奥秩父の金峰山(きんぷさん)は、山梨県の中央、北部に位置し、長野県との県境にある標高2599mの山である。 金峰山山頂には、特徴的な五丈岩があり、山腹や山麓から見ることもできる。 金峰山は「日本百名山」にも選ばれている秩父の連山でも第一級の山岳であろう。
この金峰山登山の過程で若かりし頃、非常な体験をした。
鼓動が高鳴る「奇跡の体験」は、数十年以上も過ぎた今日でも、鮮明に記憶の隅に残っている。
それは、超混雑していた奥秩父の名山・金峰山の山小屋での出来事だった。
・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・
やがて、就寝の時間がやってきてランプの灯火が消され、騒がしかった人々が次第に睡眠の寂の世界へ向かいつつあった。
そんな中で、私には何かが起こりつつあったのだ・・!!
以下は本文へ・・、
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
金峰山の奇跡; ;第二部:奇跡編(8)
それにしても、男と女の関係とは不思議なものである。
男性と女性では当然のごとく体つきや身体の機能など、明らかな性としての違いがあるが、 この違いが異性の関心をひきつける魅力となっているのだろう。 だからこそ、男と女は惹かれあい求め合うのかもしれない。
加えて、男女間の感情、感性は複雑で微妙なものである。
その複雑な異性との関係が、始めは友情関係であろうが、それはやがて簡単に男女の関係に変わりうる。
それが人としての、成人大人としての自然の成行きであろう。
だが、そこにはある種の異性に対する個々としての“望み”があるはずである。
例えば、男性が女性に対し最も魅力的に感じるときは、心根(こころね)のよい女性に触れたときかもしれない。
「かわいい女性」、「きれいな女性」は男として望むところではあるが、ただ美人でかわいくてスタイルがよければ、どんな女性でもいいかと思えば、さにあらず、やはり、その人の人柄や性格を重要視するし、優しくて気のつく女性がいいとか、健康的で明るい感じの人がいいとか・・、
何れにしても、男女の微妙な関係は、複雑さに絡み合い、撚りあい、そして、次第に解(ほぐれて)れて、自然の流れに沿いながら、やがて何時かは収まる所へ収まってしまうものかもしれない。
そして、今、横にいる彼女は果たしてどのような部類の、いかなる女性なのであろうか・・?、
そして、今こうして見ず知らずの一個の女体を、小生の固体と等しく繋ぎ合わせているのである。
今から数時間前に片言の会話で、お互い義理立ての笑顔を交わしたとは言え、女の何処が判ったというのか。 それでも尚、男と女の関係というのは、世の道理には合わない奇態な感性を表し、摩訶不思議な行動を示し、ある瞬間は最も非常識な存在なのかもしれない。
しかし、ある意味でそれが世の常道として認められているのも確かなようである。
今こうやって脇にいる女性は、豊満な肢体をしたビーナスであり、女神である。
小生はこの美しき女神の僕(しもべ)となって、女神に奉仕し、女神の欲求するあらゆる事に答えてやり、女神に心行くまでの奉仕をし、尽くす限りを尽くすのみである。
しかしこの女神も多少の“恥じらい”は有るのだろうか・・?、
“恥じらい”とは女の美徳でもあろう。
でも、“恥じらい”とは相手があって、その対応や周りの様子などによって感じるもので、それを感じて“恥ずかしそうな素振り”をすることであろう。 そこには目に見えない不定形な“或る一線”が敷かれているいるはずである。
或る一線の外側にある対象物(ここでは人、特には異性)に対しては“恥じらい“を感じ、装い、防御の姿勢を獲るのは確かなことで、必要なことでもあろう。
だが、その一線の内側に入った場合、お互いが許容しあい、認め合い、遠慮が薄れて同一の価値観を抱くようになると、即ち、羞恥の心が薄れるものでもあろう。
小生が中学3年の時、奇しくも貴重な体験した同級生の裸身の姿。
その女性は、生身の全裸の肢体を遠慮なく曝け出し、小生にその視線を許し、すぐ前で彼女の肢体を余すところ無く、目の当たりにしたのであった。
このことは同様に“或る一線“の内側にいて許容されたものと想像できるのである。
