『忠朝と伊三』 なかがき
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著者近影 (2010大多喜お城祭りにて)
普通は作品が完結した後に「あとがき」というものを書きますが、今回は第一部と第二部の間なので、「なかがき」ということにしました。なかがきを書いた理由は、一応話は続く予定ですが、あくまでも予定なのでとりあえずのけじめです。宴会の中締めのようなもの、要は一本締めで、お疲れの方はお帰りいただき、飲み足りない方は残ってくださいということです。(なんのこっちゃ)
時代小説というのは、おおむね歴史的事実を踏まえて作者が想像で描く世界ですが、時に史実を歪めて世間の常識となってしまうこともあるようです。たとえば、真田幸村の本当の名前は信繁だったとか、水戸黄門は諸国漫遊をしていないとか、遠山の金さんは桜吹雪の入れ墨をしていなかった、などなど。それでも、有名な話は読者が創作とわかっていて楽しむことができますし、坂本龍馬を殺したのは誰だろうと想像を働かせて、意見を交わすのも楽しいことだと思います。
ところで、今回の「忠朝と伊三」の話ですが、残念ながら本多忠朝公についての世間の認知度はあまり高くないと思います。それ故、この七割ほどが僕の想像である話がどこまでが事実でどこが想像かということをはっきりさせておく必要があると思いました。特に登場人物について、架空の人物と実在の人物の確認させていただきと思います。
本多忠朝公についてはみなさん御承知の通り、徳川四天王の本多忠勝の二男で第二代大多喜城主です。兄の忠正よりも忠勝に似ていたらしく、戦の経験は少ないのですが、大将の資質を十分持っていたといわれています。ちょっと酒乱気味に描いてしまいましたが、酒の上での失敗を恥じていたということがあったらしいので大酒のみということにしてしまいました。忠勝の正妻がお久、側室が乙女として登場します。インターネット上で発見したのですが、実際はどうだったのでしょう?昔は女のひとの名前は記録に残らないことが多いということですが。
さて、気になるのは中根忠古です。本多忠勝の家老であり、織田信長の弟であった中根忠実(織田信照)の子供に忠古という人物がいたのですが、詳細は全く確認できません。中根家は代々本多家に仕えたというので、忠古も本多家の家来であったと思いますが、果たして忠朝の家来だったか疑問です。大坂の陣の戦死者名簿に中根権兵衛という人がいますが、この人が忠古だったのかなと想像は膨らんでしまいます。冷静で物事に動じないが、意外と情が厚いというところはおじ、織田信長のイメージを少し変えてあらわしてみました。忠朝と対照的に酒は全く飲めないという設定も信長が酒に弱かったということからの想像です。
大坂の陣の戦死者名簿に大原長五郎という人がいます。この人も実在の人物ですが、詳細は全くわかりません。小太りで汗っかきの面倒くさがりですが、忠朝にかわいがられているというちょっと憎めない存在で登場させてみました。鬼平犯科帳の木村忠吾的な役割をしてもらっています。実在の人物に詳細が分からないからといって、勝手なキャラクターを与えてしまったことは、当人にもご子孫の方にも申し訳なく、苦情があれば変更はしていきたいと思っています。
その他、実在の人物としてはドン・ロドリゴ、三浦按針、行元寺の僧定賢(後の亮運)が登場しますが、そのキャラクターはほとんど僕の想像です。実在の人物はどこまで僕の想像で動いてもらっていいのやら、悩むところではあります。
さて、一方架空の人物ですが、こちらは割と自由に動いてもらっています。以下の人々は架空の人物です。
岩和田村の人々 :伊三、サキ、名主の茂平、サキチ、タヘイ、大宮寺の和尚、平吉
ドンロドリゴ一行:ホリベエ(ホルヘ)、ケン
忠朝の家来 :長田とその妻
伊三は赤井英和、サキは中村優、茂平は中村又五郎をイメージしました。馬鹿な伊三をまるで母親のように面倒をみるサキですが、ちょっと「男はつらいよ」の寅さんの面倒をみるさくらのような味わいを出してみました。
サキは残留フィリピン人のホルヘと夫婦になるような気配ですが、実際に日本に残った乗組員もいたのでしょうか?大多喜で知り合った養老渓谷出身のジャンヌさんは「私の祖先はメキシコ人だ!」とおっしゃっていますが、ロドリゴ一行の子孫が房総にいるなんて想像するのも楽しいかも。
