(二)胎骨經
「われ今日、身を生ずる情由について細かく論ずることにする。
本(もと)、娘親(ははおや)の十月(とつき)懐胎は苦の連続である。
一年中、四季の天、娘(はは)の身、惨めなること甚だしい限りである。
胞胎を養うのに火侯(かこう)を温めることによって、暫次功(こう)盈(み)ちるに至る。
一か月、霊胎長ず。草頭(くさのめ)のような景(影)を露わす。
踪跡(姿形)未だ見えず、無名無形なり。
二か月、肧胎(はいたい)長じ、陰陽交わり応ず。
汝の娘親、寝床(しんしょう)に上がるのに、まるで昏酔(こんすい)するかのような様子である。
床に睡り、身を翻すにも懶(だる)く、四体は緊(きび)しく捆(くる)しむ。
身を起こしても歩行すること困難で、頭は重く脚はよろける。
三か月、霊胎長ず、身長六寸(十八センチ強)。
汝の娘、汝を懐(はら)んで以来、何かの病に侵されたかのようである。
一骨長ずれば一骨挽(ひ)かれ、丁を抽(ぬ)き髄を抜かれる。
心(気)は烹(い)られて熱く、冷湯(つめたいもの)を即刻唇(口)に入れたくなる。
茶も飯も欲しいと思わず、朝な夕な昏(くら)く悶(もだ)えるのみ。
行坐しても心安らかになることなく、病(やまい)に冒されたかのようである。
四か月、霊胎長ず、四肢は既に形が定まる。
先に足が生じ、後に手が生ずる。春夏秋冬。
両手を生ずるときは、娘の血脈を抽運することになる。
紗窓(薄絹を張った窓)に向って針線(はりいと。針仕事)をしようとすれば、背は辛く伸ばすこともままならない。
両足を生ずる際には、湧泉から血が奔(はし)り出て玄関を透る。
平地を歩くにも高山に登るように辛く、膝蓋(しつがい)が酸(くる)しみ痛む。
汝がいくら修行したと言っても、未だこの間の事情を正しく理解するまでに至っていない。
根本を全く懐(こころ)から忘れ去り、娘親に忤逆(ごぎゃく)するのみである。
五か月、霊胎長ず。五体端正に整う。
天霊長じ脳蓋が完成する時に当たって、老母の頭は疼(いた)む。
前八天、後八天、生死の門經定まり、左八天、右八天、玄牝の門が備わる。
頭髪長(の)び眉腔を蓋(おお)うようになると、娘親は眩暈(めまい)を起し吐き気をもよおす。
ちょうど泥牛が海底で溶解してしまうかのように、娘は悪心(おしん。吐き気)を受ける。
汝がいくら修行したと言っても、未だに路經を知らずにいる。
空門に入り空幻を悟るばかりで、どうして娘の恩に報いること出来ようか。
六か月、霊胎長ず。六根に性を分かつまでに至る。
先に眼に通じ、後に耳に通じ、鼻舌全て全きに成る。
眼光りを通じ、孩児に視力を分け与えるため、娘の眼は混沌とする。
耳、音を通じ、孩児に聴力を分け与えるため、娘の耳は幻聴に悩まされる。
舌根長じて孩児に味覚を分け与えるため、新しい枝葉に水を漱(そそ)ぐかのようである。
児の三花(金花・銀花・鉛花、精・気・神)は碧(あお)い秋水のようで、舌の上に津液(じんえき)を生ずるようになる。
汝既に修行した身であると言っても、眞の道を行なうことを懂(し)らない。
色に眼を奪われ、美声に耳を傾け、鼻舌はよい香味に惑う。
口は肉を喰らい、人の過ちを談じ、心には不正の気持ちを存している。
父母(の恩)を埋葬し、父母は地獄に堕落して深坑にある。
七か月、霊胎長ず。七竅初めて定まる。
左に心肝、右に肺腑があって、龍虎が嘯吟(しゅうぎん)するように躍動する。
脾と胃が長じ倉廩(そうりん。腹膜)完成し、大小(腸)の形もはっきりしてくる。