そして今、現実に小生は、彼女の思考の第一線の内側に存在しているのは確かなようなのである。 更に、暗闇の世界、盲目の状態で視線がないため、“恥ずかしさ”や“恥じらい”という羞恥感覚は半減しているのも事実であろう。
尤も、恥ずかしさや恥じらいというのは、相手に対して必ずしも否定的な意味合いではなく、逆に肯定的な意思表示と取れる場合も多い・・?。
何れにしても男女間の関係というのは複雑多岐であることも確かなようである。
だが現状、彼女と小生の関係については世間的には絶対あってはならないことなのかもしれない。 道義に反する行為なのかもしれない。
今、こうしている彼女の内心は果たして実際はどうなのであろうか・・?、
或いは時がとき、場所が場所ゆえに我慢に我慢をを強いられているのかも知れない。
これは、世間的には許されないワイセツ的行為であり、望まないのに相手方に性的悪戯、不快行為、不必要な身体的接触をし、それが強要されていると感じ取られた場合、今で言う強力な「セクハラ」というものであろう。 。
そして、それらが現実の世界に戻って後、誰かに訴えられたら何としよう・・!。
その時、小生は実際に有ったことを嘘、偽り無く、隅から隅まで包み隠さず、一部始終を語ることに由としよう。
そして、それに対する罪や罰は喜んで甘んじて受けよう
これが現在の小生の偽らざる心境である。
何れにしても山小屋の状況、周辺の現実、見渡す世界は混然とした惨憺たる情景なのである。
ところが、その中の一極、この極めて狭い一画だけは女神を抱き、阿弥陀如来を撫でながら、絶対対照的な天国の世界、極楽浄土の夢の空間を創り出し、漂っているのである。
小生の右手は、今、N嬢の熱く燃えるような女の大切な素肌部分にソッと当てがわれている。
やがて、手を移動させて彼女の右手をしっかりと握る。
彼女の柔らかな手指が小生の手指に絡まる。
握り返してやる。
すると一層、力を込めて握り返してくるのである。
つづく・・、
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「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」
《スキー履歴》
「スキー履歴」
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鼓動が高鳴る「奇跡の体験」は、数十年以上も過ぎた今日でも、鮮明に記憶の隅に残っている。
それは、超混雑していた奥秩父の名山・金峰山の山小屋での出来事だった。
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やがて、就寝の時間がやってきてランプの灯火が消され、騒がしかった人々が次第に睡眠の寂の世界へ向かいつつあった。
そんな中で、私には何かが起こりつつあったのだ・・!!
以下は本文へ・・、
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金峰山の奇跡; ;第二部:奇跡編(8)
それにしても、男と女の関係とは不思議なものである。
男性と女性では当然のごとく体つきや身体の機能など、明らかな性としての違いがあるが、 この違いが異性の関心をひきつける魅力となっているのだろう。 だからこそ、男と女は惹かれあい求め合うのかもしれない。
加えて、男女間の感情、感性は複雑で微妙なものである。
その複雑な異性との関係が、始めは友情関係であろうが、それはやがて簡単に男女の関係に変わりうる。
それが人としての、成人大人としての自然の成行きであろう。
だが、そこにはある種の異性に対する個々としての“望み”があるはずである。
例えば、男性が女性に対し最も魅力的に感じるときは、心根(こころね)のよい女性に触れたときかもしれない。
「かわいい女性」、「きれいな女性」は男として望むところではあるが、ただ美人でかわいくてスタイルがよければ、どんな女性でもいいかと思えば、さにあらず、やはり、その人の人柄や性格を重要視するし、優しくて気のつく女性がいいとか、健康的で明るい感じの人がいいとか・・、
