メキシコ音楽祭2010が、1月17日大多喜町(1月16日御宿町)で開催されます。大多喜町で開催される際、歓迎レセプションで『大多喜城讃歌』合唱があります。
この曲には、いすみの歴史が詰まっているということを発見!すごい! 「いすみ鉄道ファン」管理人としては黄色い列車『ムーミン列車』が走る地域の歴史を多くの方に知っていただくことが、観光の要の一つであると考えています。また、地元の方には歴史から誇りを感じ、いすみ鉄道が走っている意義を深めていただけましたら幸いです。
歌詞や解説については、大多喜城様、大多喜町役場様からFAXで送っていただき、書き写させていただきました。ありがとうございました
大多喜城讃歌 作詞 尾本信平 作曲 市角源一
1 世は戦国の 房総に
武田や正木の 根古屋(ネゴヤ)城
万喜(マンギ)の土岐(ドキ)と 幾度か
干戈(カンカ)交へし 刈谷原
ああ夢遠し 大多喜城
鐘の音何処 無縁堂
2 三河の本多 忠勝は
徳川勢の 四天王
里見に備へ 舞鶴(ブカク)城
夕陽きらめく 天守閣
ああ夢遠し 大多喜城
冑の絵姿(スガタ) 今に見る
3 慶長秋に ロドリゴは
ルソンを出でて 岩和田に
漂着難破 忠朝(タダトモ)の
なさけは世界に 伝はりぬ
ああ夢遠し 大多喜城
支倉(ハセクラ)ローマの 縁かな
4 天下を分つ 関ヶ原
大阪冬や 夏の陣
忠朝あはれ 討死す
苔むす墓石(ハカ)や 良玄寺
ああ夢遠し 大多喜城
名将ここに 眠れるか
5 京洛の秋 風寒し
薩長土肥か 徳川か
城主の老中 正質(マサタダ)は
幕軍率いて 鳥羽伏見
ああ夢遠し 大多喜城
調練励む 民人も
6 昔を偲ぶ 大井戸や
空壕(カラボリ)跡も 草しげし
若殿輩(ワカトノバラ)も 此の城門(モン)を
立ち出てたらむ 花吹雪
ああ夢遠し 大多喜城
影こそ映れ 御禁止(オトメ)川
大多喜城讃歌の解説
1 戦国時代
(1)根古屋城
1521年(大永2年)(川中島合戦より約40年前)庁南武田氏里見に備えるため武田信清をして築城せしめたもので現在の大多喜城の北方台地にあった。
武田氏三代の後、里見の家臣正木氏三代の居城であり、家康関東進出に伴って入城した本多忠勝により現在の大多喜城に移転されるまで約70年間この地方の中心を為していた。
(2)万喜城(万木城)
古くは万騎馬城とも書かれていたが、この付近、馬の産地であったためと思われる。
築城は明らかでないが、16世紀半ばとも言われるので根古屋城と同時代であろう。
(3)武田氏、正木氏、土岐氏
当時、房総半島中南部はその西、南側を里見氏、東側を武田氏が領し、抗争を繰返している。
このうち、里見氏の勢力最も強く漸次その勢力を増して小田原の北条氏と対抗するまでに至り、これに越後の上杉も加わり幾多の合戦と離合集散が見られる。
武田氏は庁南に居城を持ち、南の里見に備えるため、大多喜に根古屋城を築く。正木時茂は里見の家臣であり、武田朝信(三代目)と戦うこと10年、ついに刈谷原でこれを討ち根古屋城主となる。(1544)正木氏は時茂、憲時、時尭の三代根古屋にあったが、北条系の万喜城の土岐氏と常に相争い、正木氏の最後城主時尭は、土岐頼春と刈谷原に戦い大敗している。
土岐氏は美濃土岐の一族であり、最初は里見と通じていたが、後に北条系となっている。
(4)刈谷原、無縁堂
武田氏と正木、里見と土岐、正木と土岐等と多くの戦闘が刈谷原(現在いすみ市刈谷)で行われており、その戦死者を弔うために大多喜に鐘楼が建てられ、朝夕鐘の音が響いていた。400年も長い間響いたこ鐘も大東亜戦争に供出、今はその堂と共に見ることは出来ない。(現在、大多喜中学校敷地の一部であり夷隅川に面した小高い丘の上にあった)
2 本多家時代
戦国画より 本多忠勝(左) 本多忠朝と母於久(右)
(1) 本多忠勝
本多家は、徳川譜代の重臣であり、家康、今川家に人質となった時もその家来として家康に仕えていた。常に家康の幕下にあり、大小五十数回の戦闘に参加、家康の危急救っており、殊に関ヶ原合戦には、軍監として(参謀長か)大功を立てている。
秀吉の北條攻略に際しても大功あり、秀吉は忠勝に佐藤忠信の冑を贈り「今の世にこの冑をつけるに相応しい者は忠勝をおいて外にない。」と激賞している。(この冑をつけた肖像画は今も残っている。)
