大多喜町観光協会 サポーター

大多喜町の良いところを、ジャンルを問わず☆魅力まるごと☆ご紹介します。

知らないともったいない大多喜

2010年11月24日 | 大多喜町の観光スポット

大多喜での光景いろいろ

いすみ鉄道のある駅の夜の顔です!

すごいわ~、驚きました!!

いすみ鉄道の黄色い列車が3両も走っています。

 

  デンタルサポート大多喜駅前にある観光本陣に、本多忠勝公と娘・小松姫が皆様をお迎えしております。いすみ市の奥村さんが作ってくださいました(●^o^●)

デンタルサポート大多喜駅から徒歩2分のところに、こんな街並みがあります。写真は「はいからさん通り」としたい希望が妄想になり、病気になりそうな方です。23日の二十八市の企画「着物で町を歩こう」で、野口染物店さんのご協力を得て、「はいからさんが通る」実体験。突然だったので、袴や髪のリボンがないですが、気合です! 


 

はいからさんは大多喜観光本陣で300円で自転車を借りていますから、どこへでもスーイスイ!


 この看板は上総中野駅で焼き芋を無料で配布している方がボランティアで作成してくださいました。

本日の掲示板より http://otakitown-1.bbs.fc2.com/

by ただとも



大多喜城下「二十八市(にっぱちいち)」報告で~す。

2010年11月23日 | 葵の会 

11月23日、養老渓谷では紅葉祭りが行われ、

大多喜城下では葵の会主催の二十八市(にっぱちいち)が開催されました。 

TAKERUさんの和太鼓演奏、わら細工、陶芸などの体験、

ご当地グルメ「たけのころっけ」や「あおいちゃんだんご」「みそ田楽」に舌鼓。

街並みは着物で町めぐり企画で、城下に花が咲きました。

(無料で着物を貸していただけます。着付けもボランティアの皆さん)

  

 

 

 

  

房総の小江戸は、いすみ鉄道デンタルサポート大多喜駅から徒歩2分です。

房総の小江戸・大多喜城下は「はいからさんが通る」街です

葵の会の皆様、野口染物店様、楽しい時間をありがとうございました(by J)  


養老渓谷紅葉情報 (千葉県大多喜町)

2010年11月23日 | 大多喜町の観光スポット

THE☆谷 紅前線

  

大多喜町の紅葉は、例年11月下旬頃からが見頃となり、その景観は、言葉では表現できません。 

写真ではごく一部しかお伝えできません。

それほどに素晴らしく、見る者を圧倒し続けて、毎年多くのお客さまが訪れます。      

養老渓谷の紅葉情報 

 大多喜町オフィシャルサイト  養老渓谷紅葉MAP

 

毎日チェックしましょう 

養老渓谷ふる里を守る会  清恵おかみの紅葉情報

 

お泊りは養老渓谷へ♪  養老渓谷温泉郷 

  


BS2 フォト575 お題は向山トンネル(大多喜町葛藤)

2010年11月22日 | 大多喜町 養老渓谷

カシャっと一句!フォト

  

番組ホームページ 

http://www.nhk.or.jp/photo575/

締め切りは今日(11月24日)ですよ!

iモード
メニューリスト→TV/ラジオ/雑誌→TV→NHK→50音順→カシャッと一句!フォト575

EZweb
トップメニュー→カテゴリで探す→TV・メディア→全国TV→NHK→50音順→カシャと一句!フォト575

yahoo!ケータイ
メニューリスト→TV・ラジオ・雑誌→TV→NHK→カシャッと一句!フォト575

向山トンネルは、養老渓谷温泉郷 (大多喜町葛藤)にあります。出口が二つの不思議なトンネル!

 

向山トンネルは 12月7日の放送


養老渓谷 ライトアップ田舎汁サービス

2010年11月21日 | 大多喜町 養老渓谷

色づきの少し進んでいるモミジが暗闇に浮かびあがっていました。

地元有志による、土曜と休日(雨天休業)の

ライトアップ田舎汁サービス

はじまりました!

