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日曜学校30課で教義と聖約127, 128章が読書課題に入っているが、その時代背景を記した資料がなかなか見つからない。この二つの章は珍しく書簡の形を取っており、いずれも死者のバプテスマについて述べている。

スミスは自分が置かれた境遇について、ただ127:1節にミズーリ州とこの州(イリノイ州)のわが敵が何らの正義も理由もなく私を告発し、捕えようと追っている、と述べているだけである。前書きにも教師用手引きにもそれ以上の説明がない。

これは、以前モルモン教徒撲滅令を発令したミズーリ州ボッグズ元知事が1842年5月6日ミズーリ州ジャクソン郡の自宅で何者かに狙撃され傷を負ったことに端を発する。当初嫌疑は州議会選挙の政敵に向けられていたが、後にイリノイ州の反モルモンがスミスが疑わしい(暗殺者を差し向けた)という噂を流したので容疑がスミス自身に向けられることになった。クインシーの新聞はスミスが以前、ボッグズが非業の死を遂げる、と予言していた、と掲載した。スミスはそのようなことはない、と編集長に手紙を書いたが、噂が消えることはなかった。元知事の故に流浪を余儀なくされたと感じる末日聖徒の不快感が強ければ強いほど、嫌疑が末日聖徒側に向かうわけで、状況証拠は教徒側に不利であった。ジョセフ・スミスは身柄が拘束されミズーリ側に引き渡されると死を免れないと知っていたので、西に逃れ身を隠したのであった。

身を隠した期間は8月上旬から3カ月で、12月に入って漸く戻ったり隠れたりの生活が終わっている。

古い資料*には言及されているが、それを持たない人にとっては事情を片側からだけ説明されても全体像が分からない。 拙著「モルモン教をどう見るか」を執筆する際には、教会史、特に初期の移動が多かった時期については複数の英文資料に当たり、一体何があったのかを知った上で記述にかからなければならないので大変苦労した。

* 古い資料 
ウィリアム・E・ベレット「回復された教会 末日聖徒イエス・キリスト教会の発展と教えの歴史」末日聖徒イエス・キリスト教会 東京ディストリビューション・センター 1975年

「教義と聖約歴史小品集 教義と聖約を彩る歴史と人物」教義と聖約 / インスティテュート個人学習コース、教会教育部、セミナリー・インスティテュート管理部 (発行年度記入されず 1970年代か1980年代と推測される)

現在の教会教育部の資料に上とほぼ同じ内容が出ていた。
インスティテュート生徒用資料「教義と聖約」(宗教コース324-335) 教会教育部編、1986, 1994第7刷、末日聖徒イエス・キリスト教会発行 東京 (これは普通の会員が皆持っているわけではない。)

英文資料
B.H.Roberts, "A Comprehensive History of The Church of Jesus Christ of Latter-day Saints," Vol. II, Brigham Young University Press, 1965

Richard Lyman Bushman, "Joseph Smith: Rough Stone Rolling, A Cultural biography of Mormonism's founder," Vintage Books, 2007 (copyright 2005)





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