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さあ~てと 帯しめましょか。

人生、山あり谷あり
向かうはわが身の置き場所よ。
帯締め、気を染め、往きましょか・・・  ~part 2~   

御訪問者の皆様へ

ようこそ、いらっしゃいました♪ いつも御訪問頂きありがとうございます。 訳あってコメント欄閉じていますので、《おしゃべり広場》は閲覧のみとなっております。 本年もよろしくお願いします。

      

女房詞 (にょうぼうことば)

2013年03月15日 16時22分00秒 | 本・言葉・古文書/草書 

斎宮の女御
「いづつやの文化記号」様HPは→こちら 
元画像についての説明がなされています。
このような高貴な方にお仕えしたのが女房と呼ばれる。


≪女房≫
・ニュウボウ(にうばう)と訛る。
・その宮廷・家によって少しづつ違う。

・男房の対。
・神・地位の高い人に仕えた、庶民が近づけない女性が済む部屋の原義。

≪女房宣≫
☆古い役目は、後世の御歌会・歌合せなどに、主人の意思・作品を女房が
  庶民に伝達したことの古い形で、列坐の者達を予祝いしたことになる。

≪女房詞ができた理由≫
・内親王やその他の方々は、その家の祖神に仕えることが一番重要な仕事。
    天皇の御子は、祖先神(天照大神・伊牂諾尊・伊牂冉尊)に
    仕えることが原則で、人間に嫁がないものだというような
    書き方が、「源氏物語」にも数箇所ある。
・より期限の古いもの・・・物忌みを厳重に守るための手段としての
               日常語の使用禁止
・斎宮・大嘗祭の特別な語として、神には使ってはいけないという語(隠語・
    忌み詞)が「延喜式」に定めてある。平安朝の文芸にはよくでてくるが、
    忌み祭文は伝統があるので歴史はもう少し古いと思われる。

 

・だんだんと仕える女房たちからそのほかへ
        ↓
・その時代の社会秘密や特権意識に支えられ拡がってゆく
        ↓
・次第に女の普通の語と為って来る
    例) 「モジ言葉」・・・シャモジ(杓子)
                スモジ(寿司)
                カモジ(髢)
        ↓                
・普通語傾向の文字が通常語へと変化し、物語文章となる。

≪女房文学≫
☆次第に、局―割部屋―が設けられるのにつれて、その神聖感は
  失われたが、その職務の上からいわゆる女房文学を育て、作家
  であると同時に読者でもあった特殊な感情を残した。
『源氏物語』・少女の帖
  「女房の曹司町(ざうしまち)ども、あてあてのこまげぞ
   
大方の事よりもめでたかりける」
  ~侍女達の部屋のある一廊などは、小さく仕切ってそれぞれに
    割り当ててある部屋なのがなかでも結構であった~


☆身分のある者の邸に仕える女達も、宮中同様年中行事に仕え、粥杖で
  尻を打つと妊娠すると信じていた。
『枕草子』・三段

  「粥の木ひきかくして、家の御達(ごたち)・女房などのうかがふを、
   打たれじと用意して、常にうしろを心づかひしたるけしきもをかし」
  ~粥掻き棒をうしろに隠し持って、その家の老女や「女達」が打とう
    として狙うのを、外の女達が打たれまいと用心して、いつも後の
    方を用心している様子も面白い~


☆江戸時代には妻・女房家主・いはうじ・いわらじ・主婦などの生活に
  定着してくる。
『源氏物語』・夕顔の帖
  「伊予介、神無月の朔日頃に下る。女房の下らむにとて、
   手向心殊にせさせ給ふ
  
  ~伊予介は十月の初旬頃任国へ下ることになった。今度は「妻」も
    同伴する由だから、と光源氏は表向にも手厚い餞別を贈られた~

 

 

obiログ過去記事、参考にどうぞ→「御所ことば」(2009.5.26 記)

obiログ過去記事、こちらもどうぞ→「御所ことばのさま」(2009.5.26 記)


 

  『日本民族語大辞典』文学博士石上堅:著(桜楓社)参照

 

            

 

女性はいかにおしゃべりが好きかが歴史上によく現れている気がしますね。

現代人だってギャル語なんてあるし、ちなみに次のサイトの

http://matome.naver.jp/odai/2132452129616023701

↑↑ 「2012年版 女子高生が使ってる“ギャル語”まとめ」

ぜ~~んぜん、わかりませ~ん!