20日はナメコ汁とシシ汁。宿泊されている方や日帰りの方など多くの方が立ち寄って下さった。今夜はあまり寒くはなかったけれど、やっぱりたき火と鍋から立ち上がる湯気はなんともいえませんなぁ~。

お孫さんと一緒にライトアップ見物をし、

チョット疲れたので一休みしてシシ汁で体を温めているところ?

養老渓谷、老川十字路に来てくんなよ~!

宿泊、お風呂が自慢のがありますよ。

 http://www.yorokeikoku.com/

(by 田舎の爺さん)


千葉都市モノレールといすみ鉄道 「レールは繋がってる」の巻

2010年11月20日 | 頑張れ!いすみ鉄道

 

いすみ鉄道で販売している本多忠勝公の絵馬が、

千葉都市モノレール都賀駅神社様に奉納されました。

奉納された絵馬はご覧のとおりです。

 

願いを書いて奉納してくださったのは、千葉都市モノレール社長 おーさん さんです。 おーさんさんも、我等がいすみ鉄道と同じく、今年公募で選ばれた社長さんです。

最近、ひょんなことから色々繋がる千葉都市モノレールです。詳しい経緯は掲示板うえるかむ大多喜をご覧ください。やはり、レールの力は大きいことを実感します。

記事はこちら http://ameblo.jp/m-osawa/entry-10711703320.html

 

開運・勝利の神将 本多忠勝とは?

徳川家康時代の四天王、十六神将のひとりであり、上総大多喜藩十万石の初代藩主である、本多忠勝公は、生涯五十七度の合戦に出陣し、如何なる窮地においても決してあきらめず、ただの一度も傷を受けなかった強運の持ち主。

難関をも通りぬけた忠勝公の強運を得て、何事もあきらめずに努力を続ければ、そのご加護により必ずや願いは成就することでしょう。

 

絵馬はいすみ鉄道で販売しています。

http://www.isumirail.co.jp/

 

 

 

いすみ鉄道存続という願いを成就させてくださった、いすみ鉄道二人の公募社長より、千葉都市モノレール社長・おーさんさんへ手にエールを送らせていただきます。 (by J)

(上の写真は千葉都市モノレール様より、お借りしています)


大多喜はイベント満載

2010年11月19日 | 大多喜町の観光スポット

11月23日はイベント満載

養老渓谷紅葉まつり

 

場所:上総中野駅・・・鉄道利用者に焼きいもプレゼント(なくなり次第終了)

    養老渓谷老川交差点そば・・・・(大鍋、もちつき)

    会所高原・・・・地元産農産物直売 

大多喜城下ではにっぱち市

 23日は養老渓谷では「紅葉まつり」、大多喜駅周辺の街なみでは、おかみさん会(葵の会)による「二十八市」が開催されます。

 

是非、ムーミン列車に乗っておいで下さい。

いすみ鉄道で「希望の歌~交響曲第九番~」【多分MADw】


ムーミン列車に乗ってこられる方のための一日の行程を考えてみました。


大原発(ムーミン列車)8:58発-----大多喜着二十八市9:30~11:00 大多喜発11:09---上総中野着11:29 (駅前でイベント開催)

探勝バス(粟又行き)11:33又12:40発選択----粟又の滝・遊歩道・紅葉散策(中野発探勝 バスの時間により 2:20又は1:30の散策)

粟又発(探勝バス)14:20--上総中野発15:08----大多喜15:34----大原着16:02

以上のような行程となりますがどうでしょうか
昼食については、上総中野駅前イベントの出店での軽食又は粟又の滝周辺になります。

分からない点がありましたらご連絡を下さい。
又、機会がありましたら大多喜駅前の観光本陣にお立ち寄りください。(当日、私は上総中野駅にいます。 by ただ勝)
観光本陣 TEL 0470-80-1146(観光協会直通)

 

