[日本基督教団出版局、2001年]
末日聖徒は聖書の注解書をあまりというかほとんど読んでいないようである。私はもっと活用してもいいのではないかと思っている。
「餅は餅屋」と言うように、聖書の各書が書かれた時代・文化の背景や原語、神学の面で、執筆者たちは長年の内外の研究成果を凝縮し、一般読者のために解説してくれている。専門家としての役割を果たしてくれているのだ。譬えてみれば、日本の古典文学、源氏物語や徒然草を読むのに、専門家の解説に助けられて読むのと同じである。
何年も前になるが、教会教育部の指導者が大阪を訪ねた時、注解書を読むことについて質問したところ、注解書を読むことに問題はない、活用してよいと勧められた。会員が教会外の書物を敬遠する気持ちは理解できるが、私はJ.E.タルメージも参照しているのを見て、抵抗なく利用し始めた。
ベテランや要職にある人を含めて、多くの末日聖徒が聖書について基本的な知識に欠けている印象を受ける。私が詳しいというわけではないが、福音書が書かれた時期、その順、著者についてなど、そのほかの基本的な事柄についてネット上に数々の疑問が投稿される。ちょっと熱心なキリスト教徒からするとldsは大学生と中学1年生くらいの差があるように思われる。
末日聖徒の信仰を持って一般の注解書を読むことは可能である。比率から言えば大部分は心配なく参考にできる事柄であるし、相違がある部分も末日聖典の知識を基盤において読めば困ることはない。考えてみれば、BYUの宗教担当の教授たちは皆米国の聖書学やキリスト教学を修めて学位を持っていなければ担当できないのである。
[補足] 1)私は昔の口語訳の略解(旧新約)にお世話になった。最近ではインターネットで英文の注解が何種類も読めて重宝している。2)インスティチュートの教科書については、2013.11.11の記事参照。
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中にはインステのテキストの記憶と真逆の解説もあるでしょうし、単なる聖書の解説書も会員にとっては信仰を脅かす禁断の書みたいに見えてしまい(飛鳥テキストは読むくせに)、怯えるようなところもありますから、教会側からのポジティブなアナウンスなり、心のリハビリのようなものが欲しいところですね。
ヨセフの木・ユダの木のところなど、注解書ではLDSの考えはまったく支持できない解釈でしょう。
LDSは注解書の解釈以外にモルモンの解釈も正当なもので聖句には隠された部分が含まれていると考えるのでしょうが、やはり聖書オンリーの世界では、LDSの考えは恣意的な後付けの解釈になってしまいます。
注解書を活用してみると聖書を正しくとらえられると思うのですが、結局はLDSの教義を侵さない部分だけしか受け入れることができないでしょうね。
それであっても今以上に深いことを学べると思います。
末日聖徒にとって一番致命的な部分はクリスチャンであると標榜しても聖書を正しくとらえていないというところだと思います。
それは注解書をあまり参考としていないところに起因するのではないでしょうか?
まずは一般的な聖書の捉え方を知ったうえで教義や解釈を打ちたてていかないとユダヤ史のレールから外れたものになってしまう気がします。
ということなのかもしれません。
相手側が、聖書はこう書いてあるのに、モルモン書はこう書いてあり、従って彼らは反聖書的であるの一つ覚えの戦略を使い、モルモン側は証だけやっておしまいでは、論争はないでしょうが、誤解を解く機会も来ないように思います。
過去にそれを良しとした時代があったからと言って、この先いつまでもそれで良い保障にはならないでしょうから、誠実に同意、反論する材料として、この手の注釈書を読むのは有益かもわからないです。
最後の行
わあらない → わからない
の訂正でした。
ここ便利です。
文語訳、口語訳など併記してあります。