これじゃあ、うかつに 

「ウーロンチャ、飲みた~い!」

なんていわれへんやん!!!

 

 

 

≪リンク集≫

「源氏物語解釈と後宮文化の異文化コンテクト」pdfこちら
              高橋亨(名古屋大学)様  
   世界の後宮と日本の後宮の違い、日本のひらがな文化の女性文学
      と
世界の男性社会主体の文学の違いなど研究論文で面白いです。

「文字詞について(Ⅱ) 近世語研究(その二)」pdf→こちら
              深井一郎(金沢大学)様

「不思議な文字詞」こちら
     


 

 

 

 

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古文書 ☆ 候う・侍う(さぶろう)

2013年01月24日 23時51分00秒 | 本・言葉・古文書/草書 

samraj チベット語 samlarjas】

 サムライといい、王者・武士を意味する。

 

稲水(いなひ)命は「古事記」によっても、
海に入り鉏持(さひもち)命になったとある。

これらのサム・サヒは、剣・刀の義で、それを持っている者のことになる。

「さぶ」・・・「覚む・醒む」に関連する内容を含む語

「さぶろう」・・・「伽」の本義に通じるもの
         そのもののそばにくっついていて邪霊が犯さぬように
         心配りをし、
命令に応じてどんな呪法でも、作法でも
         行える態勢をとっていることをいう。
         自然と敬語・丁重な味がつきまとう。

 

☆「紫式部日記」
    「よゐの僧のさぶらふ御屏風をおしあけて、
     
この世にはかうめでたきことまだえ見じと言ひりし」

    夜中護身役として勤める僧が同候しておられる御屏風を開けて、
    「この世でこんなに立派なものはご覧になったことがありますまい」

☆新潟県東蒲原郡地域
    毎年付きまといやってくる台風を、藁人形であらわし、
    「サブロウドノ」と呼び、6月27日に村はずれで各家から
    子供も大人も出て、コウセン(麦こがし)を供えて祭るのも
    邪霊除却の心からの態勢が感じられる。


≪男文と女文≫

この「候」の多くなってきたのは流行の一つで、
古いもの・正統のものほど少ない。

「女文」の流行につれて――
  男名であっても女房宣(女房が書いたもの)は、「さぶろう」を
  語尾に洒落・気分的につけたのを、男子がマネをし増してきて、
  軽い対話的な味を感じさせた。

  元来、気張った古風な堅さが、「そろ」といいたくなる慣れ親しむ
  消息文・会話体―口語体の砕けたものに変わったのである。

その一方には、
  「御座り奉る」式の男文が固い文語体の候文になったのが、
  往来文の「候」は剛直な一定の型を作り、女文のは、
  「一筆しめし参らせ候」にはじまり、懸想文も一定の型を、
  やはり律文的な柔軟な味を含めて保っていたのである。

 

 

  『日本民族語大辞典』石上堅:著 参考

 

 

なんと!!

サムライという語も始まりは仏教語からだったのね~、驚きでした!

