29 日米関係 -128-
ⅹ 大東亜(太平洋)戦争 1941-1945 -36-
■まとめと考察 ⑷ アジア諸国①:東南アジアとインド 8/n ~インドネシア(まとめ表再掲)~
1 「インドネシア」の描き方
※現在のインドネシアは、人口約2億6千万人の「東南アジアの大国」。
■参考資料 <ウィキペディア:「インドネシア」より>
・「インドネシアにおける日本の軍政については、ジャワ島を3つに分ける省制度を廃止したほかは基本的にオランダ時代の統治機構を踏襲した。州長官に日本人を配置し、オランダ時代の王侯領には自治を認め、ジャカルタは特別市として州なみの扱いとした。軍政の実務は日本人の行政官が担い、州以下のレベルには地方行政はインドネシア人が担当した。同時に日本海軍はボルネオの油田を、日本陸軍はスマトラの油田を保有した。そして日本の統治は、オランダ植民地政府により軟禁され、流刑地にあったスカルノを救出して日本に協力させ、この国民的指導者を前面に立て実施された。スカルノは日本に対して懐疑心を抱いていなかったわけではなかったが、開戦前に受けたインドネシア独立に対するオランダの強硬な態度に鑑み、オランダの善意に期待できない以上、日本に賭けて見ようと考えたのであった。
1943年中盤以降、アジア・太平洋地域における戦局悪化の趨勢を受けてジャワ、スマトラ、バリの現地住民の武装化を決定し、募集したインドネシア人青年層に高度の軍事教練を施した。それらの青年層を中心に、ジャワでは司令官以下すべての将兵がインドネシア人からなる郷土防衛義勇軍(ペタ)が発足した。このような日本軍政期に軍事教練を経験した青年層の多数は、後の独立戦争期に結成される正規、非正規の軍事組織で、中心的な役割を果たすことになった。
インパール作戦の失敗によって、ビルマ方面の戦況が悪化すると、日本は1944年9月3日には将来の独立を認容する「小磯声明」を発表、さらに1945年3月に東インドに独立準備調査会を発足させ、スカルノやハッタらに独立後の憲法を審議させた。同年8月7日スカルノを主席とする独立準備委員会が設立され、その第1回会議が18日に開催されるはずであったが、8月15日に日本が降伏したことによって、この軍政当局の主導による独立準備は中止されることとなった。
独立戦争 しかし、1945年8月15日に日本がオランダを含む連合国軍に降伏し、念願の独立が反故になることを恐れたスカルノら民族主義者は同17日、ジャカルタのプガンサアン・ティムール通り56番地で独立を宣言した(独立宣言文の日付は皇紀を用いている)。しかし、これを認めず再植民地化に乗り出したオランダと独立戦争を戦うことを余儀なくされた。インドネシア人の側は、外交交渉を通じて独立を獲得しようとする外交派と、オランダとの武力闘争によって独立を勝ち取ろうとする闘争派との主導権争いにより、かならずしも足並みは揃っていなかったが、戦前の峻烈な搾取を排除し独立を目指す人々の戦意は高かった。
独立宣言後に発足した正規軍だけでなく、各地でインドネシア人の各勢力が独自の非正規の軍事組織を結成し、降伏後に日本軍兵器庫から奪ったり、連合国軍に対する降伏を潔しとしない日本軍人の一部が提供した武器や弾薬で武装化した。これらの銃器の他にも、刀剣、竹槍、棍棒、毒矢などを調達し農村まで撤退してのゲリラ戦や、都市部での治安を悪化させるなど様々な抵抗戦によって反撃した。
また、この独立戦争には、スカルノやハッタら民族独立主義者の理念に共感し、軍籍を離脱した一部の日本人3,000人(軍人と軍属)も加わって最前列に立って戦い、その結果1,000人が命を落とした。
他方で政府は第三国(イギリスやオーストラリア、アメリカ)などに外交使節団を派遣して独立を国際的にアピールし、また、発足したばかりの国際連合にも仲介団の派遣を依頼して、外交的な勝利にむけても尽力した。結果として、1947年8月1日に国際連合安全保障理事会で停戦および平和的手段による紛争解決が提示された。独立戦争は4年間続き、オランダに対する国際的な非難は高まっていった。最終的に、共産化を警戒するアメリカの圧力によって、オランダは独立を認めざるを得なくなった。」
■評価
●インドネシアの全体的な状況を描いている。 → 〇 育鵬社、自由社。
●インドネシアの状況を描いていない。 → △ 東京書籍、帝国書院、教育出版、日本文教、清水書院。
※戦時中の基本的な関係についての知識も、日本国民としては必要。
●インドネシアの状況のうち「負の部分」のみを描き、「日本との協調・協力」については描いていない。 → ✖ 学び舎。
※明らかに偏向している。
~次回、お盆明けに、9/n フィリピン~
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《著者:松永正紀 教育評論家 /h22年度 唐津市・玄海町:小中学校校長会長》
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