ジャパンブルー

2009-06-17 07:24:09 | サッカー
一サッカーフアンである。W杯出場を切に願い喜んでいるが弾丸ツアーに参加するとか午前何時にTVの前で応援するとかそこまでの気持ちは持ち合わせていない。タマタマ大学が埼玉大学(旧制浦高)だったため、おカネのかからないボール蹴りを友人達(埼玉県出身者が多い)としていたに過ぎない。(昔のサッカーどころは、埼玉・静岡・広島)

我が子(男の子は2人)がクラブ・チームに入るとともに見よう見まねの俄かコーチを6・7年務めた。所詮ボランティアなのでコーチは笛も吹かなくては(4級の審判ライセンス取得)いけないし、試合の前後はゴールの組み立て・片付け及びライン引きも仕事である。

子供達と親しくなるのは簡単である。その子をあだ名で呼んであげればすぐ親しくなれる。OBの中・高生が時折教えにきてくれるが”おい!”等名前を呼ばないのは最低でナカナカ親しくなれない。少なくても名前で呼んでやれば、実力は俄かコーチより余程上なのだから尊敬の念とともにすぐ親しくなれる。

仕事(本職)が忙しく(休日に休めない)なったため、手を引いてそのままになってしまった。ず~っと笛も吹いていなおので審判の免許も剥奪である。家には未だRed Card と Yellow Card はある。家内が私に出すかもしれない。

当時日立(現 柏レイソル)が、少年サッカー・スクールを開催しており子供達はこのスクールに参加するのを楽しみにしていた。参加した証に黄色(日立カラー、現レイソル・カラー)のバッグをもらいこれを自慢げに練習のときにもってくるのが目的の一つだった。
セルジオ越後も「青空サッカー教室」を開催し1日(半日だったか?)子供達を教えてくれた。

日本代表が青色のユニフォームを着用するようになったキッカケはベルリン五輪(1936年)で初出場の日本が優勝候補スウェーデンに奇跡の勝利を得たときにたまたま青だったので、それ以来、縁起かつぎで青を採用しているようだ。
ところが昨今、このユニフォームをジャパン・ブルーとよんでいる。”ジャパン・ブルー”は青とは別に存在する。”藍色”である。

明治8年に政府に招聘されることになった英国の化学者で、東大の前身である東京開成学校の教師であり、後に教頭までもやったロバート・ウイリアム・アトキンソンは「日本全国到るところ、青色衣裳のあらざるなき」と述べて、この種の藍色に「ジャパンブルー」と命名したと云う記録がある。

つまり、れっきとした世界に通用する”カタカナ英語”である。ところが、このジャパン・ブルーだが”藍色”に見えない。”青色”である。
ユニフォームを作っている方が間違っているのか呼んでいるほうが間違っているのか。
「ジャパン・ブルー」はなかなかよいネーミングである。であればユニフォームはもっと藍(愛)らしい「藍色」にして欲しい。 ベルリン五輪は、「青色」だったようだが。

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