さあ~てと 帯しめましょか。

人生、山あり谷あり
向かうはわが身の置き場所よ。
帯締め、気を染め、往きましょか・・・  ~part 2~   

御訪問者の皆様へ

ようこそ、いらっしゃいました♪ いつも御訪問頂きありがとうございます。 訳あってコメント欄閉じていますので、《おしゃべり広場》は閲覧のみとなっております。 本年もよろしくお願いします。

      

仏教の話 ☆ 6≪慈悲&仁≫

2009年10月30日 21時53分00秒 | 神・仏教・民俗の話

 仏教の根本は「慈悲」

 慈 = 友愛の意 (サンスクリット語でマイトリー)

     「同朋に利益と安楽をもたらそうと望むこと」(与楽)

 悲 = 呻き声の意 (サンスクリット語でカルナー)  

     「同朋から不利益と苦とを除去しようと欲すること」(抜苦)

 

『仏教は、利己的な心情を中心とした愛を“愛”と呼び、

利己心のない愛を“慈悲”と呼んで区別します。

それゆえ、「愛」を必ずしもよいとは見ません。

「愛」ではなく「慈悲」を強調するのが仏教の特色です。

 

 

 

 浄土真宗の改組の親鸞 (1173~1262)

      (『欺異抄』第4段より)

《聖道門と浄土門とでは、慈悲の考え方が違っている。

聖道門の慈悲は、対象を憐れみ、悲しみ保護してやろうと

するものだ。しかしながら、思いのままに他人を助けることは

まずはできそうにない。そこで、浄土門では、慈悲は、念仏を

して自分が急いで仏になり、その仏の大慈悲心でもって

自由自在に衆生を助けることをいう。

今この世にあって、どれだけ他人に同情し、相手を気の毒に

思っても、完全な意味で他者を助けることができないのだから、

そういう慈悲は所詮中途半端である。だとすれば、ただただ

念仏することだけが、徹底した大慈悲心である。》

 

自力の仏教(聖道門)では、修行によって慈悲の心を身につける

わけです。それに対して、他力の仏教(浄土門)では、凡夫には

真の意味での慈悲の心は持てないと諦めます。

その悲しみが、凡夫にとっての慈悲なのかもしれません。』

 

 

 

 儒教の根本は「仁」

① 人を愛すること

 孔子が弟子に「仁とは何か」と問われたときにそう応えています。

 しかし、自己中心的・束縛・従順を伴う愛ではいけないのです。

 また、どんな人をも差別することなく愛する(=兼愛)でもありません。

儒教では、自分の身近なところからはじめて、それを広げていく

のだと言います。

まず、我が家の老人を敬い、そしてその気持ちを延長して他の

老人も敬うのです。わが子を子供として愛し、そしてよその子を

も子供として愛するのです。

 

 

② 「恕(じょ)」 思い遣り

 《子曰く、「己れの欲せざるところは人に施すこと勿れ。…」》(顔淵22)

 =自分がしてほしくないことを人にするな(否定的表現)

 《子曰く、「それ仁者は、己れ立たんと欲して人を立て、己れ

 達せんと欲して人を達す。…」》(雍也30)

 =自分にとって望ましいことは他人にもそうしてやれ(肯定的表現)

 両者は同じことを言っており、これが、「恕」であり「仁」であります。

 

このようにして「愛すること」のうちに相手に対する「思い遣り」

を加えることによって、自分と相手が対等の関係に立つこと

ができます。その対等に為ったときに、発揮されるのが「仁」です。

 

孔子は「克己復礼」によってそれは可能になると言っています。

自分に打ち克って礼に返るのが仁を行う方法である。そのこと

をただ1日だけでも実践すれば世界中が「仁」に同化するだろう。

仁を行うことは自分自身によるものであり、他人に関係ある

ことではない。克己というのは、自分の欲望を抑えることです。

その意味では、「仁」とは「共生」の思想だ、と考えてもよいでしょう。

最後に、この「克己復礼」によって「仁」は「愛」とは違ったもの

となります。いわば、一段と高められた「愛」になるのです。

 