お車でお出での方は道の駅たけゆらの里でも14周年記念イベントがあります。

大多喜町たけゆらの里 (晩秋編).wmv

千円以上お買い上げの方にはガラポンで大多喜産お米も当たります。

 *気になる写真の綺麗なお姉さんは うぃーくえんど千葉さん&貴嶋みっちゃん(大多喜城下渡辺家住宅・遠縁さん)です。


小説 本多忠朝と伊三 22  (第ニ部)

2010年11月19日 | ☆おおたき観光協会大河ドラマ 本多忠朝

ちょっと挿入してみました。「二代目のあり方」を考える ~森祇晶 (徳川秀忠を通して)

市川市在住の久我原さんの妄想の入った小説です 

第2部  忠朝と伊三 22

 これまでのお話 1~21 は コチラ

 江戸の空も晴れていた。メヒコで田中勝介とケンがドン・ロドリゴと会見をした同じころ、慶長十六年正月のある日のことである。。
 江戸城の客間で
本多出雲守忠朝将軍秀忠のお出ましを待っていた。
 年賀のあいさつのため江戸に来ていた忠朝だが、将軍家へのあいさつが終わり、正月に江戸に集まっていた大名たちと親交を深め、大多喜への帰国の準備をしているところに秀忠から呼び出しがかかったのである。
 忠朝のところに来た使いの者は随分とあわてた様子だったので、急ぎの用事かと思い駆けつけたのだが、客間に通されたまま、もう小半時(一時間)ほど待たされていた。
 小姓が三度お茶を替えに来たが、三杯目のお茶はすでに冷たくなっている。
「殿、上様はまだお出ましにはなりませんかね。もう一時(二時間)も立つのではありませんか。こちらは帰国の準備で忙しいというのに、、、」
 忠朝は供の大原を睨みつけた。
「大原、わざわざのお呼び出し、上様はこの忠朝に特別の用があるのであろうよ。それに屋敷を出るとき供を願い出てきたのはお前ではないか。文句を言うならもう帰れ。」
「い、いや、とんでもない。これは口が過ぎました。申し訳ありません。」
「ふん。」
 忠朝が大原を一瞥して鼻を鳴らした時、廊下に人の気配がした。障子が開くと将軍徳川秀忠が薄気味悪い微笑みを浮かべながら忠朝と大原が待つ部屋に入ってきた。
「いや、いや、出雲守、待たせてすまなんだ。」
 秀忠が部屋に入ってくると忠朝と大原はひれ伏した。
「そちの屋敷に使いをやった後、彦左衛門につかまってなあ。年寄りは口うるさくてかなわん、いつまでも子ども扱いしよって。いや、いや、ご苦労であった。帰国の準備の忙しい中、急に呼び出してすまなんだ。」
 秀忠がすまなんだ、すまなんだと繰り返すので、忠朝はひれ伏したまま答えた。
「とんでもないことです。こちらでも、帰国の前にご挨拶をと考えていたところでございます。」
「そうか、そうか。まあ、表をあげよ。徳川と本多は三河以来の主従、親戚も同然じゃ。そう堅苦しくせんでもいい。」
 忠朝は頭をあげた。目に飛び込んできた秀忠の顔は口元は笑っているが、目が笑っていない。能面のような中根忠古の表情には慣れている忠朝だが、この二代目将軍の目の奥には忠古とは違う不気味な光が宿っている。
「わざわざのお呼び出し、光栄にございます。久しぶりに江戸に参り、大多喜の田舎では味わえない思いをさせていただきました。」
「出雲。」
「はい。」
「いや、特別な用事があるわけではないがのう、帰国の前に話をしたかったのでな。」
「?」
「まあ、世間話じゃ。別に内密の話ではないが、できたら二人だけで話をしたくてな。いや、なに、ちょいと思い出話をしたくなってな。」
 秀忠は忠朝の後ろに控えている大原をちらりと見た。忠朝は振りかえって大原に目で席をはずせと指示した。大原は無言で一礼すると部屋から出て行った。
 忠朝は世間話と言いながら、何か内密に重要な話があるのではないかと緊張した。
