記念展出品に出品などして関西で活躍。宮内庁にも自作を献納したという。関西の中堅画家として活躍。

全国書画倶楽部を結成して指導にあたり、同42年新古美術展では大阪絵画協会から選ばれて監査役となるなどの画歴が知られる。狩野派の流れをくむ九皐は謹厳な画風。八女を代表する日本画家。大正11年10月29日大阪市東区伏見町四の一で死亡、亨年61歳。

*************************************

きちんと共箱に収められてるのも貴重です。

 

本来なら地元を代表する作品として地元で所蔵されるのが望ましいのでしょうが、地元でも蒐集している方はおそらくいないでしょうね。董蒐集はまず地元の作者からが基本だと思っています。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。