土佐のくじら

土佐の高知から、日本と世界の歴史と未来を語ろう。

卑弥呼外交の効用 (邪馬台国おとり説を考える)

2013-08-03 11:36:27 | 古代日本のミステリー

土佐のくじらです。

前回記事の結論、”卑弥呼の邪馬台国は囮(おとり)である”は、ミステリアスな響きがありますでしょう?(笑)

邪馬台国は古代日本最大のミステリーですが、卑弥呼の魏国への外交の謎は、実はまだまだありまして、その代表が、”動機がわからない”ということなのですね。

つまり、当時の卑弥呼の国(邪馬台国)にとって、魏に接することのメリットが、ほとんど見つけられないのです。

つまり、わざわざ使者を使わせて、属国にまでなってまで、”魏”という大陸の大国の後ろ盾が必要だ・・・という根拠は、どこにも見あたらないのです。

現実的に考えれば、ヤマトの国の国内で騒動があり、魏の援軍が来て云々・・・ということはできないです。

何せ、魏は遠いですから魏の使者が来るのに時間がかかります。
それでは問題解決には間に合わないし、卑弥呼の納める国の当時の民たちには、遠国魏の後ろ盾の重要性など、理解できないと思われるのですね。

しかし、これには前提条件があります。それは・・・、国内に限定すれば・・・、という条件です。

でも、卑弥呼を研究している方たちには、恐らく当時の周辺諸国事情というものが見えていないか、もしくは、外交の鉄則を知らないと思われます。

研究者というものは、どうしても視野が狭くなりがちです。
専門的な研究者は、どうしても膨大な専門的な研究資料を読まなければなりません。
人間が使える時間は、皆一日24時間ですから、専門領域だけに時間を奪われていたら、他のことがわかりません。

その点私は、ズブの素人ですので、歴史や考古学以外の領域で、自由に遊ぶことができます。
卑弥呼研究家と、専門知識ではかないませんが、他のことはわかるので、その点を絡めての自由な推測ができるのです。
しかも、固定観念にとらわれずに、それを行うことができるのですね。
情報化社会においては、専門的な研究者の方より、自由な愛好家の方が、知識量では上かも知れないのです。

専門的な研究者が、外交の鉄則という政治学や、海流の流れをご存知ではないかもしれないし、
卑弥呼の時代など、原始人の時代だから、高度な外交判断などするはずがない・・・という、思い込みにとらわれていたら、この卑弥呼外交の効果は見えて来ません。

さて外交の鉄則とは、”遠交近攻”(えんこうきんこう)です。
つまり、たとえ近くの国とは争ったとしても、遠くの国とは仲良くする・・・ということですね。

普通はこの逆を、発想し勝ちなんですね。
自虐史観を演出している方々も、つい発想しがちなこの、鉄則とは逆の外交の大切さ(笑)を演出しているように、私には思えますね。

「遠くの国とは距離が離れているから、仲良くする必要ないじゃん。」
「でも、近くの国は、ケンカしたら、何かとメンドイよね。」

この気持ちはわかります。
近くの国と、仲良くできるに越したことはありません。
しかし外交の鉄則は、この逆なのです。

現実、自国に攻め入ってくるのは、大部分は近くの国ですよね。
はっきり言えば、普通は隣の国です。

ですから外交は、この ”近くの国(隣の国)の動きを封じることが重要” なのです。
よく考えれば、本当に隣の国と仲が良いのなら、別の国である必要はないわけです。
そもそも何らかの理由で、一緒の国になることが出来ないから、別の国なわけでしょう? (笑)

ですから隣の国とは、色々と懸念事項があるものですし、歴史的にもいろいろあるものですし、大抵は隣の国どうしは仲が悪いものなのです。
これはある意味で、もう仕方のないことです。
世界中、どこに行ってもそうですからね。(笑)

実は、隣の国と仲良くするためにこそ、遠交近攻外交が必要なのです。
つまり、隣の国のすぐ後ろにある国と仲良くしておけば、隣の国が、自国に攻め入ろうとした時に怯む訳ですね。

「挟み撃ちにされるかも知れない。」

こう、思わせることが、外交では重要・・・なのです。

卑弥呼の”魏”への外交は、まさしくこの、朝鮮半島国家群を対象とした、遠交近攻外交の効果を狙ったものだと思いますし、効果としては十分あったと思います。
つまり、朝鮮半島諸国の、日本に対する軍事行動をさせないために、魏に使者を送り、国王の称号をもらったと思われます。

漢の倭の奴の国王の金印を、発行したのが”魏”だとすれば、それは、魏国が存続する限り有効のはずです。
朝鮮半島諸国からすれば、魏は隣の超大国です。

ウカツには、卑弥呼の邪馬台国に手出しは出来ません。
当時朝鮮半島南部にあった、任那(みなま)日本府も安泰です。
任那が安泰なら、日本列島は安泰です。

この朝鮮半島における国防の観点の重要度は、古代も現代も変わりありません。

そして重要なことがもう一つあります。
それは魏や、当時の朝鮮半島諸国に、九州にいる卑弥呼こそ、倭=邪馬台国の女王であると思ったはずなのです。

普通に魏志倭人伝を読む限り、大陸からの使者は九州に立ち寄ります。
そこには、ヤマトの国の軍の本体があり、それなりの国らしきたたずまいがあります。
使者の目には、邪馬台国=九州がインプットされるはずです。

そして何より古来より、ヤマトの国は九州にありましたので、そう思われて当然です。

卑弥呼が魏に使者を送り、記録を取らせ、国王の称号を得たことで、国際的対外的に、卑弥呼こそ倭=邪馬台国の王であり、その場所は九州にある・・・と、周辺諸国での認知は確定したはずです。

実はこの、” 対外的な九州邪馬台国の認知 ”こそ、卑弥呼外交の真の目的なのではないのか?
この仮説から、卑弥呼の邪馬台国囮(おとり)説を私は思いつきました。

なぜかというと、そうであるならば、その後の出来事が、全てつじつまがあうからなんです。 (笑)

                                   (続く)


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2 コメント

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Unknown ()
2013-08-03 13:20:15
となると、邪馬台国の最大の関心事は、

本拠の邪馬台国の統治はだれがするか。

ということになりませんか。

卑弥呼が、ときどき本拠地にいってもいいかもしれませんが、この場合緊急の時に間に合わない。

というか、ひみこは九州をでれないかと。

となると、卑弥呼の絶大な信頼がある者が、
本拠地を統治し、かつ、ときどき、九州に使者を
送っていたということになりますが。
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ナイス!です。 (土佐のくじら)
2013-08-03 14:29:20
英さん、[i:140][i:253]ナイス!

おっしゃるとおり!
卑弥呼は、九州から出られません。(笑)

なぜ、大和朝廷が出来た当初から、朝廷は九州に勢力をもっていたのでしょうか?
なぜ大和朝廷は、全国統治(西日本統治?)ができたのに、天皇の政治力はあれほど弱かったのか?

それらの謎を、今後解き明かそうと思います。
その中で、お答えできるものと存じます。
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