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パトリス・ルコント『髪結いの亭主』

2007-09-03 22:12:38 | 映画

髪結いの亭主 LE MARI DE LA COIFFEUSE
 (フランス・1990・80min)

 監督:パトリス・ルコント
 製作:ティエリー・ド・ガネ
 脚本:クロード・クロッツ、パトリス・ルコント
 撮影:エドゥアルド・セラ
 美術:イヴァン・モシオン
 編集:ジョエル・アッシュ
 音楽:マイケル・ナイマン

 出演:ジャン・ロシュフォール、アンナ・ガリエナ
     ロラン・ベルタン、フィリップ・クレヴノ他


 男は過去の甘美な夢に生きつづけ、女は過去を封印し、ただ現在にのみ生きる。

 男は少年時代からの夢(あるいは妄想と呼ぶほうが正確か)を具現化するための最高の女を手に入れる。愛される対象であることだけを望んだ女は男の愛を受け入れる。少年時代の夢のままに時間が静止したような空間はいつも柔らかな光に包まれ、心地よい香りに満たされている。そこで他者との、あるいは外の世界との関わりを極力断ちながら、男はひたすら心地よい空間に閉じこもろうとする。

 互いの愛情のヴェクトルの相違に女はおそらく気づき、一方、男はそれに気づくには大人になりきっていない。そして女の意識の中にかつての上司や常連客たちの会話を通じて、老いや死によって確実に終わりがもたらされる未来の時間が埋め込まれる。客の背中をめぐる女と男の見解の相違がそのまま二人の時間意識の相違を浮き彫りにする。男によって死のイメージすらも少年期の甘美な記憶に結びつけられるものでしかない。男は静止した時間の中に生き、女は終わりのある時間の中に生きる。

 男の意識の中ではつねに愛の対象ではなく、夢の具現化の手段として存在した女の最後の決断、この映画のなかで唯一、激しい暴風雨のなかでなされた決断は、しかし男が望んだもの、つまり永遠の時間をもたらすものでもある。

 そして映画の終わり近く、はじめて外の世界に積極的に関わり、男の時間が動き出したかと思われたその瞬間に男は自らの意志で時間を静止させる。ただし、その空間にはかつてのあふれかえる柔らかな光は存在しない。

 フェリーニへのオマージュとも感じられる小品。




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