「野里町歩紀 ~思いつくままに~」

野里町歩紀 ~摂河泉をゆく~ に次ぐ第二歩です

暗越奈良街道2~「松原宿」から暗峠を越え「砂茶屋」まで「酷道」を歩く~

2018-12-02 00:19:54 | 日記
訪問日:平成30年12月1日(土)
出 発:近鉄電車「吉田駅」
到 着:奈良交通「砂茶屋バス停」

 第2回目は、前回のゴールである「松原宿」から標高455mの「暗峠」を越え「追分本陣」を経て「砂茶屋」まで生駒山東麓を歩く。ほぼ全行程が「国道308号線」であるが、「急坂」「石畳」「狭隘」のため「酷道308号線」とも呼ばれる。前半と後半は、適度に自販機・トイレがあるが、山に入れば「暗峠」にかつての「茶店」である飲食店が2軒あるぐらいだ。コンビニ・商店もない。一応「国道」なので足下はしっかりしているが、山越えなのでハイキング程度の装備で歩こう。途中「足湯」に浸かるので靴下の用意を。


 自宅から最寄り駅までの途中にある公園は「紅葉」が真っ盛りだ。あまりに美しかったので1枚撮っておいた。


 前回のゴールである近鉄けいはんな線「吉田(よした)駅」。大阪メトロ「中央線」が乗り入れているので、大阪メトロ全線のほかJR大阪環状線、阪神なんば線と交わっておりとても便利だ。構内の売店は「ファミリーマート」である。午前9時30分出発。


 大阪方面からであれば改札口を出て左へ。真っ直ぐ進むと駐輪場に行ってしまうので手前を右に曲がり6番出口へ。階段をぐるっと回って「中央大通り(国道308号線)」の南側歩道を右(東)へ進む。前回の逆コースであれば、前方に見える信号で「川中」交差を右折するのだが、今日はひとつ手前「交番」のある角を右に入る。


 道が狭くなった辺りから左に土手が現れる。これは「旧大和川」の支流のひとつであった「吉田川」の堤防跡だ。


 宅地化が進み住宅の中に埋もれているが200mほど堤防跡が残る。私は、小さい頃この辺りで育ったが、そんな由緒あるものだとは知らなかった。堤防の斜面を段ボール紙をつかって、よく「そり遊び」をしたものだ。


 道が狭くなってもそのまま進めば小さな四つ辻に出る。ここは「艮(うしとら)」という集落だ。


 そして四つ辻を真っ直ぐ進めば左に「賽之神(さいのかみ)神社」。お社と御神木だけの小さな神社で、右の枯木も以前の御神木だろう。


 境内の碑文を読むと宝永元(1704)年、「旧大和川」が付け替えられて以降、「艮」の村を守るため、ここに祀られたという。前回「玉造稲荷神社」で3日分のお祈りをしたが、ここでも今日一日の安全を祈願しよう。

 
 自然石を御神体(祭神)とし、行き交う人たちを見守ったいう。「道祖神」と書いて「さいのかみ」とも読む。


 神社を過ぎてすぐ左の脇道に入れば、以前、歩いた道に合流するので「英田北小学校」前を通り「道標」へと向かう。さあ「右 なら いせ道」に従い「松原宿」の中心から東へ進もう。今日のスタートだ。かつては、この通りにも「旅籠」が並んでいたという。


 道が突き当たる手前右に「鉄砲節松原会道場」。この辺りは「河内音頭」の本場だ。「鉄砲光三郎」という有名な「河内音頭」の歌い手がいたが、ここはその一門の道場だろうか。


 鍵型に左・右と折れる。これまでもこのように「カックン。カックン」と曲がる路地がいくつかあったな。


 東に進む。この辺りは「水走(みずはい)」と呼ばれる集落であり、北部の農村地帯を「古水走(ふるみずはい)」、宿場町として栄えたためだろうか、南部のこの辺りを「町水走(まちみずはい)」と呼ぶ。


 「水走橋」で「恩智川(おんちがわ)」を渡る。この川が、最も山手にある「旧大和川」の名残りである。そのため生駒山系から多くの川が流れ込む。


 「水走」は、かつて「水走(みずはや)氏」という豪族が治めていたことから、そう呼ばれるようになったと伝わる。湿地帯の中を多くの川筋(水)が走っていたのだろう。「恩智川」を渡れば「旧枚岡市」だ。「ひらおか」と読む。


 堤防を右に曲がり、すぐにお地蔵さんのある角を左折すれば100mほどで「新町歩道橋」。「大阪外環状線(外環)」と呼ばれる「国道170号線」を渡る。国道に併走して「旧国道170号線」「東高野街道」が走るので、この道は「東高野街道」に比定されているのだろう。


