イスラエルの民が荒野の旅にうんざりして、モーセに不平をぶつけた時、神は怒って炎の蛇を送り、民はかまれて多くの死者が出た(4-6節)。民が恐れてモーセに助けを求めたところ、神はモーセに炎の蛇を作り竿の先に掲げるように、民はそれを見上げれば命を得る、と言う。
これは、ただ見上げるだけで救われるのだから、易しい指示に従う謙遜で素直な態度が大切である、また将来キリストが十字架にかけられることの予型であった、と教えられてきた。私はそれにしても、なぜ蛇なのかという思いが消えなかった。
この度、山我哲雄「民数記」(岩波書店、2001年)の脚注を読んで、この場面の背景が理解できたように思った。「害をもたらしたものとよく似たものを用いてその害を祓うという、共感呪術的発想が背景にある」という。他の例として、サム上6:4-5が参照としてあげてある。
この術語はsympathetic magicの訳で、類感呪術とも呼ばれ卑近な事例をあげれば、ヒトガタの人形に釘や針を刺すことで、それが象徴する人に危害が及ぶようにと考える( or気を紛らす?)、またテルテル坊主も太陽を表す素朴な人形をつるして晴天という結果を呼んでいる。専門家は「類似の法則」、「共感の法則」が背後に働いている、と言う。青銅の蛇の場合は、被った害が消えるようにという方向であるが、同じような法則が背景に潜んでいるのであろう。(現代人でもヒーローと握手した手はそのままにしておきたいとか、その人の着衣や帽子などを身近においてオーラにあやかりたいというのは上の法則の延長線上にあるのであろう。)
参考 山我哲雄、鈴木佳秀訳「民数記 申命記」旧約聖書III 岩波書店 2001年
csed.osaka-u.ac.jp 池田光穂
James Fraser 「金枝篇」
WHO(国際保健機関)のマークにモーセの蛇が使われています。しかしWHOってIEAE(国際原子力機関)に従属している組織なので放射線被害については何も活動できないようです。モーセもがっかりしているでしょうね。
それは「アスクレピオスの杖」じゃないですか?
聖書じゃなくて、ギリシャ神話が由来じゃないでしょうか?
なるほど意訳の方が正しい映像が浮かぶ気がします。
民数記久しぶりに読みました。
出エジプトした民の不平はもっともで劣悪を極める旅で腹わ減る。水もない。
そのうえ毒蛇に噛まれて死者がでたのではかないませんね。
>9モーセは青銅で一つのへびを造り、それをさおの上に掛けて置いた。すべてへびにかまれた者はその青銅のへびを仰いで見て生きた。
信仰の力は凄い。プラシーボ効果なのでしょうが一心不乱に純粋に信じることは体の抵抗力を増します。
もちろん史実は信仰ある人々も毒蛇に噛まれて死んだのでしょうが、死後復活して生きる。とされたのでしょうね。
抗体が出来て死ななくなっただろうし、噛まれないように対策しただろうし。
忌み嫌われる存在が神的正義の味方になるのは昔からなんですね。
黄金バットとかスパイダーマンとか。
ふと思ったのですがこのエピソード、バクリ・・・ごほん、影響を受けて取り込まれたものじゃないですかね?
「カナン人が行っていた多産信仰とは多産の女神であるアシラとその相手であるバアル神を崇拝する信仰のことである。バアル神とアシラ女神の性交によって肥沃、豊饒、多産をもたらす力が与えられるというもので、多産の活動は神殿における売春という一つの儀式によっていっそう刺激されるものと信じられていた。申命記23/17,18をみると神殿娼婦、男娼たちは売春を行ってお金を稼ぐことにより、神々への献身ぶりを示した。エジプトで出土した飾り板に両手に蛇を持っているアシラ女神が描かれているものがあり、蛇とアシラ女神とは深い関連がある。
」
http://www.ijournal.org/IsraelTimes/history/katsurei.htm
https://blog.goo.ne.jp/yoriissouno/e/2edb8b80fabd39a5a4b9d6a391ec8a44
「何故って? それはね、簡単々の勘太郎。人の堕落が起こる前は、蛇は足で歩き回っていたんだね。ちょうど鶏みたいに。人を滅ぼそうとの意図に対し罰を受け足を無くすことになったというわけなんです」
”
https://blog.goo.ne.jp/yoriissouno/e/56bcaff10967cd6682cc34e7c69dce83
https://search.yahoo.co.jp/image/search?ei=UTF-8&p=Israeli+saw-scale+viper%2C+echis+coloratus%2C
http://www.johnpratt.com/items/docs/lds/meridian/2000/serpent.html