「候文は日本語ですョ。」と昔、師匠がおっしゃっていました。

なるほどね~♪

男性が想いを寄せる女性に出す恋文にはやはり

優しく聞こえる柔らかい言葉が必要だったのでしょう。

流行るものってやはり今も昔も似てるのですね~♪

 

 

 

 

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草書でお年賀~♪

2012年01月01日 16時41分55秒 | 本・言葉・古文書/草書 

皆々様のご多幸を祈念致します。

本年も何卒宜しくお願い申しあげます。

 

 


(参考書画:三上栖蘭(みかみせいらん)先生)

草書の変体かなでお年賀を書いてみました。

 

 

 

 

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曽根崎心中の由来伝説

2011年11月23日 16時51分45秒 | 本・言葉・古文書/草書 

~教興寺縁結墓~  曽根崎心中の由来

「寺男の恋」

その頃の名代の作者、近松巣林子(そうりんし)は何か珍しいものを、
次の舞台にのせたいと思い、その構想を練るために河内高安にやってきた。
教興寺の浄厳和尚をたずねるためであった。和尚とは古くからの知り合い
だったので、巣林子はいつもこの静かな寺に泊まっては気兼ねなくのんびり
して、浄瑠璃の筋書きを考えるのだった。

「久しぶりにおいでになりましたな。またなにかよいものを書きなさる
おつもりかな」と和尚がにこやかに迎えた。
「お邪魔ではございましょうがまたよろしくお願い致しますよ」
それから二人は茶を飲みながら四方山(よもやま)の世間話をした。
話の合間に巣林子がふと庭を見ると見知らぬ男が落ち葉を掃いている。

「良い寺男が見つかりましたね」と何気なくいうと和尚が声をひそめ
「あの男もかわいそうな者でのう」という。
「それはどういう事情です、差し支えなければ聞かせていただけませんか」
巣林子が身を乗り出したので、話は寺男の身の上話に落ちていった。

「あの男は徳兵衛といい、大阪内本町の木綿屋平野屋久右衛門の手下
でしたが、いたって実直な男で主人に認められ、その家の娘タキの、養子
に迎えられることになっていた。

ところがあるとき、仲間の宴会で誘われて曽根崎の青楼(おちゃや)に行き、
そこのお初という女と馴染んだのが病み付きになり、遂に深い中になって
しまった。そのお初と言う女はこの教興寺の近くに住む宗次という百姓の娘
でしたが、つい先頃宗次が病気になり、これを機会に若い二人がこの里に
駆け落ちをしてきたのです。

しかし、まもなく楼主や平野屋に知れて、追っ手が来るやら二人が死んでも
帰らぬと泣くやらの大騒ぎだった。ようやく私が中に入って、徳兵衛は平野屋
に縁を切ってもらい、この寺で預かることにしました。

お初は前借が済むまで廓で勤めることになり、年季が明けたら夫婦にしてやると
いうことにして、四方八方まるく納めたというわけですが、・・・いや、はや、若い者
にはありがちな話ですわい。」

和尚は問わず語りに一部始終を話してくれた。
巣林子はこの話を聞いて良いタネができたと心中ひそかに喜んだ。
その夜から一室に籠り、この話をもとに、脚色して「曽根崎心中」の
一編を書き上げたという。                
 

※近松巣林子(そうりんし)=近松門左衛門

 

≪面白いサイト紹介≫

☆ネットミュージアム兵庫文学館→近松門左衛門
 ≪さあ、近松の世界へ!芝居の世界へ!≫
 バーチャル芝居小屋体験」などもあってかなり楽しめます。

☆「曽根崎心中」参考HP→近松つぁん「曽根崎心中」大当たり
  お初天神のお写真とともに浄瑠璃のことがよくわかります。

 

「江戸の心中の話」は過去のobiログ記事参照してね。
              ↓↓
『大江戸番付けづくし おしへ草 娘かゞみ』(2010.10.21)

 

 

伝説と稗史 上方篇(北河内・中河内・南河内)
伝説民話文学研究編 より

   

