夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

忘れさられた画家ーその12 暁驛飲馬 帆足杏雨筆

2011-01-13 06:21:29 | 掛け軸
暁驛飲馬 帆足杏雨筆
絹本着色軸装箱入 画サイズ:横205*縦280

本作品は仙台の汲古堂からの購入作品です。

落款がないので、購入時はご主人も当方も作者は解りませんでした。迷った挙句、出来がいいので購入しました。







後日、詳細を調べましたところ、印章は「遠(名)」、「致大(字)」の朱文方印と白方印が押印されていることが判読できました。

 

表具は補修され、折れの補修が施されていました。そのことから、文献を調べましたところ帆足杏雨の作品と判明しました。

帆足は本ブログでも紹介しました田能村竹田(その1 その2があります)と縁の深い画家です。



杏雨の作品に竹田の落款、印章が入れられると真贋が分からなくなると言われるほど竹田を踏襲した細密山水画が多い画家です。杏雨の小作品の逸品といえます。


帆足杏雨:文化7年生まれ,明治17年没(1810年~1884年)。享年75歳。
名は遠、字は致大。

号は杏雨、聴秋、半農。臼杵領戸次市組(現在の大分市戸次)の庄屋帆足統度の四男として生まれた。

帆足家は当時の地方文化の担い手の一つとして存在し杏雨の父や兄は俳諧をたしなみ、書画に親しみ、多数の書画を所蔵していた。また、我が国の代表的な南画家のひとり 田能村竹田もたびたび帆足家を訪れており、幼少の頃から南画に強い興味を持っていた。

文政7年(1824年)に正式に竹田に入門し、南画家の道を歩き始めた。広瀬淡窓、帆足万里に学問を学び、頼山陽浦上春琴、 篠崎小竹に接する一方、田能村竹田には画技と学習法と最も重要な文人としての姿勢を学んだ。

長崎や京都に旅をして、古画も学んだ。がっしりとした岩山を据え、緊密な画面構成をする一方、それを微妙に変化する細く穏やかな墨線で描き出し、さらに非常に明度の近い色彩で静寂ながら典雅な画世界を生み出していくその画法は我が国の南画史上にもユニークな存在である。

幕末から明治初期にかけてはさらに画名が高まり、嘉永元年(1848)には 山水図二幅を天覧に入れ、明治6年(1873)にはオーストリアの万国博覧会にも出品した。杏雨は大分の地に南画が広く展開する上でも非常に重要な位置を占めた南画家である。


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