さあ~てと 帯しめましょか。

人生、山あり谷あり
向かうはわが身の置き場所よ。
帯締め、気を染め、往きましょか・・・  ~part 2~   

靭海産物市場と雑喉場魚市場≪地名由来≫

2012年04月15日 15時59分00秒 | 姓氏/珍姓・難姓・奇姓/地名

≪ 靭 地名由来 ≫

靭(うつぼ)という町名は、豊臣秀吉が大坂市中を巡見したとき、
「何十文やすやす、何百文やすやす」という塩干魚市売り商人の声を聞き、
「矢栖(矢巣:やす)とは靭(矢を挿しいれる道具)のことだろう」
と戯れに言ったのを聞いた商人らが、上意と受け止め、一町を靭町と名付け、
他の一町は天満鳴尾町から引越してきた因縁で天満町と命名したと伝える。
                             (『浪花百事談』『靭の歴史』)

しかし、この地は水利の便に乏しく、塩干魚の売買に適当ではなかったため、
元和八年(1622)津村の葭島を開発して移住し、新靭町・新天満町と名付け
た。これによって元の靭町と天満町は、町名を本(もと)靭町・本(もと)天満町
と改名した(→東区伏見町1~5丁目)。
したがって、江戸時代に町名に「靭」の文字を用いていたのは、新靭町だけで
あり、これに新天満町と海部町と海部堀川町を加えた一帯の地名を単に靭と
呼んで、新靭町・新天満町・海部堀川町を靭三町と通称していた。


≪ 靭海産物市場と雑喉場魚市場 ≫

靭(津村葭島:つむらひえじま)の市場・・・塩干物
雑喉場(鷺島:さぎしま)の市場・・・鮮魚

古くは塩干魚も鮮魚も区別なく一緒に天満の大川沿いに市場があった。
     ↓
太閤さんが大坂城を築城、大坂の町が出来上がった頃
船場の東横堀の伏見町・道修町のあたりへ移動
     ↓
鮮魚商が少し南へ移る(備後町・安土町)
     ↓
雑喉場(※3)の地に移る。
残った塩干物屋さんが靭へと移る。

永代浜(※1)といわれるところで干鰯市(ほしかいち)(※2)が開かれていた。
干鰯は金肥(お金で買う肥料)になり農村への需要が凄かった。
(大和川改修工事による稲が作れない綿作農家が増えていた為)

              (※2)干鰯(ほしか)=「干したイワシ」

江戸時代を通じて、天満青物市場・靭海産物市場・雑喉場市場は、
それぞれの発展をとげた。明治になっても、取引の方法など旧に
比して変わらない状態であった。

昭和6年11月11日、大阪市中央卸売市場の開設によって、旧市場
は11月10日限りで閉鎖される事になった。
ここに300年来の旧市場の歴史を閉じる事になった。
なお、天満市場と江戸時代の末に出来た木津難波市場(浪速区北
高岸町)の二市場は、配給所という名目で残された。

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
【(※1)永代浜】
 明治元年、(1868)に大坂商法会所より、市場問屋仲買に商業
鑑札が下され、市場の取り締まりが行われたが、現実には農商人
との間に直売買がなされていた。
 生魚・塩干魚類は大坂城近くで売買は許されず、最初靭町(現東
区伏見町)で始められた。こののち塩魚・干魚商人は、元和8年
(1622)幕府の許可を得て津村のひえ島に移り、新靭町・新天満町・
海部町(いずれも西区靭上・中・南通)を作った。そして、舟運の便
をよくするため京町堀川と阿波堀川を連絡させるべく海部堀川を
開削し、その堀留を永代堀、その浜を永代浜と呼んだ。
 ここで、塩魚・干魚・鰹節などが商われ、その後靭三町は安永3年
(1774)に株仲間の設立が認められ、靭海産物市場として発展する
ことになる。

【(※3)雑喉場(雑魚場)】
また靭にあった生魚商は、この地が海から遠く、夏ともなれば生魚
が腐りやすいとのことで、天和3年(1683)頃より一年を通じて、
百間堀川の左岸の鷺島(西区京町堀)で取引されることになった。
 この鷺島の市場では、近海魚の雑魚(ざこ)も取り扱われたところ
から雑魚場(雑喉場)と呼ばれた。雑喉場は明和9年(1772)に
株仲間の設立が認められて大いに賑わい、取引代金の決済のため
「雑喉場手形」と呼ばれる信用通貨もでた。
 そのほか、淡水魚は京橋川魚市場で取り引きされたようであるが、
これについてはつまびらかではない。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

≪ 靭公園 ≫

昭和 6年11月
  大永代浜を中心とする靭の海産物問屋・仲買は雑喉場魚市場と
  ともに、大阪市中央卸売市場に吸収統合されてその跡を絶った。
     ↓
昭和20年3月(太平洋戦争中)
  アメリカ空軍の空襲によって荒廃し、戦後は一時
  在日アメリカ軍の小型機発着所地となった。
     ↓
昭和27年6月
  靭飛行場が連合国軍から返還されたのを機に、大阪市は跡地を
  戦災復興区画整理事業の公園として着工。
     ↓
昭和30年10月21日
  27762坪(約92000平方メートル)の大公園が完成。

 

 

ちなみに上方落語家の桂ざこば師匠は、この雑喉場が由来だそうです。

詳しくはこちら→ 桂ざこば(ウイキペディア)

 

 


 『大阪の町名 ―大坂三郷から東西南北四区へ―』
                 編集: 大阪町名研究会 参照  

 『ー西区を知る、大坂を知る―再発見あれこれ』
           大阪天満宮史料客員 近江晴子:参照  

 

 



   

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