ただしコブラに噛まれた説が正しいとするなら、普通は青銅の蛇を作る間に全員死亡しているはずなので、モーセの民は自前でそれなりに有効な解毒の医学知識を持っており、科学知識だけに頼ったがために預言者の呼びかけに応じないで死亡した者が多かったとかそういう事情があったのではないかと推測しています。
おお!凄い。
モーセはエジプトの王子でしたし、金属製のコブラのシンボルが神を象徴しているとは自然な考えかも。
>普通は青銅の蛇を作る間に全員死亡しているはず
少しググってみました。
キングコブラでも未治療で致死率60%だとか。
http://karapaia.com/archives/52233021.html
エジプト王の蛇の記章はアスプコブラというそうで、未治療でも半分は生き残ったのではないでしょうか。
もしかしたらモーセはエジプトの蛇形記章をモチーフにして青銅の蛇を作ったか、実は持ち出してきたそれを取り外して掲げたのかも。
ヘブライ人もそれが神を象徴すると知っていた可能性は高いですね。
そこまで話を飛躍させるなら、神が火の蛇を送ったのじゃなくて、民がぶつぶつうるさいので腹に据えかねたモーセがコブラを使って民を苦しめた。
というのが真相では?なんて解釈もアリでしょう。
>エジプト王の蛇の記章はアスプコブラというそうで、未治療でも半分は生き残った
オムナイさんの調査のおかげで、最後の1ピースもはまった感があります。
民数記によれば、民は水のことで神に第一の不平をもらして、モーセに水を出してもらって罪を犯し、その代償で何とか王の心が頑なになって、楽な道が通れなくなって迂回コースを余儀なくさせられ、二度目の不平で旅の進行が停滞してしまったせいで、知らずにコブラの生息地に居留しているうちに致死率50%のコブラに噛まれて多くの者が死んでしまった。
イスラエルの神が懲らしめのために火の蛇を送った、それを癒すためにモーセが掲げたのはエジプトの神だった、ならば聖書のテーマはどこに?
ということです。
聖書のテーマを度外視して、あり得そうな面白い話をするのであれば・・・
モーセはかつてエジプトを放逐され砂漠を渡り遊牧民ミデアン人の中で暮らし妻を娶っています。シナイの砂漠には精通していたのです。イスラエル人は奴隷ですから何も知りません。実際問題としてモーセだけが民を導くことができたのです。
ならばモーセは蛇の多い危険な場所も知っていたでしょう。民の不平にむかついたモーセはあえてそういう場所を進み、民を懲らしめた・・・という推測も可能ですね。
ジークムント・フロイトの「モーセと一神教」なんかを読むと、もっと面白い話がいっぱいありますよ。
あ、私は皆さんにケチをつけたいわけではありませんので、ご理解のほどを。
https://wikivisually.com/lang-ja/wiki/蛇形記章
蛇形記章は、ファラオ以外でも宝飾品あるいはお守りとして使われた。例えば、エジプト第22王朝を創始したシェションク1世に仕えた神官 Djedptahiufankh のミイラの副葬品に蛇形記章があった。
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パロのコブラとモーセの青銅の蛇を結びつける解説は検索しても見当たりませんでした。
もしかして新発見?
出エジプト記でパロと対峙した時も杖を蛇に変えて相手の蛇を飲み込んでいましたし、
>「害をもたらしたものとよく似たものを用いてその害を祓うという、共感呪術的発想が背景にある」
ということなんでしょうね。
ヘブライ語の「青銅」と「蛇」は発音が似ていて韻を踏んでいるらしく、蛇に対峙する象徴の素材としては最適だったようですね。
サタンとキリストはさも似たり的なのでしょうか。
アステカ文明の神ケツァルコアトルは「鳥の羽をもつ蛇」だとか^^;
そもそも、「出エジプト」なる出来事が、実際に有ったのかどうかも疑わしいわけですから、蛇のルーツをたどってみてもね~・・・・。
「乳香を採るのにステュラクスを焚くというのはなぜかといえば、乳香を産する樹はそのどの株にも、形は小さいが色とりどりの有翼の蛇が無数に群がっていてこれを衛っているからで、これはエジプトをを襲う蛇と同類のものであるが、これを樹から追い払うにはステシュラクスの煙をもってする以外に方法がないのである・・・
」https://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/30459210.html?__ysp=44OY44Ot44OJ44OI44K5IOmjm%2BOBtuibhw%3D%3D
また、紀元前7Cのアッシリア王エサルハルドンの遠征記にも飛ぶ蛇の叙述があるんだとか・・・
おっとっととぉぉ・・・漂流王の出番はまだっすね・・・
死の原因である「蛇」の像をモーセが竿にかけて呪ったので、これを信じた者は死に勝利した。
死の原因である罪の像(全人類の罪を引き受けたイエスキリスト)を天父が十字架にかけて、呪ったので、これを信じる者は死を克服して永遠の生命を受けるという約束のひながたと言えるでしょう。