《子曰く、「ただ仁者のみ能(よ)く人を好み、能く人を憎む」》 (里仁3)

仁によって、人は本当に人を愛し、人を憎むことができるのです。

愛憎を超越した高次元の愛が「仁」です。

 

人間を無差別に愛するのが「仁」ではなく、

本当に愛すべき人、愛してよい人を愛するのです。

そして、憎むべき人は憎む。

それが、儒教の「愛」=「仁」だそうです。

 

  『仏教と儒教』 ひろ さちや著:より

 

 

儒教が説く道は、「個別的状況倫理」です。

具体的な人間関係において道徳を説くところに、

儒教の特色があると言えます、

つまりは、マイホーム主義的だと言えそうです。

昔はどこの大人でもそばで見かけた子供が悪いことしていたら、

ちゃんと叱ってあげたり、よいことをしたらほめていたものです。

自分の子供のように、同じように可愛がって接していたものです。

こういうところも、儒教の影響だと言えそうです。

 

しかし、日本における儒教の捕らえ方にも、家庭的な面が無視

されてしまい、社会生活を営む上で、社会の秩序維持の方が

重視された傾向もあるようです。

それは真の儒教精神を歪めたものだと著者はいっています。

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日、思ったこと

2009年10月29日 22時23分00秒 | 日記

夕方、ニュースで霞ヶ浦の取水口工事への反対運動を

76歳の漁師である漁業組合長さんが主体と

なって国と戦うはめになとったとやっていました。

日本一の天然鮎の漁獲量を誇る那珂川。。。


 

霞ヶ浦の汚れた水を那珂川に流し込み、

逆に天然鮎の稚魚が霞ヶ浦に流れ込むと、生態系が

崩れてしまい、那珂川の鮎がいなくなるといいます。

霞ヶ浦の浄化にも取り組んでいる地元では、

国のすることは、意味がないし科学的にも誤っているといいます。



自分のしてる工事中の川巾にも応えられない職員が

本当に地元の人たちのことを考えているのでしょうか?

なぜ、もっと地元とかかわって話を聞かないのでしょうね。

必要でないと生活に密接に関わってる人がいっているのに、

1900億円ものお金を費やすなんてどうかしてますね。

もう200mと着工が近づいてきてるようです。

最後の抵抗と漁師の漁業権の執行と、船を浮かべてる

そうです。船が浮かんでいる限り侵害してはならない

という法律があるらからです。

今の民主党では、公共工事の見直しの中に入っている

ので、それが最後の望みと頑張っているようです。




私は地元ではないけれど、よく、鮎釣りに行っていた

釣り好きのお義父さんのことを思い出してしまいます。

自然はいったん壊すと元には戻らないです。

今願うことは、自然を壊さない方法をできうる限り模索して

密着した人々の意見を聞きながら、事業を進めるような

世の中にしていってもらいたいものです。

 


 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

仏教の話 ☆ 5≪釈迦の悟り≫

2009年10月28日 22時33分33秒 | 神・仏教・民俗の話

 ≪釈迦の悟り≫

 ~如実知見(にょじつちけん)~

 「ありのままに起こることをありのままに受け止める」

 

 

釈迦の深遠な悟りを簡潔に伝えるこなど至難の業。

敢えてまとめると、如実知見、世界の物事、宇宙の森羅万象を

如実に、あるがままに知見しなさい。

というのが、釈迦の教えの根本だと言います。

 

たとえば、 

 老い・・・時間が経過するという意味でしかない     

      1日づつ、1時間づつ、1分づつ、確実に老いていく。

      ただ、それだけのこと。

 【苦=“duhkha”=「思うがままにならないこと」(サンクリット語)

      

 「老・病・死」=思うがままにならないこと

われわれは思うがままにならないことを、思うがままにしよう

として、「苦」にしているのです。

 

 解決法=如実知見して「苦」にするな

           ||

 思うがままにならないことを、思うがままにしようとしないこと 

 

 

 