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私の好きな言葉~頑張る~

2011年11月12日 16時21分00秒 | 本・言葉・古文書/草書 

obiログ11月12日の記事参照にしてね→ 「頑張る」に込められた言葉

「頑張る」は「眼張る」からの転意、もともとは、
眼を付けてその場を見張る(転じて動かない)、
かっと眼を張る(転じて精一杯つとめる)という意味だったそうだ。

私は、頑張るという言葉が大好きだ。

しかし、ネットをしだしてから頑張るって言葉が嫌いな人が多いって知った。
この間の大阪マラソンで「頑張れ~!」の応援、声援が多くて物凄く力
になったと芸能人や一般の参加者たちが言っていたのを聞いた。
やっぱり眼を見開いて精一杯気張らなきゃあなんないときもあるさっ。

なにかしら想いを込めて一所懸命走るマラソンランナーに、
しかも一番しんどくなる後半なんかにゃあ、
「頑張らなくていい、努力しろ!」
「リラックスで行こうね~!」
なんて声援送れないもん。。。

「ファイト!」なんて英語だって私にとっては「頑張れ」っていう
意味で使ってる。頑張れっていう英語はないらしいけど・・
変わりに使える言葉だって習ったと思う。

私の頑張るって、命の根源、
細胞から全てのものにまで考えてるから、子供たちにも

「自分が頑張ってなくても、どんな時でも、寝ている時でさえ、
自分の身体の隅々の細胞たちが生きろ生きろって、
頭のてっぺんから爪先まで血を栄養を酸素を送ってくれてるんだよ。
だから、結局は頑張ってるってことになるんだよ。
それこそ、一生涯休みなく動いてくれてるのよ、凄いよね、
人間って、生物って、命って、ホント凄いね~!」

そんな言い方してた。
だからうちの家族はホンノちょっと気を張る時にでも
たとえば勉強する時、剣道の時にでも頑張ろうってよく使ってきた。
うちでは、ガンバルはほんのちょっとって言う意味が含まれている。
後は楽しむこと、楽しけりゃ頑張ってるって薄くなるもんね。

けど、ぜんぜ~ん頑張っていないなんて言わせない!
身体の細胞は動か(眼張ら)なくなったら死んじゃうからね。



 

だからさ、覚悟ができたというあなたにも

「今は、頑張るしかないね。
      後で後悔しないように闘うしかないよ。。。」

としか言えなかったんだ。
人には何とでも言える、それが本当にわかったって!
そうその通りだけど、ほかにかける言葉がみつからなかったのよ。

また痛みを伴ってるってきいたし、医者からさじを投げられたような
言い方だったから、ガンは友達と思えという言葉も使えなかった。

病気で闘ってる人に言える言葉かっていう人もいるだろうけど、
私の気持ちを痛いほど知ってるあなただから、
昔、「頑張るって言葉は平気。」といったあなただから、
「頑張って欲しい」って言っちゃったよ。

ただし、
病気の場合、特に今のあなたには楽しむではなくて、
希望を持つための頑張りにしてくださいね。
あなたの細胞たちの頑張りに少しづつ手を貸してあげてほしい。

あきらめないで!
あきらめないで、頑張ってね!

細胞たちが動いている限り
あなたも頑張ることができるんだから、
奇跡だって自分の頑張りが起こすものなのだから。。。

 

 

 

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「頑張る」に込められた言葉

2011年11月12日 15時25分00秒 | 本・言葉・古文書/草書 

☆『日本語源広辞典』  著:増井金典

   語源は、「眼+張る」です。頑張るは当て字。広辞苑は
   「我に張る」語源説ですが、これは語源俗解で、正しくはありません。
   「眼張る」は、かっと眼をむいて、能力一杯につとめる意です。
   「――張る」を語源とする言葉は、気張る、威張るなどがあり、
   庶民の生活の中から生まれた言葉のようです。 