 大原が部屋から出て行くのを見送り、秀忠は渋い顔をした。
「何じゃ、無愛想な男だのう。」
「申し訳ないことです。あれでもなかなかの忠義者。私にとっては大切な家臣です。」
 忠朝が答えると、秀忠は天井見つめ、腕を組んで黙り込んだ。
 しばらくすると秀忠は腕を解き、忠朝の顔を見ないで話し始めた。
「上田攻めの時に感じたのだが、、、」
「上田攻めと言うと、関ヶ原の合戦の時の事でございますか?」
「そうじゃ。そちの義兄の信之な、本当に徳川に臣従しておるのかのう。」
 信之と言うのは忠朝の姉の
小松が嫁いでいる真田信之の事である。関ヶ原の合戦の時、西軍に味方した父の真田昌幸と袂を分かち、信之は徳川に従った。秀忠は中山道を通り、関ヶ原に向かう途中、真田昌幸が籠る上田城を囲んだ。信之は義弟である本多忠政と供に真田昌幸に降伏するように説得したが、失敗に終わった。その後、信之は戸石城に籠る弟信繁と対峙するが、信繁はあっさりと兵を引き、一方、上田を囲む秀忠率いる徳川本隊は少数の真田軍に翻弄された。本多正信の時間を費やすよりも早く家康と合流した方が良いという進言を取り、秀忠は関ヶ原に向かったがついには決戦には間に合わず、大勢の家臣の前で家康に叱責された。その時の屈辱は今でも胸の奥に重い塊となって残っている。
 上田攻めに手間がかかり決戦に間に合わなかった秀忠は、上田での真田信之の振る舞いは時間稼ぎだったのではないか、と疑っている。
「あの折は、父上、いや大御所様に大叱責されてなあ、廃嫡も覚悟した程じゃった。」
「お言葉ではございますが、兄上(信之)のその後の振る舞いをみれば徳川に忠誠を誓っているのは明白。血縁の情がありますれば、昌幸殿の命乞いはしたものの、それは私の父も同じこと。」
 忠朝がそういうと秀忠はあの薄気味悪い微笑みを浮かべた。
 関ヶ原の戦後処理を決めるとき、秀忠は昌幸と信繁の親子の切腹を主張したが、真田信之と本多忠勝の体を張った命乞いに家康は真田親子を紀州九度山に流刑としたのであった。悔しかった。父、家康は息子の秀忠よりも家臣の忠勝の意見を取り入れたのである。
「そちは忠勝と供に島津相手に大奮闘したからのう。わしはみておらんがの。大御所様からおほめの言葉もいただいた。あの時はそちの兄、忠政も悔しがっておったぞ。」
 忠朝は去年、父を見舞うために桑名に言った時に兄に同じ様なことを言われたのを思い出した。
「あの時、供に中山道を行軍したからというわけではないが、わしは忠政の気持ちはなんとなくわかるんじゃ。」
「兄上の気持ち?」
「嫉妬じゃよ。」
 秀忠にそう言われて、忠朝は背筋に冷たいものを感じた。言葉にこそ出さないが、忠朝はそのことを感じていた。
(兄は私をうらやんでいる。)
 思わず曇った忠朝の表情に気付いているのか、いないのか、秀忠は話を続けた。
「存じてはおろうが、わしには信康と言う兄がおった。わしが生まれた年に、信長公の命令で自害してしまったがな。お陰でわしは今、将軍様だ。」
 秀忠はまた、にたりと笑った。
「じゃが、一度だけ父上が『信康が生きておればのう。』とつぶやいたのを聞いたことがある。わしは兄の事を知らんが、羨んだ。父は兄を惜しんでいる。そりゃ、親が子供の死を悼むのは当たり前だが、兄と比べられて劣っていると言われているようでわしは辛かった。」
「上様、そのような、、、」
「まあ、聞け。忠朝。」
 忠朝はドキリとした。今まで、秀忠は忠朝のことを官職で「出雲」と呼んでいたのに、初めて忠朝の名前を口にした。
「忠政も同じ様に思っているのではないか?関ヶ原で手柄を立て、今回の遺産の件でも忠朝潔しと言ううわさはこの江戸でも評判じゃ。忠政もすぐれた男であることはわかっているが、常に弟と比べられて、そちに嫉妬しているのであろう。」
