土佐のくじらです。
今拙ブログは、卑弥呼の邪馬台国に夢中です。(笑)
例によって、ナカナカ次に進めません。(^^;
さて古代日本の邪馬台国の卑弥呼外交は、一般的な説としては、「大国魏(ぎ)の後ろ盾を得て、邪馬台国国内をまとめるために使ったのではないか・・・。」と言われることが多いのです。
しかし私は、対朝鮮半島国家群向けの外交だと思います。
遠国魏との同盟は、日本国内向けの演出としてはほとんど効果はないにも関わらず、朝鮮半島国家群に対しての効果が余りにも大きいからです。
一般説はあまりにも、「当時の日本は、占いで政治をしていたくらいだから、レベルが低いに決まっている。」という先入観を元に、日本の歴史を見過ぎていると思います。
魏志倭人伝を読むと、邪馬台国の北の国境は、狗邪韓国(くやかんこく)とあります。
ということはつまり、実は邪馬台国は、その時既に、朝鮮半島に領土を持つ大国だった・・・可能性があります。
可能性・・と言うのは、相当弱気な発言ですね。(笑)
字面をそのまま読むと、そういうことになります。(爆笑)
つまり少なくとも、朝鮮半島情勢に合わせて外交をする・・・という、高度な外交価値判断が必要な状況に、当時の邪馬台国は十分に達していたということです。
魏志倭人伝を、素直な心で読む限りは・・・。
ただ、当時の日本には、”国家”という概念が十分でなかったかも知れないし、機能としての国家が、存在しなかったかも知れません。
大陸では、既に”国家”が形成されていましたので、日本でも、きちんと国家を形成しない限り、時の流れにおいては危うかったと私は考えます。
パパママストアーや、普通の商店街が、長い眼で見れば、大手スーパーやショッピングモールにかなわない・・・みたいな感じと、表現すればいいでしょうか。
ただ、文化圏とすれば、十分なものはあったはずですし、恐らく、海洋文明である縄文時代に既に、日本人は朝鮮半島諸国と交易などの人的交流を、既に相当行っていたからだろうと思われます。
そして、領土かもしれないし、はたまた文化圏なのかも知れませんが、任那(みなま)という日本人居留地も朝鮮半島内あり、朝鮮半島国家群とは、実際には密接な関係にあったはずです。
その証拠に、縄文土器や古墳など、日本古来の製品や文化を思わせるものは、古代朝鮮の地層から、結構たくさん出土します。
飛鳥時代にあったと言われる朝鮮半島南部の任那は、今や日本人の妄想説によるもの・・・とまで言われ始めていますが、縄文時代の日本は、沈まぬ舟による高度な海洋文明でしたので、朝鮮半島南部くらいは当時の日本人にとっては、”向こう岸感覚”だったと思います。
現実的に朝鮮半島南部からは、古墳が発掘されます。
古墳は、”墓”です。
つまり、古墳・・・という、死後の遺体を埋葬する機能を持ったもの・・・が発掘されるということは、
たとえその発祥が、いずれの地域であったとしても、その古墳が発見される地域の当時の人々というのは、
少なくとも、死生観を共有していた・・・という、明らかな証拠なのですね。
どちらが主要国で・・・とか、古墳の発祥が、どこの国で・・・というのは、古墳が見つかることではわかりません。
しかし、共通の死生観を共有する地域であった・・・ということはわかるのです。
つまり古墳から導き出される歴史的真実として、
古代日本と朝鮮半島南部は既に、死生観を共有する間柄であったことには間違いがない のです。
これらを総合するに、卑弥呼外交は、朝鮮半島内における邪馬台国の、影響力強化や地位確立に、多大なる影響力を長きに渡って持ち続けたはずなのです。
その影響力が、保てなくなったので、その後の時代に、聖徳太子の遣隋使が始まったのかも知れません。
魏などの漢民族は、本来、海の外には全く興味を持たない民族です。
ですから、当時の超大国魏が、九州邪馬台国に攻めて来る危険性はありません。
しかし漢民族は、陸続きならば進入して来ます。
ですから、朝鮮半島諸国はビビリます。
朝鮮半島国家群が日本列島に、いや半島南部の任那にも攻め入ることができなくなるのです。
卑弥呼外交は東アジアにおいては、邪馬台国の一人勝ちの、見事な外交戦略ですね。
さて、漢の倭の奴の国王・・・という称号の影響は、それだけにとどまりません。
魏や、朝鮮半島諸国から見た”倭=邪馬台国”は、九州にある・・・。
対外的には、そう見えるのですから、今まで密かに進められてきた、神武東征=日ノ本の弥生化は、この前後、一気に進められたはずです。