 前回歩いた「大阪市東成区」と「東大阪市」は、「ものづくりの町」として有名だ。多くの「町工場」を目にする。


 山に向かって歩く。このお屋敷を過ぎると・・・


 「宝箱太鼓台小屋」に突き当たる。この辺りは、秋になれば「神輿」の上に赤い布団を重ねた「布団太鼓」と呼ばれる多くの太鼓台が村を練り歩く。ここでも「右・左」へ「カックン。カックン」と曲がろう。


 「太鼓台小屋」の隣には「地蔵尊」と「宝箱自治会館」。


 そのまま200mほど東へ進めば「箱殿(はこどの)」交差で「旧国道170号線」と交わる。そして現在の「国道308号線」である「中央大通り」は、ここから約800mほど北方で生駒山地に突き当たり、有料の「第二阪奈自動車道(阪奈トンネル)」となる。そのため「旧308号線」と呼ばれた「府道」は、ここから「国道308号線」として「復活」するのだ。

 
 「旧」でない「国道308号線」を東に進む。この辺りから徐々に上り坂となる。


 80mほどで「箱殿東」交差。スクランブル交差になっている。南北に交わる道は「東高野街道」。そう、ここは「暗越奈良街道」と「東高野街道」との交差点である。


 北西角には「地蔵尊」と「道標」。


 道は二手に分かれ「国道」は右の道だが、「街道」は左の狭い道である。クネクネ坂の「街道」に進む。


 7~8分で右に「大阪シティ信用金庫枚岡支店豊浦出張所」。ちょっとレトロな建物だ。


 合併する前の「旧枚岡市」が「枚岡町」時代の「町役場」で、昭和14年に建てられたそうだ。


 次の分かれ道を右へ。「豊浦郵便局」の前を抜けていく。


 そして「宝幢寺(ほうどうじ)」というお堂が立つ交差点で「街道」は「国道308号線」と合流する。


 生駒山地の大阪府側は、屏風を立てたようにそびえる。そのため、この辺りから高度を上げる。


 急坂を上れば正面に「近鉄奈良線ガード」。


 ガードをくぐって右に5分程歩けば、河内一の宮である「枚岡神社」があるが、今日は参拝せず真っ直ぐ「国道308号線」を進む。ところがここは一方通行。そうか「国道308号線」は、迂回しなければ大阪府側から奈良県へは車で抜けられないんだ。すでに「酷道」は始まっているんだな。


 急坂の「国道」を進む。


 左に「日蓮宗勧成院」。眼下には大阪平野が一望でき、摂津・河内・和泉は元より、天気の良い日には遠く「淡路島」まで望める。


 「勧成院」を過ぎれば家並みが終わり、右にお休み処「初音」。横の「椋ケ根(くらがね)橋」という橋を渡れば、公園の一角にトイレ(洋式水洗)がある。


 左は「府営枚岡公園」。標高642mの「生駒山」へ向かう「摂河泉ハイキングコース」の入口だ。


 「国道」は真っ直ぐ進む。


 途中、元禄7(1694)年9月9日、松尾芭蕉が奈良から難波へ向かうため、この街道を通った際に詠んだと言われる「菊の香にくらがり登る節句かな」の句碑。


 「法華宗法照寺」というお寺を過ぎる。


 右に「豊浦橋」。「紅葉」が美しい。


 「暗渓(あんけい)」と呼ばれる「豊浦川」の「紅葉」を眺める。まだ見頃だ。


 「国道」に戻りさらに進む。


 コンクリートに丸い滑り止めが付けられた舗装道が続く。


 右に「行場」。かつて訪れた「妙見山」の参道に似ているな。


「真言宗成願寺」と「真言宗観音寺」が並ぶ。


 「額田橋」で「豊浦川」を渡る。正面には何やら鳥居が。


 橋を渡れば左に「不動明王」。


 「道標」に従い真っ直ぐ進む。


 しばらくすると小さなヘアピンカーブとなる。そして、ここが「酷道」の最大勾配と言われる地点だ。下から見ると「前へ進む」というより「上に上る」という感じだな。


上から見てもすごい勾配だ。


 私が子どもの頃、生駒山の大阪府側が「府民の森」として整備され、その際、サイクリングロードが造られた。今は「らくらく登山道」として使われているようだ。「国道」よりも広いサイクリングロードを横切る。