人間は、自分の都合のいいように物事を見て、

理解しようとするものです。たとえば、

赤ん坊なら早く大きくなってほしい(老いてほしい)と思い、

老人になるとこれ以上老いたくないと思います。

すると、老いが「苦」になってしまうのです。

老いである、しわやたるみもいやだと思わず、

しっかりと受け止めて(苦にせず)、

これだけ長く生きてきたんだから、それぐらい当たり前

のことと、明るく元気に自分の人生を全うしましょう、

生きましょう。。。ということが老いについての悟り

ということになるのでしょう。

 

 

仏教は三宝(仏法僧)の教えとか言われますが、

それは後の聖徳太子が十七条の憲法の中で記した

ものからきたようです。

年代、お国柄、当時の人の捕らえ方によって

仏教もかなり形をかえてきたようです。

今回は釈迦が発見したものだけを注目しました。

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

仏教の話 ☆ 4≪伝来≫

2009年10月24日 19時18分00秒 | 神・仏教・民俗の話

「仏教も儒教もともに外来思想です。

だが、わたしたちがともすればそのことを忘れてしまうほど、

仏教も儒教もすっかり日本化されてしまい、ある意味では、

日本の伝統思想といってもよいほどになってしまいました。

じつは、この日本化されたということが問題です。」

と 『仏教と儒教』の著者、ひろさちや氏が「あとがき」に

書いておられます。 

かつての日本は、仏教を儒教化し、儒教を仏教化することに

よって両者を日本化し、それを社会的規範としてきたようです。

 

 

  儒教の伝来】

 

「日本書紀」・・・応神天皇の十五年に百済王の使者として

           阿直岐(あちき)が良馬二匹を貢進して来た。

          応神天皇の太子の菟道稚郎子(うじのわさいらつこ)

            が、阿直岐を師として経典(儒教書?)を学んだ。

          翌年、阿直岐推薦の王仁(わに)が日本に来た。

「古事記」・・・・百済から阿知吉師(あちきし)が来て、

         「賢(さか)しき人」を派遣してほしいとの要請に

          応え、和邇吉師(わにきし)が『論語』十巻と

          『千字文』一巻、を持って日本に来た。

 

 日本書記が撰述されたころ(720年)には、『論語』が読まれて

いただろうと推測され、六世紀にはかなり伝わっていたとされて

います。

 

 

 

   【仏教の伝来】

      (↑「邪馬台国の会、第248回、欽明天皇と仏教伝来」リンク)
        いろいろな説が載ってます。

 

☆『日本書記』欽明天皇十三年冬十月説(552年) 

     百済の聖明王が使者を送ってきて、

     《釈迦仏の金銅像一軀(かみのみかたひとはしら)・

     幡蓋若干(はたきぬがさそこら)・経論若干の巻》を

     献上の事実をもって公伝とする。

☆『上宮聖徳法王帝説』・『元興寺縁起』(538年)説もある。

 

最初、これらのものが入ってきたとき、天皇は群臣に

「仏教」を受容すべきかどうかを諮ったようです。

 

蘇我稲目(そがのいなめ)・・・崇仏を主張

  諸外国でも信奉してるから、日本だけ拒めない。

物部尾興(もののべのおこし)・・・廃仏を主張
中臣鎌子(なかとみのかまこ)・・・廃仏を主張

  日本には日本の神がおられるから必要ない。

 

天皇は蘇我稲目に仏像などを授けて、

「試みに礼(うやま)ひ拝(おが)ましむべし」と採決しました。

これは、仏教を返品することによってその他の文物制度の

輸入障害が生じるところもあったのではないでしょうか。

だから、仏教の場合、すんなりと受容したようです。

 

ところが、儒教の場合、朝鮮には中国本来のあり方で伝わ

ったにも関わらず、日本に来た儒教はまったく別のものに

っていました。日本人は宗教的要素を除いて倫理・学問・

教養として、儒教を受容したのです。

中国の文物制度の輸入品の中に入っていたという感じです。

 

  『仏教と儒教』 ひろ さちや著:参照

 

 

私が最初に感じた「ブッダ」の話の違和感は、やはり日本人と

しての習俗に慣らされたものだったようです。

科学が進んだ現代社会における仏教は、

釈迦の悟り(如実知見)とはかけ離れてきているようです。

それに、仏教は先祖供養と密接な関係があると、

疑いもしなかった私の考えは意外なことに驚かされました。

それはまた、いづれ後々に書くとしましょう!