否、本当は、この仕上げをするためにこそ、卑弥呼外交はあった・・・のではないかと、私は考えてます。
卑弥呼外交が成功すれば、
ヤマトの国の正規軍を、九州地方に完全に温存しての遷都・・・。
という、歴史の離れ業が可能だからです。
(続く)
土佐のくじらです。
前回記事の結論、”卑弥呼の邪馬台国は囮(おとり)である”は、ミステリアスな響きがありますでしょう?(笑)
邪馬台国は古代日本最大のミステリーですが、卑弥呼の魏国への外交の謎は、実はまだまだありまして、その代表が、”動機がわからない”ということなのですね。
つまり、当時の卑弥呼の国(邪馬台国)にとって、魏に接することのメリットが、ほとんど見つけられないのです。
つまり、わざわざ使者を使わせて、属国にまでなってまで、”魏”という大陸の大国の後ろ盾が必要だ・・・という根拠は、どこにも見あたらないのです。
現実的に考えれば、ヤマトの国の国内で騒動があり、魏の援軍が来て云々・・・ということはできないです。
何せ、魏は遠いですから魏の使者が来るのに時間がかかります。
それでは問題解決には間に合わないし、卑弥呼の納める国の当時の民たちには、遠国魏の後ろ盾の重要性など、理解できないと思われるのですね。
しかし、これには前提条件があります。それは・・・、国内に限定すれば・・・、という条件です。
でも、卑弥呼を研究している方たちには、恐らく当時の周辺諸国事情というものが見えていないか、もしくは、外交の鉄則を知らないと思われます。
研究者というものは、どうしても視野が狭くなりがちです。
専門的な研究者は、どうしても膨大な専門的な研究資料を読まなければなりません。
人間が使える時間は、皆一日24時間ですから、専門領域だけに時間を奪われていたら、他のことがわかりません。
その点私は、ズブの素人ですので、歴史や考古学以外の領域で、自由に遊ぶことができます。
卑弥呼研究家と、専門知識ではかないませんが、他のことはわかるので、その点を絡めての自由な推測ができるのです。
しかも、固定観念にとらわれずに、それを行うことができるのですね。
情報化社会においては、専門的な研究者の方より、自由な愛好家の方が、知識量では上かも知れないのです。
専門的な研究者が、外交の鉄則という政治学や、海流の流れをご存知ではないかもしれないし、
卑弥呼の時代など、原始人の時代だから、高度な外交判断などするはずがない・・・という、思い込みにとらわれていたら、この卑弥呼外交の効果は見えて来ません。
さて外交の鉄則とは、”遠交近攻”(えんこうきんこう)です。
つまり、たとえ近くの国とは争ったとしても、遠くの国とは仲良くする・・・ということですね。
普通はこの逆を、発想し勝ちなんですね。
自虐史観を演出している方々も、つい発想しがちなこの、鉄則とは逆の外交の大切さ(笑)を演出しているように、私には思えますね。
「遠くの国とは距離が離れているから、仲良くする必要ないじゃん。」
「でも、近くの国は、ケンカしたら、何かとメンドイよね。」
この気持ちはわかります。
近くの国と、仲良くできるに越したことはありません。
しかし外交の鉄則は、この逆なのです。
現実、自国に攻め入ってくるのは、大部分は近くの国ですよね。
はっきり言えば、普通は隣の国です。
ですから外交は、この ”近くの国(隣の国)の動きを封じることが重要” なのです。
よく考えれば、本当に隣の国と仲が良いのなら、別の国である必要はないわけです。
そもそも何らかの理由で、一緒の国になることが出来ないから、別の国なわけでしょう? (笑)
ですから隣の国とは、色々と懸念事項があるものですし、歴史的にもいろいろあるものですし、大抵は隣の国どうしは仲が悪いものなのです。
これはある意味で、もう仕方のないことです。
世界中、どこに行ってもそうですからね。(笑)
実は、隣の国と仲良くするためにこそ、遠交近攻外交が必要なのです。
つまり、隣の国のすぐ後ろにある国と仲良くしておけば、隣の国が、自国に攻め入ろうとした時に怯む訳ですね。
「挟み撃ちにされるかも知れない。」
こう、思わせることが、外交では重要・・・なのです。
卑弥呼の”魏”への外交は、まさしくこの、朝鮮半島国家群を対象とした、遠交近攻外交の効果を狙ったものだと思いますし、効果としては十分あったと思います。
つまり、朝鮮半島諸国の、日本に対する軍事行動をさせないために、魏に使者を送り、国王の称号をもらったと思われます。