伊三は岩和田生まれの漁師ですが、若いころに大多喜で町の普請をしたり、後に大多喜の新田開発に携わることになっています。しかしながら、こういう移動や職業の変更が自由にできたかはわかりません。ホリベエはフィリピンで農業をしていたという設定なので、伊三はホリベエを師匠と思っています。
さてやっとこさ、ここで史実(と思われる部分)の復習です。
慶長十四年九月、前フィリピン臨時総督、ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・ベラスコ(ドン・ロドリゴ)はメキシコへの帰国途中、台風にあい、岩和田で遭難。地元の漁師に助けられたのち、大多喜の領主である本多出雲守忠朝の援助を受け、江戸、駿河に向かう。翌年徳川家康の船でメキシコに帰国。
本多忠朝は慶長十四年に国吉原の新田開発、慶長十六年に万喜原の新田開発を手掛ける。慶長十五年に父本多忠勝が伊勢桑名で死去。遺産について兄、本多忠政と争う。
以上の史実に妄想を働かせてよくもまあ、ここまで長くづらづらと書けたものだと我ながら感心してしまいます。色々なエピソードはそれなりにあるヒントがあったのですが、ちょっとやりすぎかなと思うこともあります。
前述の通り、忠朝は酒の失敗が多かったということでちょっと酒乱気味にしてしまいましたが、ロドリゴに「サルー!(スペイン語で乾杯)」といわれ、「誰が猿じゃ!」と絡むあたりは漫才みたいで調子に乗りすぎです。忠朝はロドリゴからワインを飲ませてもらいますが、これも僕の想像です。酒好きならたまたま積み荷にあったワインには興味があるんじゃないかと思いました。二日酔いで頭が痛いから朝の乗馬をやめにしたりしたのも僕のでっち上げです。
ロドリゴと三浦按針が親友のように描いてしまいましたが、実際はどうだったのでしょうか?面識はあったようですが、スペイン人とイギリス人では仲が悪いような気がします。知っている方がいたら教えてください。
僕が一番悩んだのは忠勝の臨終に忠朝が立ち会ったかどうかということです。忠勝は病の床に伏し、数日後に死去したということですから、桑名から大多喜に知らせが来ても忠勝の臨終に忠朝が間に合うのか?そもそも、忠朝は桑名に向かったのか?忠勝の辞世の句を忠朝が聞き取ったと書いている本もありますが、事実かどうかは確認できていません。悩みましたが、思い切って忠朝には桑名に行ってもらい、忠勝は家族に囲まれて穏やかな臨終を迎えたことにしました。そこでもう一つ疑問がわいてきました。忠朝と忠政の兄弟仲はどうだったのか?忠政より忠朝の方が忠勝に似ていて、忠勝も忠朝を愛し、周りも忠朝こそ忠勝の将器を継いだとほめたたえられたというエピソードをよく見ます。遺産の件で兄弟がもめたという話もありますが、その結末も忠朝が遺産を兄に譲ったという潔さが称賛されています。思うに、兄弟仲は悪くはなかったが、兄が弟に嫉妬したというところではなかったか?と、これも僕の妄想ですけど。
長男よりも次男の方が体も大きくて活発だということがよくありますよね。例えば、芸人の中川家や千原兄弟も弟の方が目立っています。実は僕も長男で二人の弟の方が体も大きく、三人そろって神輿を担ぐと僕は弟たちの間で棒にぶら下がったような感じになってしまいます。別に僕は弟に嫉妬することは無いですけど、忠政にはちょっと感情移入してしまいました。
本当はドン・ロドリゴの話にしようかと思って書き出したのですが、わき役だったはずの伊三が面白いキャラクターになってしまったので、いつの間にか忠朝と伊三の話になってしまい、ここまで長くなってしまいました。名編集長のジャンヌさんにおだてられて、書く気満々、どうせなら大坂の陣まで行ってやるかと!意気込んでいますが、ここからは史上有名な話なので今まで以上に気をつけて書かないと覚悟しています。(別に今までが気をつけて書いていたわけではありませんけど)
最後に実在の人物に勝手なキャラクターをつけて、適当に書きすすめてしまいました。大多喜、岩和田、桑名の地元の方、登場人物のご子孫の方で不快な思いをされた方いらっしゃったらお詫びします。また、本多忠朝に関連する面白いエピソードを知っている方は教えていただけると嬉しいです。
いつか、どこかにつづく、、、、、(by 久我原さん)