何れにしても、男女の微妙な関係は、複雑さに絡み合い、撚りあい、そして、次第に解(ほぐれて)れて、自然の流れに沿いながら、やがて何時かは収まる所へ収まってしまうものかもしれない。
そして、今、横にいる彼女は果たしてどのような部類の、いかなる女性なのであろうか・・?、
そして、今こうして見ず知らずの一個の女体を、小生の固体と等しく繋ぎ合わせているのである。
今から数時間前に片言の会話で、お互い義理立ての笑顔を交わしたとは言え、女の何処が判ったというのか。 それでも尚、男と女の関係というのは、世の道理には合わない奇態な感性を表し、摩訶不思議な行動を示し、ある瞬間は最も非常識な存在なのかもしれない。
しかし、ある意味でそれが世の常道として認められているのも確かなようである。
今こうやって脇にいる女性は、豊満な肢体をしたビーナスであり、女神である。
小生はこの美しき女神の僕(しもべ)となって、女神に奉仕し、女神の欲求するあらゆる事に答えてやり、女神に心行くまでの奉仕をし、尽くす限りを尽くすのみである。
しかしこの女神も多少の“恥じらい”は有るのだろうか・・?、
“恥じらい”とは女の美徳でもあろう。
でも、“恥じらい”とは相手があって、その対応や周りの様子などによって感じるもので、それを感じて“恥ずかしそうな素振り”をすることであろう。 そこには目に見えない不定形な“或る一線”が敷かれているいるはずである。
或る一線の外側にある対象物(ここでは人、特には異性)に対しては“恥じらい“を感じ、装い、防御の姿勢を獲るのは確かなことで、必要なことでもあろう。
だが、その一線の内側に入った場合、お互いが許容しあい、認め合い、遠慮が薄れて同一の価値観を抱くようになると、即ち、羞恥の心が薄れるものでもあろう。
小生が中学3年の時、奇しくも貴重な体験した同級生の裸身の姿。
その女性は、生身の全裸の肢体を遠慮なく曝け出し、小生にその視線を許し、すぐ前で彼女の肢体を余すところ無く、目の当たりにしたのであった。
このことは同様に“或る一線“の内側にいて許容されたものと想像できるのである。
そして今、現実に小生は、彼女の思考の第一線の内側に存在しているのは確かなようなのである。 更に、暗闇の世界、盲目の状態で視線がないため、“恥ずかしさ”や“恥じらい”という羞恥感覚は半減しているのも事実であろう。
尤も、恥ずかしさや恥じらいというのは、相手に対して必ずしも否定的な意味合いではなく、逆に肯定的な意思表示と取れる場合も多い・・?。
何れにしても男女間の関係というのは複雑多岐であることも確かなようである。
だが現状、彼女と小生の関係については世間的には絶対あってはならないことなのかもしれない。 道義に反する行為なのかもしれない。
今、こうしている彼女の内心は果たして実際はどうなのであろうか・・?、
或いは時がとき、場所が場所ゆえに我慢に我慢をを強いられているのかも知れない。
これは、世間的には許されないワイセツ的行為であり、望まないのに相手方に性的悪戯、不快行為、不必要な身体的接触をし、それが強要されていると感じ取られた場合、今で言う強力な「セクハラ」というものであろう。 。
そして、それらが現実の世界に戻って後、誰かに訴えられたら何としよう・・!。
その時、小生は実際に有ったことを嘘、偽り無く、隅から隅まで包み隠さず、一部始終を語ることに由としよう。
そして、それに対する罪や罰は喜んで甘んじて受けよう
これが現在の小生の偽らざる心境である。
何れにしても山小屋の状況、周辺の現実、見渡す世界は混然とした惨憺たる情景なのである。
ところが、その中の一極、この極めて狭い一画だけは女神を抱き、阿弥陀如来を撫でながら、絶対対照的な天国の世界、極楽浄土の夢の空間を創り出し、漂っているのである。
小生の右手は、今、N嬢の熱く燃えるような女の大切な素肌部分にソッと当てがわれている。
やがて、手を移動させて彼女の右手をしっかりと握る。
彼女の柔らかな手指が小生の手指に絡まる。
握り返してやる。
すると一層、力を込めて握り返してくるのである。
つづく・・、
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