 忠朝は考え込んだ。秀忠は何故この様な話をし始めたのか?
「兄と弟の立場は違うが、わしは忠政と同じような境遇、、、いや、すまんすまん。こんな話ができる相手はなかなかおらんでな。ついつい思い出話にしゃべりすぎたわ。」
 とても、思い出話には思えない。兄を差し置いて出しゃばるなと言う忠告であろうか?忠朝はそう考えた。
「お言葉、十分に胸にしみわたりました。肝に銘じます。」
「肝に銘じる?ただの世間話じゃ、つまらん愚痴と忘れてくれ。」
「はは。」
「ところで、上総の事だが、土岐の家来どもはどうしている。」
「はい。土岐の旧臣、我が本多家で召しかかえるか、多くは帰農しております。まだ、一部、浪人となり怪しい動きをするものもいますが、事あるごとに捕縛、処分しております。」
「そうか。上総、安房は永らく小豪族が争いあった地だ。うまく治めるのは難しかろうが、よろしく頼むぞ。」
「はは。お任せ下さい。近々、新田開発を行いますが、その仕事に土岐の旧臣を使おうと思っています。仕事を与えれば余計なことは考えないのではないかと。」
「そうか。それは良い。できることがあれば、わしからも援助いたそう。」
「滅相もない。これは、我が領地の事。私どもの力で成し遂げてご覧にいれます。」
「そうか。さすが、忠朝じゃ。」
 また、秀忠はにたりと笑った。
 その後、秀忠は取りとめのない世間話をし、
「おお、そうじゃ、今日は他にも客があるでな。まあ、さっきの話は気にせんでくれ。桑名にいる桑名よりも、大多喜にいるそちの方がこの江戸には近いことだ、これからも色々と協力してもらうこともあるだろう。よろしく頼むぞ」
と、言って客間から出て行った。
(上様は一体何を言いたかっただろう?)
 一人残された忠朝が考えを巡らせていると、背後に人の気配を感じた。
「大原か?」
 振り向くとみたことのない、四十がらみの小さな男が座っていた。
「お、お手前、どちらかな?」
 忠朝がたずねると、その小さな男は、
「服部半蔵と申す。」
と短く答えた。
「服部半蔵、、殿?生きておられたのか。父から御活躍の話は聞いております。お会いできて光栄です。」
 忠朝は思ったより若い半蔵を不思議そうにみた。服部半蔵と言えば小田原の戦の後、死んだものとばかり思っていたが、、
「ふん、私の活躍?忠朝殿にも知られているとは私もまだまだだな。」
「?」
「ぐふふ、いやいや、冗談でござるよ。忠勝殿から聞いたという服部半蔵とは父、正成のことでござろう。」
「それでは、あなたは。」
「服部半蔵正成の息子、
半蔵正就でござる。」
 今忠朝の目の前にいる服部半蔵は徳川家康のそば近く仕えた半蔵正成の息子正就であった。
 服部半蔵はその出身が伊賀であり、伊賀忍者の統率をしていた上忍(忍者集団の頭)と思われているが、半蔵自身は武将であり、得意なのは手裏剣ではなく槍であった。
「そうですか、いや、思いのほかお若いと思いました。そうですか、あの半蔵殿の御子息。私は本多忠勝の息子本多忠朝にござる。以後、よろしゅう。」
と言って、忠朝は頭を下げた。下げた頭をあげるとそこにはもはや正就の姿はなかった。
 忠朝はニンマリとした。
(さすが伊賀者。)
 音もなく正就が去ったところへ、ふすまが開いて大原が顔をのぞかせた。
「殿、そろそろお帰りになりませんか。帰国の準備もせねばなりません。」
「おお、そうだな。ところで、今、背の低い四十がらみの男に会わなかったか?」
「いいえ。」
「そうか。」
「上様の他にだれか来たのですか?」
「いや、なんでもない。気のせいかもしれん。」
 忠朝は正就とたった今会ったことが、ふと一瞬のゆめっだたのではないかと感じた。」     
続く