参考【努力】・・・中国語で「努(つとめる)+力」が語源。
          力をつくす、骨おる、励む、意です。

☆『広辞苑』 第六版  岩波書房

 【眼張る】 
   目をつける。見張る。

 【頑張る】 
    (「頑張る」は)当て字。「我に張る」の転)
   ①我意を張り通す。
   ②どこまでも忍耐して努力する。ある場所を占めて動かない。

参考【努力】・・・目標実現のため、心身を労してつとめること。
          ほねをおること。
参考【ほねをおる】・・・精を出して働く。
              物事をなしとげるために苦労すること。

☆『古語大辞典』 小学館  編集:中田祝夫、和田利政、北原保雄

 【眼張る】
   眼をつける。見張る。注目する。
≪語誌≫
   江戸中期から幕末まで、数多く用いられている。
   字義通り、眼を付け、見張る意で、今日の「頑張る」はその転義。
   なお、これより以前に、我(が)を張る者の意で「我に張りもの」
   という語があったが、中期以後は現れない。
   〔参考文献〕
     ①穎原退蔵 ②江戸時代語の研究 ④穎原退蔵・著作集・第一六巻
     ⑤中央公論社 ⑥昭和55年1月
   

☆『語源大辞典』 東京堂出版  編集:堀井令以知

 ガンバル【頑張る】
   努力して遣り通す。ガンバルは、どのような困難にも打ち勝って努力
   する事であり、耐え忍んで物事をやりとおす意味で日常よく用いる。
   ガンバルは、「眼(がん)張る」からでたと考える説がある。
   「眼張る」は、もとは、目を付ける、見張る意味であった。それから、
   ガンバルは、一定の場所にじっとして動かない意味で使われた。
   どこまでも片意地を張って、主張を曲げないと「なかなか、がんばって
   ますな」と冷やかす人もいる。我(が)を張ることもガンバルである。
   そこで、「我張る」からガンバルになったという説も出てくる。

   東北では、ガンバルをケッパルという。気力がみなぎった状態を
   ギンバルというところもある。これらは「張る」を含む語構成で、精出して
   努力する意のキバルと結びつく語である。キバルは「気張る」からで、
   もとは息をつめてりきむことであった。
   東北で意地を張るをジョッパリというのも、「張る」を含む構成で、
   「情張り」から出ている。

 参考【努力】・・・中国語で「努(つとめる)+力」が語源。
          力をつくす、骨おる、励む、意。

 参考【チカラ〈力〉】
    ・・・外に現れる働き、作用。
      今言う力と正確に意味が一致していたかどうか。

      税は古代日本語ではチカラと言った。
      律令制の頃、税を司る主税寮は、チカラノツカサともいい、
      労役の代わりに納める米や布をチカラシロといった。
      かつては朝廷に納める米はオホチカラと呼んだ。
      チカラ(税)は常に物を供えられる側に力を与え、勢力を養い
      強めるものである。律令制時代、税として納める稲は
      チカラシネといった。稲など納める倉はチカラグラであった。
      税のチカラは、力持ちの力という語と同系に違いない。
      力餅は、食べると力がつくという餅のことで、この餅を食べると
      力が出ると言う。税のチカラも国の活動力になるべきものの意。


 

ここからは私が思うことなんだけれど、もともとは
「皆がちゃんと仕事をしてるかどうか、眼を張ってしっかり見張りをしろよ!」
なんて使い方をしていたのだろう。
仕事としてはそういうことが多かったからと思う。

お上は役人共を見張り、役人共は町人共を見張り、
農村では5人組の組長だけでなく全員がそれぞれを見張り
(ひとり抜けると自分にお咎めかかってくるから)、そんなことから、
ねぎらいの言葉として「お、ご苦労さん、しっかり眼張れよ!」
なあんて普通によく使われる言葉になったのだろう。

昔は、今のように当用漢字など決まりのない時代が続いていた。
なので古文書では、多くの当て字が見られるのも特徴だ。
同じページの中で同じ言葉なのに、よく違う漢字が使われることが多い。
間違いのときもあるが、相手(身分など)によって使う漢字が変わったり、
その人の好みその時の雰囲気で使うなんてこともあるようだ。