>そもそも、「出エジプト」なる出来事が、
>実際に有ったのかどうかも疑わしいわけですから、
>蛇のルーツをたどってみてもね~・・・・。
身も蓋もないですね(笑)
古代エジプトの歴史には出エジプト記の記述と合致するものは何もないそうです。
それどころか、歴史上初めてイスラエルの名前が記録された石碑として知られる「メルエンプタハの戦勝碑」には『イスラエルを滅ぼした』と記述されているそうですからね。
(参考 http://blog.livedoor.jp/angelofcairo/archives/52470765.html)
旧約聖書の最初の部分(トーラーまたはモーセ5書として知られている部分)は、おそらくバビロン捕囚の頃に、それまでのユダヤ人の伝承をまとめたものだという学説を私は受け入れています。
何をどう信じるかは各人のご自由だと思うのですが、私は旧約聖書の最初の部分のテーマは、イスラエルの神をユダヤ人に思い起こさせることだという認識です。
もっともキリスト教徒にしてみれば、旧約聖書もイエス・キリストを証する書物だとなるのでしょうが、私はそういうこじつけた見方はしたくないのですね。
普通に考えて、キリスト教はユダヤ教から派生したものでしょう。
と、このような理解をしている人間がモルモンの日曜学校で教えているのですから、世の中不思議です。
モルモンの日曜学校の目的は、聖典の理解ではなく、モルモンの教義を何度も繰り返し教えて刷り込むことです。
ですから、モルモン日曜学校のテキストには旧約聖書では、レビ記がすっとばされて出てきません。
そんな事ですので、何十年も出席している会員でも、聖書の流れを理解している人は少ないです。
>旧約聖書の最初の部分(トーラーまたはモーセ5書として知られている部分)は、おそらくバビロン捕囚の頃に、それまでのユダヤ人の伝承をまとめたものだという学説を私は受け入れています。
そうですね、その様な考えの人が教えた方が、生徒も納得がいくと思います。
聖書では、ヨシュアの時代に存在しなかった民族を、ヨシュアが亡ぼしたことに成って居たりしますので、歴史的事実と、教義的な歴史とが一致しないことを、知った方が、学ぶ方も理解しやすいし、納得できると思います。
インスティテュートのテキストでも、民数記の数は翻訳上の間違いだろうって2ページぐらいを割いて説明してますし、誰が考えても分かるような間違いをそのまま教えることは必要無いと思います。
私は、証会で「ジョセフスミスが、新しいキリスト教の教えを現したことを証します」って言ってるんですが、ほとんどどなたも違和感を持って無いようです(笑)
「丸い玉子も切様で四角」って言いますから。
>モルモンの日曜学校の目的は、聖典の理解ではなく、
>モルモンの教義を何度も繰り返し教えて刷り込むことです。
おっしゃる通りです。聖典を教えているのではなく、モルモン教義に合致した個所のみを聖典から都合よく引用して、モルモン教義は正しいと見せかけているだけなんですね。
前々からこれは何とかしなければと思っていたのですが、今年になって教師に召されたのでやれる範囲で精一杯あがきたいと思っています。
>私は、証会で「ジョセフスミスが、新しいキリスト教の教えを
>現したことを証します」って言ってるんですが、
おお、凄いです!
私などは、聖書の記述といっしょに考古学上の見解を紹介つつ、聖書の作者は歴史的整合性をとるように考えて書いてはいませんよと伝えるくらいがせいぜいです。豚さんを見習ってもう一歩進めたいですね。
現状ではモルモンの教義に少しづつ真実を織り交ぜながら話しているんですけれども(笑)さてどこまで続けられるやら・・・しかし、絶対に他のどのワードの日曜学校よりも知的興味に溢れて、楽しく充実した内容にしようと頑張っています。
「真実こそ最良の教材」というのは実にいい言葉だと思います。
実を言いますと、私も、急に日曜学校のレッスンをすることに成りまして、パートタイムですけどね。
18課 ヨシュア記のところです。
レッスンの最初に、黒人霊歌の「ジェリコの戦い」でも流そうかと思って、ネット検索してます(笑)
メインのテーマは、24章14節~15節になると思います。
「・・・ただしわたしとわたしの家は主に仕えます」
「正しい主に仕える」とはどう言う事なのか? を掘り下げてみたいな~って思ってます。
昨日アメリカが大使館をエルサレムに移したと言うタイムリーな事柄も、交えて、「イスラエルの神」についてみんなで考えられたらいいと思っています。
聖書がイスラエル側から見た話を書いていることを指摘して、他の民族が「イスラエルの神を信じなかった」だけで亡ぼされたと言う理不尽な話を、現代の私たちが、どのように理解すればいいのか?
私は、そこから、何故自分はイエス・キリストを信じるのか? と言う事を突き詰めてみたいと思います。
テーマやテキストが有っても、最後は「教師のスピリット」ですからね。
さてどうなるやら・・・。