漢の倭の奴の国王の金印を、発行したのが”魏”だとすれば、それは、魏国が存続する限り有効のはずです。
朝鮮半島諸国からすれば、魏は隣の超大国です。
ウカツには、卑弥呼の邪馬台国に手出しは出来ません。
当時朝鮮半島南部にあった、任那(みなま)日本府も安泰です。
任那が安泰なら、日本列島は安泰です。
この朝鮮半島における国防の観点の重要度は、古代も現代も変わりありません。
そして重要なことがもう一つあります。
それは魏や、当時の朝鮮半島諸国に、九州にいる卑弥呼こそ、倭=邪馬台国の女王であると思ったはずなのです。
普通に魏志倭人伝を読む限り、大陸からの使者は九州に立ち寄ります。
そこには、ヤマトの国の軍の本体があり、それなりの国らしきたたずまいがあります。
使者の目には、邪馬台国=九州がインプットされるはずです。
そして何より古来より、ヤマトの国は九州にありましたので、そう思われて当然です。
卑弥呼が魏に使者を送り、記録を取らせ、国王の称号を得たことで、国際的対外的に、卑弥呼こそ倭=邪馬台国の王であり、その場所は九州にある・・・と、周辺諸国での認知は確定したはずです。
実はこの、” 対外的な九州邪馬台国の認知 ”こそ、卑弥呼外交の真の目的なのではないのか?
この仮説から、卑弥呼の邪馬台国囮(おとり)説を私は思いつきました。
なぜかというと、そうであるならば、その後の出来事が、全てつじつまがあうからなんです。 (笑)
(続く)
土佐のくじらです。
今日、3本目の記事です。
暑くて外に出られないので、古代の記事を書いています。(笑)
拙ブログは今、日本の古代の歴史にスポットを当てておりますが、私は歴史の一ファンであって、専門家ではありません。
また、一般常識を余り考慮せず、つじつまが合うか否か・・・ということだけ(笑)を重視した、実況見分的な見方しか、私はいたしませんので、
「くじらさ~ん、ここは違うでェ~。」
というご意見などございましたら、コメント等でお教え願えればと存じます。m(_)m
さて、邪馬台国(やまたいこく)は、日本の古代史の最大の謎であります。
魏志倭人伝(ぎしわじんでん)出てくる、【倭・わ】の女王とされる、卑弥呼(ひみこ)にまつわる国家ですね。
江戸時代に、福岡県の志賀半島で見つかった金印も、謎が謎を呼ぶキーワードをたくさん持っております。
有名な”漢の倭の奴の国王”印ですね。
”魏”から贈られたとされるのに、その前政権である”漢”の国号ですね。
まあ、当時の魏は、漢王朝から玉座を禅譲された形式で発足しておりますので、対外的には、【漢】を、名乗っていたかも知れません。
劉備の【蜀。しょく】も、正式国号は【蜀漢。しょくかん】ですのでね。
【倭】というのは、当時の中国から見た、日本地域の俗称でしょうね。
他民族の国名に対しては、必ず”けものへん”を使う中国人が、当時の日本に対してだけは、珍しく”にんべん”を使っています。
これから推測するに、当時の日本(倭)は、結構文化的に高く、人間の暮らす国らしい、秩序だった形態をしていたことが伺われます。
中国人の俺様ぶりは、【奴・な】という文字に込められています。(笑)
北方の蛮族のことを、匈奴(きょうど=モンゴル人のやつら)と言ったように、倭奴と扱ったんでしょうな。
奴・・・という地域があったのではないと、私は思います。
つまりこの、奴という文字は、いわゆる、蔑称ですね。
国王というのは、”中国が任命した代表者”と言う意味ですね。
つまり、このまま読み取るとしたならば、卑弥呼の邪馬台国は、当時の中国、【魏】の属国となったことになるのですね。
さて、この邪馬台国の場所が問題です。
魏志倭人伝には、邪馬台国の場所が記載されているのですが、これが読みようによって、場所が数箇所出てくるように読めるのが、とても難儀なところですね。
この邪馬台国は、一体どこにあったのか・・・が、日本古代の最大のミステリーなのです。
通常ですと、遺跡などからわかることは、当時の日本の文化程度の最も進んだ地域は九州地方ですから、邪馬台国九州説が、最もスンナリくるのです。
しかし、当時の魏からの贈り物であるとされるものが、実は九州のみならず中国四国地方、東海~東北まで出土いたします。
いわゆる、”卑弥呼の鏡”です。
そしてその”卑弥呼の鏡”は、実は近畿地方から、最も大量に出土するのですね。