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

義母のお気に入り

2009年10月23日 20時09分00秒 | 家族

今日は久々にお義母さんの家で飲んできました。

お義姉さんの旦那さんは一切飲めないし、

うちのマーちゃんは飲めるけれども、家族・親族で飲むときは、

いつでも運転できるように、誰かを送ってあげれるようにという

気持ちがあるんでしょうか、一切飲みません。

自転車で来るときでも、あまり飲まないんです。

だから、「お嫁さん借りるわ~♪」ってなもんで、

義姉と義母と私とで飲むことが多いです。

 

最近、病院の看護士さんやヘルパーさんにどうしてるか、

一人で寂しくないか、心配してんねんで~っと

声をかけられること多いらしく、義母はいつも、

「弟が毎日くるし、友達や娘や嫁が飲みに来てくれるねん!」

と話題に出してくれているようです。

今日はそんな話を自慢げにしてくれていました。

 

そして、この間のお土産。

かなり気に入ってくれたようです。

最近、よく東京駅を通ります。

お土産やさんがいっぱいあちこちにあるので、

ついつい買ってしまいます。

 

    ごまたまごプリン

「ごまたまご」の妹なんですって!

 

底に甘~い黒ゴマペーストが

カラメルソース代わりに入ってるんですョ。

リッチな配合のプリン(牛乳・卵・蜂蜜・生クリーム)

とあわせて食べるとごまの風味でさらに美味しいですョ。

 

 

前に「ごまたまご」を次に買おうと思っていたんで、

今回はごまたまご・・・といいかけて、プリンのほう、

と付け加えました。なんだか、毎回、新しいのが

増えている気がします。(この前からあったのかな~?)

おかげでお土産は毎回迷ってしまいます。

これは、定番になりそうです。

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

仏教の話 ☆ 3≪衰退≫

2009年10月21日 16時23分30秒 | 神・仏教・民俗の話

人間を差別しないこと。それが仏教の大きな特色です。

ーーー衆生(サンスクリット語でサットヴァ)ーーー

仏教でよく使う言葉です。

これは、生きとし生けるものすべてをさしています。

仏教は、人間を含めすべての生き物の平等を表明しているのです。

 

釈迦は、生まれながらに人間を差別する制度に反対しました。

自分が29年間その中で暮らしてきて、妻子さえも捨て、苦行の

道を選んだのはこのカーストによるものが強かったのでしょう。

インドの社会で仏教が滅びたのは、仏教がカースト制度を認め

なかったためである、とも言われています。

 

カースト制度を認めない仏教徒は、全ての人と平等に交際します。

しかし、インド人は、特に高いカーストの人は低いカーストの人と

付き合いません。低いカーストの人と付き合っている仏教徒は、

結果的には低いカーストの人間にされてしまいます。

つまり、仏教徒というだけで低いカーストにされてしまいました。

その結果、仏教がインドで衰退してしまったのです。

 

 

 『仏教と儒教』 ひろ さちや著:参照

 

 

仏教の話 ☆ 2≪分裂≫ で、釈迦の入滅後、200年間と

考えたとき、ふと、インドにおける制度が頭をよぎりました。

今のインドの宗教は、インダス文明の時代からインド及びその

周辺に居住する住民の信仰が受け継がれ時代に従って変化

したヒンドゥー教が大半を占めています。

 

 