しかし、今は「頑張る」と当て字の方に軍配があがってしまった。
たぶん、お上からの重圧感、たとえば農村などでは、
「頑(かたく)なに何が何でも見逃すなよ!」的な意味を込めた?か、
或いは職人って妥協を許さない頑固な人が多いから、そんな意味をも
込めて、「頑」のほうがよく使われだしたのではないだろうか。


 

ちなみに「努」も「力」もチカラを含んでいる。
これはチカラをあらわすのだそうだ。
つまり一番の労力を必要とする辛い作業を含む農業をあらわすという。

米作りは昔は腰をずーっと曲げてする田植えが一番辛かった。
「努」には「女」を含む。女性は農家にとって絶対必要だった。
田植えには「早乙女」はなくてはならぬ存在(労力)だったのだ。
今は機械があるから随分楽にはなっているが、それ以外でも気が
遠くなるほどの作業がある。そういう労力のことをチカラというのだ。

だから、努力という文字はあまり好きじゃあないのよね。
とっても辛そうに感じちゃう。

それからもうひとつ、
だから、私は米作りをしている人を尊敬するのです。

 

 

 

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大江戸番付けづくし≪おしへ草 娘かヾみ≫

2010年10月21日 12時50分00秒 | 本・言葉・古文書/草書 

 大江戸番付けづくし    (著者:石川英輔)

参考に→ 
江戸時代の相撲見立番付(山陰中央新報 2009.12.28)


江戸時代の人々は特に相撲好きだったという。
その番付表をまねた様々なランク表が古文書として残っている。

江戸時代にはたてまえは厳しいが、実際は自主規制、というより
見立て番付ぐらいは放任主義だったようだ。
大部分が勝手に印刷して売っていたようだ。

明治になっても番付見立ては発行され続けたらしく、文字・体裁・
内容とも幕末期の番付のままで、刊行年の表示がなければ区別
することができないものもあるようで、変体仮名による木版摺りは
明治20年ごろまでは発行されていたという。
明治時代になると、次第に近代的官僚制度ができて許認可などが
厳重になり、チラシのような印刷物まで「御届」が必要になったようで、
ガチガチの規制時代が始まっていたのである。

もしかすると江戸番付けと書かれているものの中には、明治初期
のものも多く含まれているかもしれないと思った。





  【その一つの例】

番付けタイトル―― 『おしへ草 娘かヾみ』
左欄外――「御届 明治十七年十一月廿四日 
        編輯出版人 神田通新石町九番地 木村定五郎」
上欄外――「悪 酉の春新撰 善」
         発行時(明治18年は酉年)  
         右(東方)に〇の中に善、左(西方)〇の中に悪の字

  ※教(おしへ)草・・・教材
  ※鑑(かヾみ)・・・・・模範や手本の意味

タイトル下の行司欄(右)――「こうのひとつ 親の為に身を賣る娘」
タイトル下の行司欄(中)――「よかれあしかれ 親の身代を立て直す娘」
タイトル下の行司欄(左)――「ふこうのずい 色情で命を捨てる娘」

タイトル下の2段目(右)――「心だて素直な娘」
タイトル下の2段目(中)――「遊藝(ゆげい)を好む娘」
タイトル下の2段目(左)――「我ままな娘」

タイトル下の3段目(右)――「善 箱入り娘」
タイトル下の3段目(中)――「悪 他人のおへになる娘」
タイトル下の3段目(左)――「其 おてんば娘」

右側(善)・・・「おなごのたしなみ 針仕事の好きな娘」
         「一しやうの得 読書のできる娘」
         「かないぶじ 継母を大切にする娘」
         「みやうにかなふ ミへかざりをせぬ娘」
         「たのもしい 兄弟おもひの娘」
         「やさしいこころざし 年寄りをいたわる娘」
                   ・
                   ・
         うちきな、口慎しみよい、しんぼう強い、等々
           