三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう・さんかくえんしんじゅうきょう)というのですが、これは銅鏡の形式の一種で、縁部の断面形状が三角形状となった大型神獣鏡です。
名前は音読みで、中国製っポイですけど、これは近年学者がつけたものでしょうね。
当時日本は、”大和言葉”オンリーでしょうから、このような名前では呼んでいなかったでしょう。
ただ、様式は完全な大陸ものです。
この俗称”卑弥呼の鏡”と、その後この地に大和朝廷樹立されたことが、邪馬台国近畿説の有力な根拠になっています。
卑弥呼の出自は、正確にはわかっていないのですが、”魏志倭人伝の時期”と、その後の、”大和朝廷の原型が近畿にできている時期”とでは、実はそれほど、期間が開いていません。
せいぜい100年位しか、期間がないのですね。
古代の時間軸から言えば、これはほぼ同時期と言えますね。
ですから、邪馬台国近畿説にも、説得力は十分にあるのです。
以上のこと、そしてこれまで綴ってきた私の記事を踏まえて、私なりの邪馬台国の見解を述べさせていただくとするならば、
ずばり、
邪馬台国は2つ存在した ということになります。
そして、もう一つ付け加えるとするならば、
卑弥呼の邪馬台国は、囮(おとり)であった ということも、言えるのではないか・・・と思います。
おぉぉぉぉ、またまたミステリアスなことを言ってしまいました。(笑)
このように古代日本は、謎が謎を呼ぶ、大変面白い時代なのです。
では、続きはまた次回に。 (^^)/
(続く)
土佐のくじらです。
本日2本目の記事です。(笑)
前回記事では、奈良盆地の地形的条件から、神武東征の目的は、朝鮮半島からの防御にある・・・ということを述べました。
要するに大和朝廷は、奈良盆地という、朝鮮半島からの攻撃を想定した上での、鉄壁の要塞のような場所に造られた・・・ということです。
奈良要塞都市説と言っても良いですね。
今日は、神武東征伝説の最終章なんですが、私はこの期間における、九州ヤマト国と、他の国々との関わりが、その後の、日本神道の儀式や文化に、相当の影響を与えているのではないか・・・? と、考えています。
今回の記事の内容は、右翼系の方や、国粋主義的思想をお持ちの方から見れば、「不敬罪だ!!」と、揶揄されるものかも知れません。(笑)
卑しくも、拍手というものは、場の穢れを祓い云々也・・・と、お怒りになるやも知れません。
しかし、宗教というのは、それが拡がる過程における、さまざまな事柄が、行事や宗教アイテムに、取り入れられているものなのですね。
たとえば、キリスト教におけるクリスマスツリーは、その顕著な例ですね。
イエス様が人生をお過ごしになったユダヤの地には、モミの木なんかありませんね。
ユダヤは砂漠地方ですから、モミの木のような針葉樹はありませんし、当然雪もかぶっておりません。
これはドイツの、”冬至の祭り”の風習を、キリスト教が取り入れたのですね。
イエス様の誕生日が、12月25日というのも、かなり怪しいです。
恐らく、冬至=イエス様ご生誕日・・・と、キリスト教伝道者が、勝手に決めたんじゃないでしょうかね。(笑)
仏教でも、旅の行者が持つ、ジャラジャラと音の出る”杖”が、宗教アイテムですが、これなどは、古代インドでの、”蛇除け・猛獣除け”ですね。
お釈迦様も、インド中を行脚なさっていますので、移動に関する道具がジャラジャラ杖なのです。
お線香なども虫除けでしょうし、精舎でたくさんの人が一堂に集まるとさすがに臭いので(笑)、それで香を焚く工夫がなされていたはずです。
ですから、日本神道も同様に、儀式や儀礼建築物などは、教えの内容やそれが持つ芸術性だけでなく、その伝道背景などにも、かなり影響されているはずなのです。
日本神道と言えば、建築物は神社ですね。
神社は大抵、森の中にありますね。
いわゆる、”鎮守の森”ですね。
”森”というのは、手付かずの木々の集まりです。
一方、”林”というのは、人工的に整備された、木々の集まりです。
大抵、森の中に神社はあります。
そして祠(ほこら)があって、大きな鈴を鳴らして、拍手(かしわで)を打ちますね。
一般的な神社では、柏手は2回で、出雲大社だけは拍手4回です。
この一連の、神道の儀式、建築文化は、神武東征という名の、ヤマト国の使者と他の国々の代表者との、”極秘の打ち合わせや交渉で使われた儀式”なのではないでしょうか?
