惑星ダルの日常(goo版)

(森下一仁の近況です。タイトルをはじめ、ほとんどの写真は交差法で立体視できます)

作品の強さ

2011-04-03 21:13:45 | SF
 今日の毎日新聞「毎日歌壇」に岩手の女子高生の短歌が載っていました。前半が――
腹ペコで寒さにふるえていることを祈る
 ある意味、怖い「祈り」です。
 そして、後半は――
とにかく生きていてくれ
 つまり、全体としては――
腹ペコで寒さにふるえていることを祈る とにかく生きていてくれ
 3.11、東北に居た人にしか詠めない歌でしょう。

 この歌を採用しているのは歌人の米川千嘉子さん。以前から、この女子高生に注目しておられて、震災前には若々しい愛の歌を何首か採用しています。1月23日には次のような作品が――

吾が胸にそっと置かれし君の手を勇気を出してぐいと引き寄す
 その後の作品も若い女性らしい愛を歌うものでした。今回「生きていてくれ」と祈る相手は彼女とどのような関係の人なのか。真相はわからないながら、激しいドラマが進行していることを感じずにはいられません。

 生々しい現実に接すると、文芸作品の空しさを感じてしまったりします。しかし、このような作品を見るとどうか。

 1週間前、やはり毎日新聞の文芸欄に仙台在住の歌人・大口玲子さんがエッセイを書いていました。
 メディアが流し続けるニュースに接していると「言葉の遠近感」が壊れる、という趣旨の文章。
 「今私が語っているのは、私自身の言葉ではなく、ニュースの言葉ではないのか。私が昨夜聞いたのは、夫ではなく死者の声ではなかったのか」と。
 そして、次のように続けておられます――

この、ぐらぐらの遠近感を意識したとき、短歌という定型を欲していた。
 短歌と散文、立場は違いますが、私にもわかる気がします。
 作品にするという手続きを経た言葉がもつ強さと永続性を信じてゆきたいものです。そのためには、現実に引きずられっぱなしにならない、各個人でしか発揮できない想像力が必要だと思います。