感じるままに

ポーランド ボレスワヴィエツ、クラクフ各都市と産品の紹介。欧州現地事情やニュース、隠れたスポットの紹介。

ポーランド ボレスワヴィエツとナポレオン(4)

2010年01月03日 14時30分02秒 | 旅行
私のブログ「ポーランド ボレスワヴィエツとナポレオン(2)」でご紹介したナポレオンのボレスワヴィエツ要塞構想ですが最後は悲しい結末だったようです。
1813年7月19日ナポレオンはドレスデンから従兄のマーシャルに手紙を書きました。
ボレスワヴィエツの要塞建設のために力を貸してほしいとの内容でした。 マーシャルは7月21日にナポレオンを助けることを決め、24時間体制で働ける程の資材や携わる人々を送り出しました。ロシア、プロイセン、オーストリア軍と戦うためにはボレスワヴィエツの拠点が必要と戦略上考えたようです。
7月、8月と突貫工事を急ピッチで進めました。
8月にはナポレオンは従兄のマーシャルと何度も手紙のやり取りを行っています。
8月半ばには1万5千人の兵士も補強してくれるよう依頼の手紙も書きました。
オーストリア軍が近くまで来ているので防護が必要だったのが理由のようです。
その数日後最大の敵ロシア軍が先に到着しました。 戦うために要塞を建設していましたが建設半ばでの戦いは不利と判断したナポレオンは焦土作戦を展開します。
ナポレオン軍は全ての建設物や家屋に火を付けてボレスワヴィエツの街を焼き、ボレスワヴィエツから撤退しました。
戦争とはいえ大変悲惨な事件でした。
その中で生き続けたボレスワヴィエツ陶器、自らコーヒーを飲む時に当時の事を想像しています。

このボレスワヴィエツとナポレオンの関係がフィルム仕立てになっていて、
ページ中央の動画をクリックすれは原語ですがフィルムが始まります。サウンドをONにすると臨場感がありますので是非ご覧下さい。
動画下の若者Maciej Bartkiewicz氏が編集者です。

ナポレオンとボレスワヴィエツのフィルム

この街で育った陶器、今は街の中心に収まっています。

↑ボレスワヴィエツ製陶社(Z/C Boleslawiec)のディスプレイ

↓この街で作られた陶器はここにやって来ています
ボレスワヴィエツ陶器 ボレスワビエツ、ポーリッシュポタリーの入り口

携帯からはこちらへ

↓ボレスワヴィエツ陶器博物館


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