左側(悪)・・・「とんでもない 親へ悪口する娘」
           「おやへくらうをかける 尻っぱやな娘」
         「おなごのミちがたたぬ 針仕事を忌ふ娘」
         「ろくなことはしでかさず 夜あるきを為(す)る娘」
         「つつしまねばならぬ けんどんな娘」
         「おんぎをしらず 親兄弟を見捨てる娘」   
                   ・
                   ・
         いじの悪い、いけ好かない、大食をする、等々


今じゃあ身売り自体憲法違反だから考えられないだろうけど、
昔は孝行の一つで、身代を立て直すほどの気の強い娘は、
善い娘さんだけど息子の嫁にはちょっと~、って感じかな?

未婚娘の品定め番付らしいが、内容は特に女性に要求すべき
ことに限らず、人間一般が心がけるべき言葉ばかりである。
わりと恋愛が大らかだった江戸時代の道徳よりも封建的で、
男でも当てはまることも多いのに・・・と、今なら女性差別
となる番付ばかりだぁ~って、女性側からの文句が出そう。






≪江戸時代、大流行の心中≫

江戸の心中は近松門左衛門が書いた道頓堀の竹本座の立て直し
のための苦肉の策だったのかもしれない『曽根崎心中』で大流行。
その後の近松の心中物全てが大流行、心中そのもさえ流行った。

その為、享保7年(1722)に、当時編纂中だった幕府の
処罰規定が、「公事方御定書」に盛り込まれ、翌年お触書を出した


≪心中後の厳しい処罰≫

二人とも死んだ場合・・・裸にして晒され、そのまま取り捨て。
                 (寛政五年(1793)、晒されている女性のちょっと
                  えっちな話題で見物人が殺到するという見世物
                  騒ぎがあり、裸はやめたらしい)
二人とも生き残った場合・・・三日間晒したうえ、身分に。
片方が生き残った場合・・・死罪。
生き残ったのが主人の場合・・・主人はへ。
生き残ったのが奉公人の場合・・・死罪。





『大江戸番付づくし』 石川英輔著:参照
週刊江戸38 心中事件の流行』(株)デアゴスティ-ニ・ジャパン:参照





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「生きざまが好き」は間違い?

2010年09月17日 19時22分22秒 | 本・言葉・古文書/草書 

「生き様」

「あの人の生き様って素敵よね~。」
「先生の生き様に憧れます。」
「男の生き様」




なあんてよく普段よく耳にしている気がします。
しかし、これは実は失礼な言い方で、
間違っているのだそうです。


「ザマ(様)」という言葉は相手の様子や有り様を
バカにしたり、あざけたりする時に使う言葉。


そういや~、
ケンカして侮蔑の意味で、「ざまあみろ」
相手を見下だして、「なんというザマだ」
戒めを込めて、「あの死に様をよく見ておけよ」
ってのもよく言われますね。


「死に様」から「生き様」って言葉もでてきたようですが、
自分で自分の生き方を自嘲して言うのが本来の使い方。

「つまらない生き様をさらして」

というのが正しい使い方。

従って、 「立派な生き様」なんてあり得ない。
その人の生き方を評価したり賛美したりする
表現の使い方は間違いだそうです。

プラスとマイナスを取り違えているんだそうです。


誤:「立派な生き様」
 ↓
正:「立派な生き方」





『常識以前の日本語』 本郷陽二著:参照




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くずし字が読める本

2010年07月28日 12時06分00秒 | 本・言葉・古文書/草書 

『入門 日本語のくずし字が読める本』
                著者: 角田恵理子
                発行年月日:2010/03/03

さっき、ネットで買った本が届きました!