秀吉の北條討伐後家康関八州を領すに至り(天正18年、1590)忠勝房総半島の平定をなし、十万石の領主として大多喜城主となったが、里見は房州にあり、根古屋城は平城で要害不十分であると判断、家康の許可を得て現在の大多喜城を築城し、舞鶴城と名付けた。
関ヶ原後、即ち忠勝大多喜城入城後、十年間余(1590~1601)にして、忠勝は伊勢、桑名十万石に移封となり、長男忠政と共に桑名城に赴き、慶長18年(1613)没している。(63歳)
忠勝は大多喜城のみならず、都市計画を実施、現在の大多喜町町並の基礎を作り、菩提寺良玄寺の建立等をしている。分骨ではあろうが、良玄寺に忠勝の墓がある。
(2) 本多忠朝
忠勝の二男であり父忠勝、兄忠政桑名へ移封後、五万石として大多喜城主となる。忠勝の妻即ち忠朝の母も大多喜城に残しているところを見れば、忠勝は余程大多喜が去り難かったのであろう。父忠勝と共に関ヶ原、忠勝の死後大阪冬・夏の陣に、大多喜城より出陣大いに戦功があったが夏の陣において遂に戦死、良玄寺にその墓がある。忠朝大多喜城主中の世界史に残る事実としてフィリピン総督ドン・ロドリゴを岩和田海岸に救助したということがる。
3 ドン・ロドリゴと支倉六ヱ門のローマ訪問
慶長14年(1609)秋フィリピン総督ドン・ロドリゴ Don Rodrigo de Vivero yVelascoは三隻の軍艦にてマニラを出帆、メキシコへ帰還の途についたが、大暴風のためバラバラとなり一隻は大分県臼杵に入港したがロドリゴの乗船サンフランシスコ号は上総岩和田に於て岩礁に乗り上げ難破したのである。(他の一隻のみ無事メキシコ、アカプルコ港に入港)
このロドリゴの遭難に際しての岩和田漁民の介抱のこと、並びに城主忠朝の手厚く礼を尽くした援助救済はロドリゴの報告書(国主宛・現在大英博物館にあると言う)によって世界各国に報道されたのである。
また、ロドリゴの報告書は大多喜城の当時の有様を詳細に記してあり城中の模様なども知り得る唯一の記録であろう。
ロドリゴは大多喜城にて大いに歓待を受け、江戸にて秀忠、駿府にて家康にも会い、京都、大阪、堺を経て大分の臼杵に赴き、僚船々長に報告書を託し更に再び駿府にて家康と会い外交上の事を議し、三浦按針(William Adams)建造せる帆船にてメキシコに帰国している。
この時、京都商人田中勝助等も同乗している。日本人として初めて太平洋を横断しているが航海日数に三ヶ月を要している。
メキシコ側(当時はノピスパニヤすなわち新スペイン)にはスペイン副王(Viceroy)が居り、ロドリゴ無事帰還の御礼と日本商人等の帰国の為にヴィスカイノ(Sebastan Viscano)を長としてメキシコ側の答礼使節が来日した。(1611)ヴィスカイノ一行は日本海にありといわれる金銀島の探検も兼ねていたのである。一行は日本の三陸海岸に良港を発見する目的で仙台の伊達政宗を訪ね、その援助を受けて大いに測量をなし帰国せんとしたが、暴風雨に遭い再び伊達政宗に請い新船を建造、正宗の書簡を持った使節支倉六ヱ門以下百数十名及び宣教師ソテロと共にメキシコへ帰国したのである。
支倉一行は、メキシコ、スペイン、ローマに至り法王に謁し、帰途マニラに一年余滞在、約七ヶ年後に帰国している(1620)
この事は忠朝の岩和田に於けるロドリゴ一行救助が、支倉のローマ往訪に連る端緒を為しているわけであり、大多喜城が西欧との交流という世界的大事業に大きな役割を演じているというわけである。
4 豊臣、徳川交代時代
(1)関ヶ原 慶長5年9月(1600)
(2)大阪冬の陣 慶長19年10月~12月(1614)
(3)大阪夏の陣 慶長20年4月~5月(1615)*慶長20年7月13日、元和と改元)
関ヶ原には本多忠勝、忠政、忠朝何れも大多喜城より出陣。大阪夏の陣には忠朝大多喜より出陣し討死。
5 幕末時代 鳥羽・伏見の戦
慶応3年(1863)、10月14日徳川慶喜大政奉還、同24日将軍職を辞任、朝廷も同12月9日王政復古の大号令を発したが、京都における徳川軍、桑名、会津と薩長軍との間に衝突絶えず、慶喜は京都二条城を出て大阪城に退くに至ったが、江戸に於いては薩摩藩邸の焼討事件起こると共に、幕軍続々と大阪に集結。遂に慶応4年1月3日いわゆる鳥羽・伏見の戦に発展してしまったのである。