 「ホコ天」状態だ。ただ結構、車やバイクが通り、特に自転車は猛スピードで下ってくるので気をつけよう。


 ほぼ使えない公衆トイレを過ぎると右に「弘法の水」。


 中には多くの石仏や塔が祀られている。一番右奥の石塔は「笠塔婆」と呼ばれ、鎌倉時代中期の弘安7(1284)年に造られたものだという。


 湧き水は、かつて旅人達の喉を潤したのだろうが、今は水質が悪化し飲めないそうだ。


 かなりの坂で、汗はダラダラ、心臓はバコバコ、足はガクガクだ。


 再度、サイクリングロードと合流する。左の狭い道が「国道」だ。標識に従って左へ。


 すぐに集落に出る。「暗峠」をはさんで広がる大阪府側の集落である。この辺りから道は平坦になる。


 右には「棚田」が広がる。


 しばらく歩けば右に「地蔵堂」と「石灯籠」「道標」が見えてくる。


 そして、その先から「石畳」の道になる。そう「国道308号線」は、全国でも珍しい「石畳」の国道なのだ。


 少し進めば大阪府と奈良県の府県境。ここが「暗峠」である。旧家の横に石碑が立つ。


 府県境標識の手前には「道標」。ここから左に入れば「生駒山頂」へと続く。


 府県境を越えれば「奈良県生駒市」。80mほど続く「石畳」のほとんどが大阪府側にある。


 奈良県側に入ったすぐ右には峠茶屋「すえひろ」。時間は午前11時30分。昼食にしよう。


 定休日は水曜日だが12月中旬から2月下旬までは、土・日・祝日のみの営業となる。もちろん店内には、お客さん用のトイレがある。


 野菜カレー(600円)を注文する。


 昼食を終え右へ。「すえひろ」前で「石畳」は終わる。目の前の「信貴生駒スカイライン」をくぐる。


 「生駒山地」の奈良県側は、大阪府側と違い緩やかに高度を下げる。「棚田」も優しい感じがするな。


 右には、山小舎カフェ「友遊由(ゆうゆうゆう)」。手作りパンなど軽食もいただける。


 「友遊由」の向かいには、手作りっぽい「本陣跡」の案内板。かつて「暗峠本陣」というのがあったようだが、今はそれらしい跡は残っていない。


 ここからは「奈良方面」の景色が一望できる。


 道脇にバス停。生駒市営の「たけまる号」というコミュニティバスが走っているようだ。時刻表を見ると1日に4本運行されている。


 右に「棚田」が広がる。


 「西畑の棚田」というらしい。


 しばらく歩くと左に「手打ちうどん風舞」。日曜・祝日のみの営業のようだ。


 「街道」には多くのお地蔵さんや石仏が立てられている。旅人を見守っていたのだろう。


 もう少し歩くと左に何か大きな石が。

 
 よく見ると仏様が彫られている。「西畑阿弥陀三尊磨崖仏」というらしい。鎌倉時代後期に彫られたそうだ。


 さらに下って行くと二手に分かれるが右へ進む。左角に案内標識があるので間違わないだろう。


 そして、さらに下って行くと、右に車両通行止めになった道があるので入ってみよう。


 ぐるっと回れば「藤尾阿弥陀堂」。文永7(1270)年の銘があるそうだ。


 そのまま進めば、すぐに「国道」と合流する。途中、右に「やまびこホール」という集会所。ゲートボール場や屋外トイレ(洋式水洗)がある。


 奈良県側の集落を抜けていく。
 

 「融通念仏宗石仏寺」を右に見ながら進む。


「街道」らしい町並みが続く。


間もなく「西池」という溜池が見えてくるので池の右側を進む。以前、全国の溜池は、ほとんど江戸時代以前に造られたと書いたが、この溜池も古い溜池なのだろうか。


 この道を真っ直ぐ進む。


 すぐに狭くなるので道を間違ったかと思うが、間違っていない。


 さらに進めば「萩原」という町に入る。「萩原町自治会館」を過ぎて150mほど進めば二手に分かれるので右へ。すぐに一方通行(出口)道路になり「生駒市立生駒南小学校」の南側を進む。


 「生駒南小学校」を過ぎれば「小瀬橋」という橋で「竜田川」を渡ろう。橋を渡れば、左に近鉄生駒線「南生駒駅」が見える。「暗峠」を極めるだけならここをゴールとしても良い。ここから「生駒駅」で乗り換えれば「大阪難波駅」まで約40分(440円)。