つまり、ヤマト国の使者は、朝鮮半島諸国に動きを知られては困るので、他の縄文系諸国に、かくまわれていたはずなのです。
奈良盆地という、難攻不落の要塞地形であれば、ヤマトの国の軍隊は、奈良盆地に攻め入ることは不可能です。
私なら諦めます。(笑)
地元での、何らかのお膳立てがなければ、征服どころか無事に進入することすらできません。
つまり、九州から奈良盆地への神武東征は、軍事侵攻ではなかったと私は考えます。
つまり、東征・・・という軍事行動ではなく、大部分は交渉・・・だったはずなのです。
交渉の場所や打ち合わせ方法、交渉成立の後の打ち上げの宴が、日本神道における宗教儀式に繋がったのではないでしょうか?
その様子は、このようなものではなかったでしょうか?
ヤマトの国の使者(もしくは天皇)は、まず”森”の中に祠を建てます。
そこが打ち合わせの場所となります。これが神社の原型ではないでしょうか?
それが、日本神道における最高の司祭としての天皇・・・という位置付けの原型につながると思います。
そしてそこに、縄文系の代表者が、ヤマト国の使者に会いに来た時の”合言葉”的なものが、
まず鈴を鳴らし、拍手2回(出雲国の使者には4回)だったのではないでしょうか?
交渉内容は、ヤマト国への協力依頼と、米の生産技術に関するものが多かったはずです。
今でも、天皇陛下は年中行事として、多くの農業、特に米に関する行事を行っていらっしゃいます。
4月上旬に種籾(たねもみ)を蒔く 【お手まき】 5月下旬に【お田植え】、そして、10月上旬に【お稲刈り】をしています。
またその秋収穫された米は、11月23日の【新嘗祭】という、収穫を感謝する祭儀で使われます。
また今でも、お祝い事の際には、赤飯が炊く習慣があります。
めでたいから赤い色を着けるのかと、私も最近まで思っていましたが、どうやら、日本の古代のお米は、赤かったらしいのですね。
その後の品種改良で、お米の色は白くなりましたが、赤飯は古代、この時代の祭りなどの際に使われた、”赤いお米”にまつわるものかも知れません。
さて、神武東征伝説は、ひとまずこれにて。
次回からはいよいよ、古代ミステリーハンター土佐のくじら歴史館のメインイベントです。
そうです。
古代日本最大の謎、邪馬台国の謎解きのチャレンジに挑戦いたします。(笑)
(続く)
土佐のくじらです。
今日の記事は、前回に引き続き、”神武東征伝説”に関する考察です。
神武東征の正体は東征と言われるような軍事行動ではなく、中心は米と酒による外交であり、それにより、”出雲の国”や”吉備の国”などが、ヤマト国と同盟合意したのが、有名な”国譲り神話”となった・・・のではないでしょうか。
また、前回の私は、謎めいた言葉を最後に終わりました。
九州ヤマト国の人たちは、東方の縄文系の国々に、「かくまって欲しい。」と、依頼したかも知れない・・・と。
当時の、朝鮮半島情勢を踏まえた上でシュミレーションするとするならば、この神武東征外交は、仮想敵国である朝鮮半島諸国には、”絶対に、知られては困る”内容だからなのです。
あくまで、九州にヤマト国は存在しているように見せながら、秘密裏に、東方縄文系諸国との外交を成功させなければ、朝鮮諸国に付け入られ、攻め込まれる危険が大きいのですね。
私がそう考えるに至ったのは、神武東征が成功し、ヤマト国が都を構えた場所が、”奈良盆地”であったからなんです。
なぜヤマトの国は、奈良盆地を都に選んだのでしょうか?