以下、『提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用

【現代のヒンドゥー教】より

アジア地域における信仰の広がり

インドでは人口の81.4%を占める8億2760万人、ネパールでは人口の過半数、バングラデシュでは人口の14%、スリランカは15%がヒンドゥー教徒である。インドネシアバリ島では人口の約9割がバリ・ヒンドゥーと呼ばれる独自の習合宗教を奉じ、マレーシアシンガポールにも相当数の信者が住んでいる。世界全体での信者数を比較してみるとヒンドゥー教徒は仏教徒よりも多くなる。信者が地域的に遍在していることもあって、日本では世界宗教ではなく民族宗教と考えられており、世界三大宗教の座を仏教に譲っている。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

【カースト】より

基本的な4つのカースト(ヴァルナ)とカースト外の身分には、以下のものがある。

  1. ブラフミンサンスクリットでブラーフマナ、音写して婆羅門・バラモン)
    神聖な職についたり、儀式を行うことができる。バラモンというのは「ブラフマン(梵)を有するもの」の意味で自然界を支配する能力を持つものとされている[24]。「司祭」とも翻訳される。
  2. クシャトリア(クシャトリヤ)
    王や貴族など武力や政治力を持つ。「王族」、「武士」とも翻訳される。
  3. ヴァイシャ
    商業や製造業などにつくことができる。「平民」とも翻訳される。
  4. シュードラ(スードラ)
    一般的に人々の嫌がる職業にのみつくことが出来る。シュードラはブラフミンの影にすら触れることはできない。「隷民」「奴隷」とも翻訳されることがある。先住民族であるが、支配されることになった人々である。
  5. アチュート(パーリヤ)
  6. さらに、カースト外の人々もおり「不可触民」とも翻訳される。力がなくヒンドゥー教の庇護のもとに生きざるを得ない人々である。にも関わらず1億人もの人々がアチュートとしてインド国内に暮らしている。

なお、外国人であっても日本や裕福なアジアの国や、ヨーロッパ、アメリカからの訪問者はその国の力が強いため、高いカーストと同様の扱いを受ける。

カーストによる差別は1950年に憲法で禁止されている。(引用終)

 

 

 

現代のインドにおける仏教徒の数は、人口の1%以下だそうです。

仏教はインドにおいて衰退してしまったのです。

その原因が、カースト制度。1950年に禁止になったそうなん

ですが、今も根強く意識の中に残っているようです。

そういえば、この間、インドでは、コンピューター技術の習得率

が、かなり高いと、IT関連のニュースで言っていました。

そうです。IT関係は新しい職業!

インドの、カースト制度の中にはないし、これからの時代、

絶対不可欠のものとなるでしょう。

つまり、高いカーストと同様の扱いを受けれるのです。

 

カースト制度、この強い制度があったために正反対の

仏教が発祥したのだろうと、私は今、

遥か遠い時代に想いを巡らしています。

当時のゴータマ・シッダッタ(釈迦の本名)の苦悩は、

並大抵のものでは、なかっただろうなあ・・・と。。。

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

仏教の話 ☆ 2≪分裂≫

2009年10月20日 15時45分00秒 | 神・仏教・民俗の話

釈迦の入滅後、二百年ほどして、戒律の解釈に関して

仏教教団に分裂が起こり、保守的な上座部(じょうざぶ)と、

進歩的な大衆部(だいしゅぶ)に分かれました。

そしてその後、上座部からも大衆部からも多く部派が分派

しました。このように多くの部派が分立していた時代の仏教を、

日本の学界では「部派仏教」と呼んでいます。

 

しかし、部派仏教の多くの部派のうち、今日、東南アジアの

地域に残っている仏教は、上座部系の仏教です。したがって

「部派仏教」よりも「上座部系の仏教」の呼称の方がいいでしょう。

その後、紀元前後のころ、(釈迦の入滅から五百年後のころ)

インドに大乗仏教が興起しました。

   大乗仏教=在家信者の独自な宗教活動・宗教実践
                  によって形成されたもの

 

それ故、大乗仏教徒は、出家者を中心とした既存の

上座部系の仏教(部派仏教)を“小乗仏教”と呼びました。

自分たちの教えこそが“大乗”であって、多くの人を教える、

大きな勝れた乗り物(悟りの彼岸に運ぶ乗り物)だと

印象付けるためです。

  【大乗仏教】
      在家主義
      戒律にこだわらない

  【上座部系の仏教】
      出家中心主義
      戒律至上主義

 