汝の娘親、元気なく、心は痛み疼くばかりである。
前は朱雀(すざく)、後は玄武(げんぶ)に似て膀胱と左右の腎臓がある。
日が漸次進むにつれて胎児が大きくなるため、歩みもますます重く、まるで千斤の重石を抱いているかのようである。
寶蔵の庫を完全に了(はた)して娘は、ようやく餮飲(てんいん。貪り飲食する)を思うようになる。
しかし珍饈(ちんちゅう。御馳走)があっても、敢えて唇に沾(つ)けることはしない。
雲陽市(都會)に在って坐落(分娩)する場合には何ら不自由することはないが、若し辺鄙な地に在って坐落する場合には、何事も意のままに運ぶとは限らない。
富貴の家の生まれであれば、栄華を享け心性を労することもないが、
貧窮の身であれば、朝な夕な雑事に忙殺される。
晩ともなれば娘は煩悶して、重病に害(そこな)われたかのようになる。
今のように汝、母を抛り別れ、如何にして母の深い恩に報いようと言うのか。
八か月、霊胎長ず。八脈旺(さか)んに運ぶ。
七寶の池、八徳の水、八獄身に帰る。
晩になって母睡気をもよおしても、安穏と眠りに付くことも適わない。
枕が低ければ、娘の気は喘いで身動きするのも辛くなる。
路を行くときは、娘と児は鴉(からす)が並んで飛ぶかのようである。
娘は喉が乾いて凉水を飲めば、まるで鑊湯(かまゆ)地獄に投ぜられたかのようである。
母、頭を下げて、背や腰を屈めれば、まるで鋸のような形になる。
児が飢えれば娘の血を吸うため、娘の心は悶(くる)しみに飽(み)ちる。
様々な苦を味わうが、懐児のために、娘は許多(あまた)の艱辛に耐える。
今のように汝、道人となって身は長じても体は硬い。どのようにして、生身の母の懐胎の恩に報いようとするのか。
九か月、霊胎長ず。三還九運す。
或る一日、児身を転換させれば母の心(臓)は刀で割かれるかのように痛む。
左に転ずる時は男子で、六陽進み朝(かえ)る。
腹中に在って子の道を行ない、手に娘の心(臓)を捧げる。
右に転ずる時は女子で、六陰の気を運ぶ。
有る一日降下すれば、腰膝酸(いた)み疼く。
今のように汝、道人となっても、気の昇降をよくすることもない。
有為に執着し、假りの相を装い、どのようにして娘の恩に報いるのか。
十か月、胎すでに月満ち、瓜熟れて蔕から離れ落ちる。
臨産の時、娘の坐草(分娩)は、九死に一生を得るようなものである。
第一に怕(おそ)れるのは、塩を求めて生まれることである。両手をもがき出す。
腹中に横たわっていて分娩し難く、魂を驚かせて落胆する。
第二に怕れるのは、胞衣(えな)を離れて生まることである。娘の命は保ち難い。
全く冷と熱とを感じ分けることもできず、坐臥しても安らかでいられない。
第三に怕れるのは、背を掩って生まれることである。娘の心は甚だ苦しい。
坐草の時ありとあらゆる苦を受けるが、それを区別して訴えることも難しい。
第四に怕れるのは、屍となって生まれることである。娘の数(寿命)は既に尽きる。
これは前世の寃孼(えんげつ。罪)の債(かり)によって命を取られ、そのために陰(地獄)に帰す結果となるものである。
第五に怕れるのは、腸を推して生まれることである。五臓が整うのを妨げる。
賽屠家(さいとか。助産婦)も手を下し難く、痛みの叫び声は絶えない。
第六に怕れるのは、胞を荷(にな)って生まれることである。強い弓を引くように力む。
膝の上に夾(はさ)み、塔箭に似て、人を生み落とすことになる。
第七に怕れるのは、腸が蟠(わだかま)った状態で生まれることである。命は救い難い。