新たな都を構え、全国にお触れを出す土地として、奈良盆地は果たして、的確な場所なんでしょうか?
元来、奈良盆地に居を構える豪族が、全国制覇したのならいざ知らず、遠方から来た侵入者が、わざわざ奈良を拠点するのは、どうもつじつまが合わないのです。
なぜなら、奈良は、交通の便が悪すぎるのです。
邪馬台国近畿説から言えば、元来大和朝廷の原型が奈良発祥ということになるのでしょうが、私はそれはありえないと思います。
なぜなら、奈良盆地で発見される都市群全てが、完全な計画都市だからです。
奈良盆地の都市群は、すべて計画があって新しく作られた痕跡があります。
これは、自然発祥的な都市ではない証拠です。
通常ならば、首都機能を持つような都市を造ろうとすれば、もっと”交通の要所”になる地を、選択するのが常なのではないでしょうか?
たとえば、出雲の国(島根県)ですね。
ここには西から海流が流れており、当時朝鮮から貿易などには、とても適した便利な土地ですね。
もしも、アジア大陸など、当時の先進国家群との交流を、まず念頭に置いた国づくりをするとしたならば、首都機能は、絶対に日本海側にないといけないのです。
朝鮮からの影響力が嫌ならば、吉備の国(岡山県)でもいいですね。
ここには当時、結構大きな”くに”があったようです。
自然災害も少ないですし、東西南北、そして海運の拠点には最適です。
しかし、ヤマト国の新たな都は、奈良盆地でした。
なにわ(大阪府)ではなく、更に奥深い奈良まで入っています。
しかも、最初に居を構えたであろう、纏向(まきむく)と言うところは、奈良盆地の奥の奥、山裾の地です。
当時の都市水運には欠かせない、大きな川(大和川)も、遺跡からは微妙・・・・な場所にあって、これは川を運搬に使っていた・・・というよりは、堀として防御に使っていたように、私には思えますね。
和歌山県側からの進入ルートに使えそうな紀ノ川は、奈良纏向(まきむく)の地の近くでは、川幅も狭くなり激流となります。
運搬輸送の交通ルートとしては使えず、むしろ侵入者を阻むような地形構造です。
ヤマト国の新首都が奈良盆地・・・。
これは、”隠れ住んでいた”・・・とか、篭城した・・・としか、私には見えないのです。
そうであるならば、納得が行くのですね。
奈良の地は、朝鮮半島から見ればどういう位置づけになるのでしょうか?
九州には、ヤマト国の正規軍が残っていますね。
海流に乗り、山陰地方に向かえば、同盟国である”出雲の国”が控えます。
出雲を破り、中国山地を南下すれば、そのには同盟国”吉備の国”が待ち受けます。
九州ヤマト軍を切り抜け、関門海峡を通り抜けて、瀬戸内海から東征すれば、これまた同盟国の吉備の国が迎え撃ちます。
瀬戸内海は島に囲まれ、海流の流れが複雑な、海の難所です。
当時であれば、地元民以外、東西への通り抜けなど不可能です。
縄文系の、優れた航海術を持つ水軍を整備すれば、瀬戸内海での朝鮮軍船の東進を十分阻止できます。
たとえ、朝鮮軍が大阪湾に辿りついたとしても、今度は、奈良盆地の周囲の山々が、”防御壁”となって立ちはだかります。
盆地は山があるので、”陸路の進入経路を限定”することができますのでね。
また、海軍として来るであろう朝鮮軍は、そのまま大和川に入ることはできません。
川が微妙に小さく、また河口から奈良盆地にいたるまでには、必ず急流があるので、船を小さく作り変える必要が出てきます。
盆地ならば、大量の軍隊の侵入は、絶対にできないのです。
また盆地のような山岳地帯は、地元民が絶対に有利です。
盆地は巨大な城ですから、攻め込むのに大量の軍隊を要するのですが、その軍隊の進入ができないし、無数の抜け道があり、いくらでもゲリラ戦法による防衛が可能です。
新首都が奈良盆地・・・そうです。
奈良盆地は、朝鮮半島からの攻撃に対する、鉄壁の防御が可能な土地・・・なのですね。
この事実は、
ヤマト国の東征は、弥生化が遅れていた、東国への陣略目的ではなく、当時の朝鮮半島国家軍からの、防御を目的とした大規模な遷都。
これが、奈良の地理的な条件を加えた、私なりの歴史考察です。
(続く)