白土三平さん&つげ義春さん×大多喜町

2010年11月19日 | 大多喜町の観光スポット

NHK朝の連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」ご覧になってらっしゃいますか? 同じようなご苦労をなさったかもしれないお二人をご紹介します。 『ねじ式』の つげ義春さんと『カムイ伝』の白土三平さん。大多喜町は、つげ義春さんの作品を追って旅する方が訪れる町です。

 

いすみ鉄道大多喜駅から10分ほど歩いたところにある寿恵比楼旅館(現在は営業されていない。小湊鉄道バス営業所隣)

私の手元に、つげ義春『つげ義春コレクション・苦節十年記/旅籠の思い出』があります。そのP16~21に、昭和40年9月末頃、白土三平さんとつげ義春さんが半月ほど滞在して仕事をされた時のことが書かれています

以下、『つげ義春コレクション 苦節十年記/旅籠の思い出』より抜粋

 昭和40年の9月末ころ、白土三平さんとそのマネージャーの岩崎さんと私の三人は、千葉県大多喜町の「寿恵比楼」という宿に半月ほど滞在し仕事をしたことがあった。私は短編を一作仕上げ、白土さんは案だけを練っていた。その案を練るために白土さんはこの宿をよく利用していたようで、仕事の合間にそこいらへ釣りをしに行くバイクまで預けていた。
 この寿恵比楼という宿は、町外れの夷隅川の橋のたもとにあった。商人や工事関係の客が主に利用するようで、昔ながらの商人宿だった。主人はどこかに勤めていて、三十歳位のおかみさんと、その妹の十七、八の娘さんと、お婆さん(主人の母親)が宿を切り盛りしていた。もっともお婆さんは何もせず、いつも帳場の長火鉢の前で煙管をふかしているだけだったが。おかみさんはぽちゃっとして明るく気さくで、おかみさんの里から手伝いに来ている妹のカズちゃんは、色白で可憐でやはり明るい娘だった。お婆さんは男のように髪を短くしていた。主人はあまり家にいないので、私はチラとしか会ったことがなく印象に残っていない。
 白土さんはこの家族と親しい付き合いをしていたようで、私と滞在していた時も、お茶に呼ばれたり、宿代に含まれていないお午にも時々呼ばれ、私も岩崎さんも一緒に階下の帳場へドヤドヤおりて行って、おかみさんやカズちゃん相手に世間話をしたり、その場に寝そべって煙草をふかしたりで、随分気ままにしていた。
 その宿の隣には、小湊鉄道バスの車庫があった。バスガイドの寄宿舎もあり、夜になるとその寄宿舎の窓にいっせいに明かりがともり、若いガイド嬢たちの賑やかな声が聞かれた。宿と寄宿舎の窓はいくらも離れていないので、開け放った窓から彼女らの話は筒抜けだった。男三人のこちらを意識して声を大きくしていたのか、大声だと段々口調が芝居がかって、身振りにも抑揚がつき、劇を見せられているようで楽しかった。
 私はこういう宿を定宿にしている白土さんが羨ましく思え、自分も将来たくさん稼げるようになったら、定宿を持ちたいと思った。
・・・・・・・・・・
 寝る時にカズちゃんが蒲団を敷きに来て、私がドテラのまま床に着こうとすると「ドテラのまま寝るとせつなくてねえ」と言った。哀しいときのせつないは分かるけど、ドテラでもこもこして寝苦しいのをせつないと言うのは面白いと思った。可憐なカズちゃんが恋愛でもした時は、せつない胸のうちをどういう言葉で表現するのだろうと思った。
・・・・・・・・・・・ 