さらに七世紀になると、インドの地に密教が興ります。

この密教は大乗仏教がより民衆化したもので、

民衆が持っている民間信仰や、呪法、儀礼などが仏教の中に

流れ込んだものと見てよいでしょう。

其の意味では、密教は大乗仏教の一環です。


かくて、インドの地には、

―ーー上座部系仏教(小乗仏教)・大乗仏教・密教ーーー

三つの仏教が成立しました。


上座部系仏教→ 東南アジアの各地へ・・・“南方仏教”“南伝仏教”


大乗仏教(密教含む)→中国→日本へ・・・ “北方仏教””北伝仏教”


なお、チベットには、主として密教が伝わっています。

 

 

 『仏教と儒教』 著:ひろ さちや 参照

 

 

釈迦が入滅された時より、200年後に戒律の解釈に関して

仏教教団に分裂が起こったとありましたが、それまでの

200年間は純粋に釈迦の弟子たちが釈迦の教えを広めて

きたのでしょうか?

 

『伝承によると、釈迦が入滅された年に、五百人の弟子たちが

マガダ国の首都の王舎城(ラージャグリハ)の七葉窟に集まって、

第一回経典編纂会議(結集)を開きました。

この五百人は、釈迦の弟子のうち、悟りを開いて阿羅漢(あらかん)

という聖者の位に達していた者たちだけであるとされています。』

 

と書かれているのですが、五百人もいればやはり、釈迦の教えも

それぞれの人の伝え方感じ方などによって、さらなる弟子たちへ

の伝わり方感じ方も変わっていったところが多々あると思います。

全く同じということはありえないと思うんです。

だから、直属の弟子たちの生存している間は、なんとか統率も

保てていたのでしょう。ところが、やはり時代の流れによる戒律の

解釈の仕方が変わるのは、仕方のないことなんですね。

 

私が宗教というのが、今ひとつ納得できない点がここです。

どの宗教でも同じだと思ってしまうんです。

つまりは、自分自身の心の持ちようによって捉え方が

変化するものだと思っています。

私が、神や仏は人間が作ったものだと断定する所以です。

 

他宗教によるいがみ合い、

戦争、弾圧、虐殺が、全世界歴史上に

どれだけ繰り返されてきたことか・・・

どれだけの血が流されてきたことか・・・

 

宗教にゆだね過ぎることが恐ろしいと思っているのです。

 

ただ、我が家が信じてこられた所の宗派は、

ご先祖様が信じて来られて代々子孫が守って来たもの

だから、ここの宗派のやり方で、

お祀りして差し上げなければならないかな・・・と、

長男の嫁としての責務かな・・・と、

お墓と御仏壇は守って行ってあげねばならないな、と、

そのときが近づいて来てることを、ひしひしと感じつつ、

やっと宗教の勉強をし始めたところです。

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

駅弁

2009年10月17日 17時00分00秒 | お気に入り

 

 

たっぷり 秋野菜弁当

 

さつまいも きのこ など季節の野菜を中心に14種類

1日に必要な量の1/2(180g)を盛り込みました。

とのことで、女性に人気がありそうなメニューでした。

 

 

最近、帰りの新幹線ではやっぱり駅弁を買うことが多いです。

お店の中や街中では観光地以外では、主人が写真を嫌がる

方なのであまり撮らなくなりました。というより、

旅行する回数が減っただけなんでしょうけれどもね。

今では家族個人個人がそれぞれの友人達とで

ちょこっと行くというパターンになってきています。

私の場合は、夜行の高速バスでバスの中で寝て、

次の日は早朝から目一杯楽しむという、

結構ハードな計画!

しかし、楽しいことはそれほど疲れないんですね。

人の旅行話を聞くのと自分が実行するのとでは大違い!