 私は「奈良の都」を目指すので「竜田川」を渡り右へ。突き当たりを左折して近鉄の踏切を越える。


 「国道」というよりは「住宅街の路地」だな。小さな丘を越えるので、前半は結構な上り坂となる。


 真っ直ぐ進んでいけば「大瀬中学校」の下に出るので、右に曲がり広い道を進んでいく(できれば左側の歩道を歩こう)。


 300mほどで「矢田山遊びの森」の案内板が見えるので左へ。


 坂を上っていくと複雑な四つ角に出るが、突き当たりに「歓喜乃湯(足湯)」。生駒市の福祉施設の一角にあり、午前10時から午後6時まで年中無休で誰でも無料で利用できる。


 「東屋」が組まれており、生駒の山並みを眺めながら15人ほどが足湯を楽しめる。泉質は「単純温泉」。隣接してトイレや温泉自動販売機がある。


 「峠越え」の疲れを癒やすため足湯につかる「野里町歩紀」。


 さあ、靴下を履き替えて出発だ。「歓喜乃湯」の向かって左側の道に進む。「生駒山地」は、直接「奈良盆地」につながるのではなく、その間に標高2~300mの「矢田丘陵」が横たわり「街道」はその北端をかすめるため結構な上り坂となる。


 すぐに配水タンクを過ぎれば急に道が狭くなる。


 これは「国道」というより「山道」だな。しかし、国が管理する以上「国道」であり、国は重要だからこそ管理する。別に車が通れる通れないは関係ない。それだけ、この「道」は重要だということだ。


 山越えなので上り坂が続く。


 しかし、10分も上らないうちに「榁ノ木(むろのき)峠」に。左には「地蔵菩薩立像」。


 通り過ぎると法面に沿って上る道がある。お地蔵さん目線で「峠」を眺める。


 峠を越え下って行けばすぐに右に「弘法大師堂」への石標。


奥には「真言宗賢聖院」。


 「御大師様」にお参りする。


 「国道」に戻り右へ。結構、急な下り坂だ。


 何だか犬の鳴き声がすると思えば、こんなものが。


 すぐに「矢田山遊びの森」への分岐点に出るので左へ。草むらの中に「道標」が立つ。


上り下りを何回か繰り返す。


 しばらく歩けば左に小さな鳥居が。「追分神社」だ。


 祠と石灯籠だけの小さな神社であるが「追分集落」の入口に立つ。ここ「追分」には「本陣」がある。「本陣」とは大名など地位の高い者だけのために設けられた宿所であり、一般の旅人は泊まれない。


 おそらく付近には旅人達のための宿もあったのだろう。街道沿いの宿場町のような雰囲気が残る。


 そして200mほどの集落を抜けると右に立派なお屋敷が。


 これが「追分本陣」とも呼ばれる「村井家住宅」である。


 江戸時代中期の建造で、母屋や長屋門などが奈良市指定文化財に指定されているが、個人宅のため一般公開はされていない。


 屋敷の前には「道標」。これも文化財に指定されている。


 真っ直ぐ進んでいけば、再度、水道施設の前で二手に分かれる。すぐ先で合流するのだが「国道」は左の狭い道である。


 すぐに「第二阪奈自動車道」を渡る。ということは、工事で「街道」は分断されたんだな。


 右から、先ほど分かれた道が合流してくる。


 そのまま進むと「中町」という集落に入る。


 集落を過ぎると電柱に隠れているが「常夜灯」と「道標」が立つ。村の出入口なのだろう。


 そして、田んぼを抜ければ「下鳥見橋」で「富雄川」を渡る。


 橋を渡れば、小さな四つ辻に。向かって左には「石灯籠」と「地蔵尊」。右の電柱脇には小さな「石標」が埋もれている。


 地蔵尊は「間男地蔵尊」というらしい。「間男」とは「人妻と不倫している男」あるいは「人妻の不倫相手」のこと?色々といわれがあるのだろう。


 そういえば「男前」のお地蔵さんだな。


 そして電柱脇の「石標」は「富雄村道路元標」らしい。向かいには交番もあり、旧富雄村の中心部だったんだろう。


 「間男地蔵尊」の前には「奈良公園まで8km」の案内表示。表示に従い東へ。


 しかし、すぐ目の前に本日のゴール「砂茶屋」交差が見えてくる。名前からすると旅人相手の「茶屋」や「宿」が並んでいたのだろうか。


 交差点角に「砂茶屋バス停」。午後2時10分着。本日の歩紀「22585歩」(15.35km)。 ここから近鉄奈良線「富雄駅」まで奈良交通バスで約15分(270円)。「富雄駅」から「大阪難波駅」までは約35分(440円)。この時間帯、バスは1時間に1本。交差点の角に「オークワ」という大きなスーパーがあるのでトイレ休憩をしながら時間待ちもできる。なお、料金は先払いなので小銭を準備しておこう。
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