
先週は九州へも・・、博多から北九州へ赴き、日帰りで羽田に帰ってきました。これで本年の飛行機での移動は終了となり、ほっとしています。
さて本日は本ブログでたびたび紹介してきた呉須赤絵の作品の紹介です。
明末呉須赤絵の作品はその言葉通り、明末から清初にかけて、官窯の衰退に伴って中国の南部,福建や広東方面の民窯で大量に生産され、各地に輸出された赤を主体として黄,緑,青の釉色の文様の皿や鉢をメインとした磁器群の器です。
当方では同時期の赤絵の作品をいくつか本ブログにて紹介してきましたが、その一部と並べて撮影してみました。この時期の赤絵の作品だけで数十点になりましたし、大きめの皿が多くなりました。

今までとは文様がちょっと違う大皿です。
明末呉須赤絵龍鳥牡丹文大皿
合箱入
全体サイズ:口径390*高台径*高さ80
<
この器群は明末と清初では評価が大きく異なります。時代が下がるにつれて、口縁の釉薬が剥がれる虫喰と呼ばれる個所が少なくなり、高台周りの砂付きも徐々にきれいになり、要は全体に完品に近くなります。

*本作品も虫喰部分を朱の漆で埋めています。このようなことをしないほうがよいのですが・・。


日本人が好んだ奔放さがなくなっていくことで、絵自体にも面白味が少なくなるために、作品の評価も大幅に下がります。これは日本特有の評価で、不完全さゆえの味を大きく評価する観点です。

絵の奔放さと器の焼成の不完全さがマッチした作品こそが呉須赤絵の真骨頂なのでしょう。ところが、最近その良さを理解せずに完品のほうを重宝がる御仁がいます。とくに女性に多いと思うのですが、不完全さや奔放さよりきれいな作品を求める傾向があるのは、とても残念なことです。

絵が奔放で作りが豪放な作品の完品は非常に数が少なく、あったとしてもとても高いので、当方は補修の跡のある作品が多い中からの作品を蒐集の対象としています。

本作品の中央の見込みには奥田潁川などがよく描いた麒麟のような想像上の奇獣が描かれています。

周囲には鳳凰のような鳥の文様。

大きなボタンが印象的ですね。

大きく割れていますが、このような割れは評価には大きく影響しないというのが当方の意見です。

本作品の高台はきれいなほうです。もっと豪放な高台の作品が時代が古いかもしれません。

高台周りの砂はこの程度は薄汚くついているのがいい作品の条件のようです。

形は歪んだものを良しとしています。

このような捻った評価をできてきた日本人の感性は凄いと思いますね。それが茶の文化となり、民芸運動の根底まで根付いているように思います。

この感性を失いつつある日本はどうなるのでしょうか?
さて本日は本ブログでたびたび紹介してきた呉須赤絵の作品の紹介です。
明末呉須赤絵の作品はその言葉通り、明末から清初にかけて、官窯の衰退に伴って中国の南部,福建や広東方面の民窯で大量に生産され、各地に輸出された赤を主体として黄,緑,青の釉色の文様の皿や鉢をメインとした磁器群の器です。
当方では同時期の赤絵の作品をいくつか本ブログにて紹介してきましたが、その一部と並べて撮影してみました。この時期の赤絵の作品だけで数十点になりましたし、大きめの皿が多くなりました。

今までとは文様がちょっと違う大皿です。
明末呉須赤絵龍鳥牡丹文大皿
合箱入
全体サイズ:口径390*高台径*高さ80
<

この器群は明末と清初では評価が大きく異なります。時代が下がるにつれて、口縁の釉薬が剥がれる虫喰と呼ばれる個所が少なくなり、高台周りの砂付きも徐々にきれいになり、要は全体に完品に近くなります。

*本作品も虫喰部分を朱の漆で埋めています。このようなことをしないほうがよいのですが・・。


日本人が好んだ奔放さがなくなっていくことで、絵自体にも面白味が少なくなるために、作品の評価も大幅に下がります。これは日本特有の評価で、不完全さゆえの味を大きく評価する観点です。

絵の奔放さと器の焼成の不完全さがマッチした作品こそが呉須赤絵の真骨頂なのでしょう。ところが、最近その良さを理解せずに完品のほうを重宝がる御仁がいます。とくに女性に多いと思うのですが、不完全さや奔放さよりきれいな作品を求める傾向があるのは、とても残念なことです。

絵が奔放で作りが豪放な作品の完品は非常に数が少なく、あったとしてもとても高いので、当方は補修の跡のある作品が多い中からの作品を蒐集の対象としています。

本作品の中央の見込みには奥田潁川などがよく描いた麒麟のような想像上の奇獣が描かれています。

周囲には鳳凰のような鳥の文様。

大きなボタンが印象的ですね。

大きく割れていますが、このような割れは評価には大きく影響しないというのが当方の意見です。

本作品の高台はきれいなほうです。もっと豪放な高台の作品が時代が古いかもしれません。

高台周りの砂はこの程度は薄汚くついているのがいい作品の条件のようです。

形は歪んだものを良しとしています。

このような捻った評価をできてきた日本人の感性は凄いと思いますね。それが茶の文化となり、民芸運動の根底まで根付いているように思います。

この感性を失いつつある日本はどうなるのでしょうか?