徳川軍の総督は大多喜城主、老中松平正質(後の大河内)であり、鳥羽、伏見の二正面より討薩の檄文を先頭にして京都に向けて進軍したのであるが、遂に大敗を喫し、慶喜は大阪より海路江戸に逃走したのである。
大多喜町民も連日城内にて調練に励んだということであるが、その大部分は三河辺りで敗報を聞き、戦闘には参加することなく帰国している模様である。
以上のように大多喜城は日本歴史の太い節となる出来事に大きく関係しているといえる。
すなわち、秀吉の天下統一完了を示す小田原城攻略、家康の徳川幕府創立の基礎をなす関ヶ原、大阪冬、夏の陣、明治維新に際しては、徳川討伐の端緒を作った鳥羽、伏見の戦等々であろう。
更に、日本人として世界史に残る支倉六ヱ門のローマ訪問という一大偉業も大多喜城がその出発点であることを思うと感慨深いものがある。(以上 資料より)
大多喜城讃歌がいつまでも歌い継がれますように・・・
*参考資料は30年以上前のものと思われます。調査により、新しい解釈等がございましたら、コメントでお知らせくださいますよう、お願いいたします。
メキシコ音楽祭2010には、いすみ鉄道をご利用ください。中央公民館までは大多喜駅から1キロくらいです。http://blog.goo.ne.jp/isumitetudo/e/37404c10b4157241ebd7c2534807a8b8
*2月2日youtube埋め込みしました。
当時の蔓喜(万木)には上総土岐氏の居城「万喜城」があり、その城下町として栄えていたと考証される。
そして、上総土岐氏の支配地域は偶然にも平成17年に誕生した「いすみ市」の行政区域と慨ね重なり大変興味深いものがある。
会報 いすみ文化第 5号
万木城の歴史については資料に乏しく謎に包まれている部分が多いが、近年、城跡の発掘や埋もれていた資料の発見などで少しずつその解明が進んでいる!
応永19年(1412)土岐氏は、万喜城城主とし、近隣の里見氏、正木氏、武田氏と再三抗戦するが堅固な万喜城は落ちることはなかったという。し・・・しかし土岐氏は北条方にあったため、徳川方による房総攻めの前に落城し・・・ここに178年間上総に根を下ろした土岐氏は終りをむかえた。
なお万喜城には後の大多喜城主・本多忠勝が入ったことが最近発見された(本多忠勝書簡)より判明している。
・・・・従来伝えられてきた万喜城は落城時に焼失したというのは誤伝であることが判明し、廃城は、本多忠勝が大多喜城に移った後の事であろうと考えられる。・・・・
廃城後土岐氏の多くの重臣達が近郊に帰農し、現在までに連綿とその家系を残していることは、他に類をみず本多忠勝の器の大きさを物語っている
以上は、祈・大河さんの「ムーミンママ 万木城址公園へ行く」でリポートしてくださっています。
http://blog.goo.ne.jp/isumitetudo/e/cd498f10753d1c740a0931aec61aaf1c
本日の記事の写真は、tassさん、酒呑童子さん、鍋之助さんからお借りしています。
一番上の写真は、昔「刈谷原」と呼ばれた地にお住まいの?ムーミン列車応援団長さんと吉田さん(多分)です。
今、刈谷原はムーミン谷に変貌を遂げています\(^o^)/
馬の話ですが昔行元寺の住職に「昔はこの辺には山賊がいて今の大原山田地区から夷隅の大野地区の山で山賊が馬を増やす為に放牧場があった…」って聞いた記憶があります…(@_@)/
大原山田地区に鉄の仏頭などがある事からもこの辺は独自の文化や技術があったと思われます…(^-^)v
コメントもなが!!
でもでも!!大多喜城賛歌の内容が
大多喜城を物語っていますね。
ジャンヌさん、昨日の夜の作業
指に豆が出来ていませんか?
いいものを発見しましたね。大多喜町では有名な曲なのかしら?
子供達の夏休みとかの自由研究に役立つかも。
今は小さな赤ちゃんが、いつか知りたくなる時のために・・・随分先?
教科書では教えてくれないけど、大多喜やいすみの子供さんが、大きくなって地元の先生になって、このことを教えてくれたらいいなと思いました。
そんな思いが指に豆☆ぎゃはは・・・!!(^Q^)/^
「大多喜城賛歌」初めて知りました。大多喜にいて何で知らなかったのだろう?
大川栄策の歌う「大多喜音頭」は良く聞いたけど・・・(笑)
大多喜城の歴史が年代をおって書かれ、解説とあわせて読めば、もう明日から大多喜城マイスター!(って何それ?)