この間図書館で見つけた本に惚れ込んでしまいました。
今週返す分は誰かが予約を入れていない限り、また2週間
毎に借りるという形をとれば、いつまでも借りれるんだけどね。

続き字になるとなかなか文字の区別がつかなくて、
ただでさえ似た字が多い古文書文字!
筆の運びを見る必要があるなと思っていたところ、今年3月
にでたこの本に出会い、とうとう買ってしまいました。

この手の本は本屋さんにはなかなか置いていません。
その点、ネットでは殆どの本が見つかりますね。
しかし、買うにも中身を覗けないとちょっと買いにくいです。
最近はネットでも覗けたりできるものもあるみたいだけど、
やっぱり手に持って実物を見るのが一番いいなあ。
図書館って新しいものも結構あるんだと見直しました。

                

 皆御存知之歌也

 写経不被成

 写本ニ而候

私義只今勉強中ニ而御座候







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江漢の「東海道五十三次」

2010年06月30日 22時03分33秒 | 本・言葉・古文書/草書 

広重「東海道五十三次」の秘密  
對中如雲(たいなかじょうん)著
(1995年刊)


歌川広重
の「東海道五十三次」は昔、永谷園のお茶漬け海苔に入っていた
五十三次カードの端の三角の応募券を(15枚だったかなあ)集めて、
3回ぐらいもらったことがある。私たちのころは確か、安藤広重と習っていた
と思うが、安藤の名は使ってなく、歌川広重の方が正確らしい。


最近、古文書がらみで浮世絵の絵が載ってる本や資料を探していたところ、
司馬江漢の洋風画をモデルにしたものとの説があるらしいとの本を見つけた。
これに対してのTV番組もあったらしく、
「江漢作と称する画帖そのものが、後世たぶん昭和以降に描かれた贋作」
とまで断言しているサイトもあった。(いつの記ものか不明)

しかし、其の後のものらしいサイトがあった。





江漢/広重東海道五十三次の研究
2004年/06月版

原文資料  江漢の冨士論、写真論

~より以下抜粋~

○画の妙とする処は、見ざるものを直に見る事にて、画はそのものを
これを見んとするに画にあらざれば、見る事能わず。
・・ただ筆意筆法のみにて冨士に似ざれば、真に写し画の妙とする事なし

之を写真するの法は蘭画なり。蘭画というは、吾日本唐画の如く、
筆法、筆意、筆勢という事なし。ただそのものを。

山水はその地を踏むが如くする法にて・・真に写さざれば,画の妙用とする処なし
富士山は他国になき山なり。
写真鏡という器有り
之をもって万物を写す、故にかって不見物を描く法なし。
唐画の如く。無名の山水を写す事なし。



【写真鏡(ドンケルカーモル)について】

1813年6月12日 山領主馬あて書簡
この度和蘭奇巧の書を京都三条通りの小路西に入、吉田新兵衛板元にて出来申し候、
その中へ日本勝景色富士皆蘭法の写真の法にて描き申し候、日本始まりて無き画法なり。



江漢の引退事情 (江漢後悔記)

準備が進んでいた「和蘭奇巧」の出版の話が消えてなくなった。
江漢の人気が急落し、出版しても売れないと版元が判断したのであろう。
和蘭奇巧の挿し絵用として用意していた「和蘭写真の法」(写真鏡)による
日本勝景の原画が転用され、洋画に描き直されて
この53次画集になったのである。






まえがき
で問題提起された

①広重は東海道を旅行したのか  
②再刻版や異刷りが多い。   
③東海道名所図会からの借り物が多い。etc
などよく研究されたものだなあと感心しました。

まだ、すべて見終わったわけではないけれど、とても面白かったです。
結局は歴史もだけど、
こういう芸術作品などの見分けはどんなに調べて研究しても、
今日現存する資料に基づいたもので
あって、また新たなものが出てくれば変る事実
あるかも知れないと言うことだけは確かなことでしょう。







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コメント (2)
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