 この文を綴っていて私は、これまでにどの位、旅籠に泊まったのか思い出してみた。すると全部は思い出しきれないけれど、案外多いことが判った。

大多喜では寿恵比楼以外に「大屋」という旅籠に四十八年に泊まっている。大屋の方が寿恵比楼より造りは本格的な旅籠で、明治か江戸時代のままとか言っていた。宿の人の感じも悪くなかった。おおむね観光旅館より商人宿の方が気さくで親しめるように思える。 (以上 つげ義春コレクションより抜粋)

つげ義春さんが2年後に再び寿恵比楼旅館に行かれたとき、おかみさんに手土産を渡しながら「さっき白土さんに会ってきた」と言うと、おかみさんが「白土さんは長いことお見えになっていない。どうしているのか」と聞かれた。その頃白土さんは上総湊に家を借り、仕事場にしていたので途中寄って来たことを報告すると、そばにいたお婆さんが

「あんだと ヒゲは湊にいるんだと、それじゃカカアも一緒だべ」と。

白土三平さんは髭も髪も構わぬほうでのび放題、印度の行者を想わす風貌だったが、マンガ界の巨匠も寿恵比楼旅館のお婆さんには、ただの髭と言われているのが可笑しかったそうです

つげ義春さんと白土三平さんの本 ↑

2009年2月10日発行の「つげ義春コレクション・紅い花」より

大多喜行について「自然の風物の何もかもが新鮮に見えて、目からうろこが落ちたようでした」

カムイは昨年外伝が映画化されたり、千葉パルコ「千葉戦国祭り」会場ではTシャツがありました。 つげ義春さんは水木しげるさんのアシスタントもされていたとか・・・? つげさんのお母様は大原出身なんです。 (by ジャンヌ)

---------------------------------------

この記事は7月23日に書かれたものを再UPしています。

---------------------------------------

いすみのむら様より、11月13日に観光本陣に、

月間漫画ガロを寄贈していただきました。

今では大変貴重なものです。どうぞ、観光本陣にお立ち寄りください。

↑ いすみのむらさんより寄贈された「ガロ」です。

ありがとうございました。 


養老渓谷カメラマンをみかけたら・・・実験

2010年11月18日 | 大多喜町の観光スポット

ジャンヌです。11月13日(土)大多喜町観光スポット巡りツアーがありました。 こちら  

観光の皆様にお知らせしたいことシリーズ第5弾 (もういい加減にして?)

景勝地には、カメラマンさん達が多いですね。 右下の写真の方は姉崎在住の市川さんです。 作品は養老渓谷の観光ポスター等になったことがあるそうです。

 

そこで

はじめまして~。すごいカメラですね。ちょっと覗かせてください。

どうぞ、どうぞ~  (とても親切な方です)

と、私の初心者以前カメラでファインダーの中を撮影。 

  

  

初心者用のカメラをお持ちの皆様も、優しそうなカメラマンさんを見つけたら突撃です!  実際はアナログとハイビジョンくらいの違いがあります。貴重な体験をさせていただきました。

この撮影場所は、粟又の滝近く・ごりやくの湯の奥にある『金神の滝』。カメラスポットです。

 

その後、中瀬遊歩道散策中に売店で、市川さんの撮影された写真かと思われるポスターを発見!  感激です

   

カメラマンのみなさん、人にも地域にも貢献していますね! 

