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正岡子規の生涯」と家系図

2010-11-21 22:23:06 | Weblog

子規のお母さんのお墓

岡子規(1867-1902)生涯、作品と朗読

正岡子規(1867-1902)の年号暗記述
………いやろくな(1867)病気じゃないものさ。
人食う鬼(1902)の結核に、打ちのめされた正岡子規。
(……誰が、暗記するんだ?)
正岡子規(1867-1902)の生涯
………正岡子規は、伊予の国にうまれた。現在の愛媛県松山市花園町である。そこの松山藩士、正岡常尚と、儒学者であった大原観山の娘である八重のあいだに生まれた長男で、幼名は処之助(ところのすけ)、後に升(のぼる)、さらに常規(つねのり)と改めたが、その一方で百を越える雅号(がごう・ようするにペンネームくらいのところで)を使用していた。子規(しき)もその一つである。
1872年、父が幼いうちに亡くなってしまったで、後見人を建てて家を相続、一方で大原観山の私塾で漢学などを勉強しつつ、地元の学校へ通っていた。
当時盛んだった自由民権運動にも関心を示しつつ、1880年には現在の松山東高等学校(夏目漱石が教鞭をふるって、坊ちゃんの下敷きになったという)に通い、1883年に東京へ上京。旧藩主家の給費生として、学業を続け、1890年には、東京帝国大学哲学科に進学。
ただし文学への関心高まり、翌年には国文科に転科している。「坂の上の雲」でもお馴染みの秋山真之(あきやまさねゆき)とは同じ故郷どうし、東京でも付き合いを続けた。一方、夏目漱石とも知り合っている。


……しかし、結核を患って下血し、それが元で「血を吐くまで鳴き続ける」鳥である、「ほととぎす(子規)」の名称を雅号としていだくようになったとされる。
思いあって大学は中退し、1892年から新聞「日本」の記者として活躍。母と、お世話になりっぱなしの?妹である律子を東京へ呼び寄せた。
1895年に、日清戦争の従軍記者として遼東半島に渡るが、すぐに下関条約が調印。帰路に下血して、療養のため松山に帰郷。ちょうど教師として赴任していた夏目漱石宅に転がり込んで、階下で俳句ライブを繰り広げ、漱石を困らせたという。
その後、漱石からお金を巻き上げて(じゃなくお借りして)東京へ戻る途中、有名な、
「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」
の歌を、漱石に送ってやった。これは漱石が作った句の、パラフレーズになっているから、友情の証でもあった。
ところが、その上京の途中に、腰の痛みで歩行困難になってしまい。これは実は結核菌が脊髄を冒して、地獄の苦しみを味あわせるという、(ようするに脊髄が腐っちまう)脊椎(せきつい)カリエスであることが発覚。しだいに床がちになり、1899年頃からはほとんど寝たきりになってしまった。


……しかし、文学活動は、俳句を中心に、1897年に「ほとゝぎす」を創刊し、自宅に知人を集めて、活動を継続。与謝蕪村の名声を高め、それまでの俳句を月並(つきなみ)として批判、卓上で嘘の言葉さこね回さない写生(しゃせい)の精神を導入するなど、その革新に努めた。
俳句の弟子でもある、高浜虚子、河東碧梧桐は、後に新しい俳句界をリードしながら、やがて決別し、壮絶なバトル(?)を演じることにもなったのである。
一方短歌においても、1899年に『歌よみに与ふる書』を発表し、古今集とそれ以降の和歌を否定し、万 葉集の精神への回帰を呼びかけた。また橘曙覧(たちばなのあけみ)などの江戸時代の埋もれかけていた歌人を紹介するなど、和歌の領域でも未来への活躍が期 待できそうなところだったが、残念ながら、人誰しも病には勝てず、1902年に亡くなった。
何か頼りをくれと手紙を書いた、イギリスはロンドンにいる夏目漱石は、死に際に立ち会うことが出来ず、また当人もノイローゼで悩んでいる最中だったので、返事をしてやることも出来なかったという。
歌よみに与ふるの書(言葉の意味)
………明治十八年井出真棹先生を尋ねて和歌を始めたと「筆まかせ」のなかに書いているが、俳句を中心に活躍を見せていたのを、明治三十年頃から集中的に和 歌への傾倒を見せ、明治三十一年の二月からこの「歌よみに与ふる書」を新聞「日本」に発表するなど、和歌の革新に向けた保守派への批判を繰り広げた。しか し実践においては、俳句のようにうまくはいっていない。どうも漢学との相性は俳句へよく、和歌へよろしくないようである。煌めくべき作品も残しているの で、後で紹介してみよう。
人々に答ふ
………「歌よみに」の反響、というか批判に対して、さらに答えたもの。明治三十一年の三月から五月にかけて、新聞「日本」に掲載。
曙覧の歌(あけみのうた)(言葉の意味)
………橘曙覧(たちばなのあけみ)(1812-1868)は、田中大秀(たなかおおひで)から国学や和歌を学び、家督を弟に譲ってしまって自分は遁世的生活をしていた江戸時代の歌人である。「藁屋」(わらのや)と呼ばれる三ツ橋の粗末な家に生活をしていたところ、1865年には越前福井藩主の松平春嶽(まつだいらしゅんがく)が、わざわざ出仕を求めて橘曙覧のところまで出向いてきたのを、すっぽりと断ってしまったことでも知られている。橘曙覧の歌集に「独楽吟(どくらくぎん)」「志濃夫廼舎歌集(しのぶのやかしゅう)」などがある。子規がこれらを絶賛しまくったために、後世に歌人としての名声を高めることとなった。
詳しくはこちらをどうぞ。
橘曙覧 (ウィキペディア)
橘曙覧 (千人万首)

正岡子規に関するリンク

正岡子規 (ウィキペディア)
………ウィキペディアの正岡子規。
正岡子規 (青空文庫)
………青空文庫の正岡子規作品リスト。
正岡子規 (ウラ・アオゾラブンコ)
………ウラ・アオゾラブンコ内の正岡子規。

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