児は死に娘また亡(ほろ)び、母子ともに逝く。
第八に怕れるのは、腸が堕ちて生まれることである。児には生命降るが、母の衣胞は下り来ることなく、命、残生を送る(死に至る)。
第九に怕れるのは、蓮を踏むようにして生まれることである。娘は疲れて双膝を跪く。
これ母は命を留めることがきても、児は生を享けることが難しい。
一盆の清浄水によって、児を洗浄する。
しかし、その穢れた水を地に傾ければ、重い罪を帯びることになる。
三朝(みっか)經って湯餅(とうへい)の會があり、そこで生命を損なう。
諸親を款待(歓待)して命の債をかり、罪は娘親に帰す。
穢れた衣を洗い天に晒しても、冒した犯(つみ)は避け難い。
堂前を通り、屋(かまどのまえ)を走れば、罪を神明に得る。
血河の罪を造れば、輪廻の罪に等しい。
娘に替わって罪を承けようという、眞の孝子がいないものか。
母親の生身の苦を論じようとしても、全ては実に表し尽くし難い。
また、養身の恩というものがあり、これを汝に傳え聴かす。
三年の乳、九載の養育、力を費やすこと甚だしい限りである。
湿りを乾きに移し変えるのは、辛苦千萬に値する。
三伏(夏至後の第三・第四の庚の日と、立秋後の最初の庚の日、即ち酷暑の時を言う)に児を抱いて睡る。熱の毒気が勝る故である。
娘は苦を甘んじて受け、時(つね)に児の身を憂う。
冬冷に至れば娘は湿った所に臥して、児が冷えるのを怕れる。
風寒(感冒)に冒されれば、急いで調治(手当て)するが、驚き躭(つかれ)を受け尽すこととなる。
屎尿を局(かが)めて忙しく碗(おまる)に放り、児を取り上げて洗浄する。
臭味を嫌わず、屎(糞)片を洗い、更に屎裙(おむつ)を換える。
富貴の者は洗い替えがあるため何も緊しいことはないが、
貧窮の人は洗い替えを持たず、よく育てることも難しい。
痘疹(とうしん)などの病痛が出れば、時々刻々に憂悶するのみ。
懐(だ)いたり背(せお)ったり、背ったり懐いたりして神に許しを願い求める。
銭を惜しまず、遠近を物ともせず良医を呼ぶ。
直ぐに心配し、ようやく病(やまい)痊(まったく)癒(なお)るに至って方(はじ)めて心やすむ。
娘の多少(かずおおく)の乳を飲むことにより、娘の姿が枯れること甚だしいものがある。
娘親の千萬の元気・精神を退(ひ)かすことになった結果である。
娘は花のようなもので、既に子を生めば、花は必ず萎れ枯れる。
子はまさにその仁を固くして、性根(しょうね)を失わないことである。
根本が壊れるような事になれば、どうして人と言えようか、どうして天道に応える事が出来ようか。
天宮(理天)の内には、一人として不孝の眞人はいない。
汝、今朝既に修行して、賢聖を願い望むに至った。まさに娘親生養の恩をどのようにして還そうと言うのか」
宗横は、大師の諄々たる説法に涙を流して感激し
「私の出家修行は無駄であったと知りました。どうしてこのような胎骨經の理を知ることができなかったのでしょう。父母生養のは、いま明師の教訓を得て初めて茅塞(おおわれたこころ)が明らかに開かれました。ああ私は、なぜこのような悔いを千載に残すような事をしたのでしょうか。まさに所謂
『樹静かならんと欲すれど風息(や)まず、
子、養なわんと欲すれども親在(いま)さず』
とは、この事です。どうすればよく阿娘(はは)の産生の恩に報いることができ、親の霊を地獄の苦しみから助け出すことができるでしょうか」
こう言いながら、宗横は声を上げて泣き出しました。
(続く)