市川さん、ありがとうございました。 (by ジャンヌ)


養老渓谷ライトアップ  夜の宴(うたげ) 

2010年11月17日 | 大多喜町 養老渓谷

養老渓谷も晩秋を迎え、日本で最も遅い紅葉が始まりました。 

日中の紅葉はもちろんですが、静けさを取り戻したライトアップで浮かび上がるモミジも幻想的でなかなか味わいのある風情です。 またモミジの色ずきは日増しに濃くなりつつあり、月末から12月上旬頃が見ごろとなりそうです。

 そんな中で、地元有志によるライトアップ田舎汁サービス土曜と休日(雨天休業)に限り始まりますので是非お立ち寄りください。 ナメコ汁やシシ汁…などなどです。

場所は、老川郵便局(小田代)脇です。

(by サポーター@田舎の爺さん)


小松姫(稲姫)大多喜町に里帰り  

2010年11月17日 | 本多忠勝 本多忠朝 大多喜城

小松姫が里帰り!

いすみ鉄道デンタルサポート大多喜駅前の観光本陣で会えます

ムーミン人形師として有名な、いすみ市の奥村ユージさんが作ってくださいました ありがとうございます 

 

 小松姫とは? 小松姫(こまつひめ、天正元年(1573年) - 元和6年2月24日(1620年3月27日)は、上田藩藩主(後に松代藩に移封)真田信之(信幸)の妻。徳川氏譜代家臣の本多忠勝の長女(第1子)で、母は側室の乙女。幼名を稲姫(いなひめ)、または於小亥(おねい)と称する。もり姫(奥平家昌室)、本多忠政、本多忠朝の姉。徳川家康の養女(徳川秀忠の養女という説もある)となり、天正14年(1586年、17年あるいは18年の説もある)に真田信之に嫁ぐ。信政、信重、まん(高力忠房室)、まさ(佐久間勝宗室)ら2男2女の母。

戦国無双』シリーズでは幼名の「稲姫」の名で登場しています


本多忠勝と本多忠朝

本多忠勝没後400年記念≪動画≫ 制作:いすみ鉄道応援団 写真はいすみ鉄道応援団、戦国画は福田彰宏さん、音楽は、moka(モカ)さんの「ロボット」。大多喜城へは、世界で唯一のムーミン列車・いすみ鉄道をご利用ください。   

大多喜城讃歌

大多喜城讃歌   作詞 尾本信平  作曲 市角源一 ≪1≫ 世は戦国の 房総に    武田や正木の 根古屋(ネゴヤ)城   万喜(マンギ)の土岐(ドキ)と 幾度か   干戈(カンカ)交へし 刈谷原   ああ夢遠し 大多喜城   鐘の音何処 無縁堂 ≪2≫ 三河の本多 忠勝は   徳川勢の 四天王   里見に備へ 舞鶴(ブカク)城   夕陽きらめく 天守閣   ああ夢遠し 大多喜城   冑の絵姿(スガタ) 今に見る ≪3≫ 慶長秋に ロドリゴは   ルソンを出でて 岩和田に   漂着難破 忠朝(タダトモ)の   なさけは世界に 伝はりぬ   ああ夢遠し 大多喜城   支倉(ハセクラ)ローマの 縁かな ≪4≫ 天下を分つ 関ヶ原   大阪冬や 夏の陣   忠朝あはれ 討死す   苔むす墓石(ハカ)や 良玄寺   ああ夢遠し 大多喜城   名将ここに 眠れるか ≪5≫ 京洛の秋 風寒し   薩長土肥か 徳川か   城主の老中 正質(マサタダ)は   幕軍率いて 鳥羽伏見   ああ夢遠し 大多喜城   調練励む 民人も ≪6≫ 昔を偲ぶ 大井戸や   空壕(カラボリ)跡も 草しげし   若殿輩(ワカトノバラ)も 此の城門(モン)を   立ち出てたらむ 花吹雪    ああ夢遠し 大多喜城   影こそ映れ 御禁止(オトメ)川

大多喜町観光本陣(この記事は常時TOPにあります)

大多喜町大多喜270-1(いすみ鉄道大多喜駅前) 電話 0470-80-1146(代)  FAX 0470-82-6860 ○開館時間 午前9時から午後5時 ○休館日 毎週月曜日(祝日等の場合は翌日)及び12月29日から1月3日 〇貸し自転車、人力車あり