いや~、楽しいのなんのって。。。

自分へのご褒美は必要だな~♪

って最近特に、思うようになってきました。

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Claude Ciari - La Playa 夜霧のしのび逢い

2009年10月14日 17時25分30秒 | 音楽/映画・ドラマ/漫画・アニメ

クロード・チアリ 夜霧のしのび逢い



クロード・チアリさんのギターは

やっぱりいいですね。

「夜霧のしのび逢い 」

懐かしい曲です。

高校時代、

クラッシックギター部だったんですョ。

部のテーマ曲だったんです。

代々、口頭で伝わって来たものだったんです。

 

私は・・・というと、

短い指ながらもコードを押さえるのが得意で、

音が出る方だったんで、

Ⅲパートの伴奏ばっかりでした。

若干音感は鈍い方なのに、

教えるのは私の役目でしたね。

独自のコツを見つけるのが早かったんですョ!

 

 

夜霧のしのび逢い Claude Ciari(La Playa)

 

 ちょうど、この動画のような感じの伴奏でしたね。

メロディーを一度でもいいから引きたかったんですが、

引ける順からⅢパートに回されたので叶わずじまい。

 

もう今じゃあ、まったく引けません!

でも、何となくは覚えてるんですね。

あ~~、懐かしい曲を見つけてしまいました。

クラブの部長は、

病気で20歳でなくなったんですよ。

一番元気だったのに・・・

 

懐かしいことも、

悲しいことも

思い出してしまいました。

みんな元気に頑張ってるといいな!

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

100日法要

2009年10月11日 22時08分00秒 | 家族

今日は義父の100日法要の日でした。

まず、お寺に着いたら男性達は御墓のお掃除。

女性達は用意していたお供えもの(器に盛れるだけの果物や

菓子類と3種類の箱もの)と、位牌、骨壺2種をそれぞれ準備

して、祭壇において頂きました。少し早く着いたので、

準備のあと時間まで待たせて頂き、のんびりできました。

 

普段は御墓に直行で、お寺内に上がらせていただくことは、滅多に

ないのですが、今日は祀殿内をじっくり観察させていただきました。

今年予定の回忌法要の方々の戒名の下に、追悼される方の氏名

が向って右上部壁面に貼りだしてあり、左側には永代供養または

お墓使用料の寄付額が個別に貼りだしてありました。

回忌法要の中には、100回忌予定の方が4人もおられました。

たぶん代々続く大家族の家の方なのでしょうね。

50回忌法要をできれば素晴らしいものだと思っていましたが、

長く続けられるお家もあるんだなと感心しました。

 

中央には大きな仏様のご仏像。

左には仁王様のようなお顔をされたご仏像。

右側にはお坊様のようなご仏像。

まだ勉強したてで間がないので、お名前も何も知りませんが、

解った時点で追加記入していこうと思っています。

そして十二面観音という提灯が表に掲げてあったので、

お探ししたところ、左右に小仏像が数体・・・

叔父様曰く、「いや、30体以上あるから違うか・・・」(笑)

何処にいらっしゃるかと思ったのですが、結局解らずじまい。

そのうち少しづつ調べていくとしましょう。

案外、親戚の方も知らないようでした。

 

そして、お墓の方へ移動して、納骨。。。

遺骨を白い布で自分で作った袋に入れて納めていました。

祖父母の二体の遺骨が骨壺ごと納められていたので、

早く土へと帰れるように布に包んで納め直しました。

じかに直接ばらまくところもあるようです。

昔は骨壺ごと納めていたんだなあと、宗派が違うけれど、

実家の母のときと同じだなと思い出しました。

骨壺の中に綺麗なお水が入っていたのには驚きましたね。

何十年もたっていたのに綺麗だったんです!

ふしぎでしたね~!

 

そして、終わってからみんなで会食へ行きました。

義母は、お父さんのお陰でみんなと楽しく食事できることを

とても喜んでいました。

いつも最後になるかもしれないからというのが、癖になったようです。

その時その時を大事にしているからこそ出てくる言葉なのでしょう。

とにかく、無事に済んでほっとしました。

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リンク