小学校、中学校でも、ぜひとも採用して欲しいですね。
>地元の方には歴史から誇りを感じ、いすみ鉄道が走っている意義を深めていただけましたら幸いです。
>誰でもどこでも取り出せる資料として残したかったのです。
今は小さな赤ちゃんが、いつか知りたくなる時のために・・・
このステキなコメントに感動しました。
郷土の歴史を学び、知ること、そしてそれを次の世代に伝えることはとても大切なことだと思います。
自身が興味を持ち、学び、知り、そしてそれを子供達に伝え、興味を持たせる。とっかかりを作ってあげれば子供の好奇心はどんどん膨らむような気がします。(あくまでも気がします。ですが・・・)
私が本多忠勝の名前を知ったのは高校になってから、それまでまるっきり興味がなかったから、大多喜にも殿様がいたんだ、
ふーんて感じでした。最近まで。(実はにわか忠勝ファンなんです。)知るきっかけがありませんでした。
郷土の歴史を知れば、何気ない田んぼ道にもロマンを感じ人生豊かになります。(と思います。)
ぜひとも「大多喜城賛歌」地元の子供達に伝えたいですね。ジャンヌさん長文転載の苦労が報われますように。
※解説で秀吉が佐藤忠信の胄を忠勝に贈ったくだりで(この冑をつけた肖像画は今も残っている。)とありましたが、
本当に残っているんでしょうか?あったら見てみたい!そちらも気になりました。
鍋之助様、地元合唱団である童謡菜の花の会と大多喜町合唱団は、高橋共子先生ご指導のもとずーっとずーっと前から歌い続けています
この歌は「歌い続けなければと…」文化祭や地域のコーラス発表会には必ず歌っているそうです
皆様是非聞きに来てください
私も行きます。17日お待ちしております。
「地図帳からいすみ鉄道が消えるのは、寂しいし、悲しい^^;)」・・と。
確かにそ~~うです。
小さい頃にはわからなかった いいものが
年を重ねるごとに解ってきます。
鍋之助さんのコメントより、
大多喜城のお宝発見ですぞ。
「大多喜城賛歌」初めて知りました。
おしゃまさんのコメントより、
この歌は「歌い続けなければと…」必ず歌っているそうです。
「いすみ鉄道」沿線の皆さまが
ますます地元を愛せますように
そちらのコメントにも転写して参りました。
一度書いたら便利ね~!コメントジャック状態となりました(笑)
http://blog.goo.ne.jp/otakikankou/e/2e787b23b898e39b611d18fb994121e4
鍋之助さん、思いは同じですね~!
>私が本多忠勝の名前を知ったのは高校になってから、それまでまるっきり興味がなかったから、大多喜にも殿様がいたんだ、
ふーんて感じでした。最近まで。
私もず~っと忘れていました。いすみ鉄道があって、久我原さんに出会って、教えていただいたようなものです。昨年の大多喜お城祭りの武者行列でメキシコ人にさせていただいて、メキシコ(大使館)の方達から手を振っていただき、言葉はわからなくても気持ちが近づきました。
そして鍋之助さんの戦国画で、「大多喜城ファン」です。全く、ここは「いすみ鉄道ファン」だというのに、管理人がこれでは困りますかね?
いすみ鉄道があって、そこから先が重要ですものね。いいの、いいの(と、自分に言う)
皆さんの資料提供のご協力で掲載できたことが、いつかお役に立ちますように。
鍋之助さんのコメント、感動しました。
転写は一時間以上かかったけど、たった一時間よね! でも、価値ある一時間。
刈谷原の奥村さんへ
歴史に詳しくて、そして今忠勝君人形を作成してくださって、夢が広がります。
小説の久我原さん、戦国画の鍋之助さん、最高のメンバーが揃って、いざ出陣です!!
みむら姉さん、おしゃまさん、わかこさん。
みなさんの温かいコメントが、サムライ魂を揺り動かしますよ~!
私もサムライになりたいなぁ.。o○
☆ぎゃはは・・・!!(^Q^)/^ ・・・(*o☆)\バキッ! なんてやっているサムライはだめですか?
おしゃまさんへ
大多喜城賛歌を歌い続けてくださる合唱団の皆様に感謝申し上げます。
と、お伝えください。
でもこの前大多喜城博物館から資料をもらって初めて知る情報も多いけど…(=_=;)忠勝人形は首より下が完成しました…(^-^)v
ちょっとフライングで鍋之助さんには少し見せてしまいましたがgood♪と言われたので今日は上半身の鎧を黒糸で繋げてました…(@_@)/♪
ジャンヌさんへ…
2月14日に国吉駅で動くスナフキンこと平野君のCDデビューイベントをやるんだ…みんなにブログで呼びかけてほしいんだけど…♪よろしくです…(^-^)/