DISTANCE / ディスタンス
(日本・2001・132min)
監督・脚本・編集:是枝裕和
プロデューサー:秋枝正幸
撮影:山崎裕
美術:磯見俊裕
録音:森英司
出演:ARATA、伊勢谷友介、寺島進、夏川結衣
浅野忠信、りょう、遠藤憲一 他
あるカルト教団が不特定多数を対象とするテロ事件を引き起こす。実行犯たちは事件後教団の手で殺害された。そして教団自体も追い詰められた教祖の自殺により消滅した。事件から3年目の夏、山深い静かな湖に四人の男女が集まってくる。彼らは実行犯たちの遺族で、毎年命日になると殺害されたあとその灰を撒かれたこの湖に集い、死者たちを追悼していた。
彼らは無論加害者ではないし、むしろ彼ら自身にとっても加害者となった家族は理解不能な他者としてあるのだけれど、社会はかれらを加害者の関係者と見なす。そうした彼らの微妙な立場を映画はさりげなく描いていく。(たとえば、一番年長の男は事件後再婚して名前を変えているようだ。)彼らは湖水に向かって突き出した桟橋でめいめいに思いをめぐらしながら死者たちを追悼する。ところが下山しようとすると、途中まで乗り合わせてきた自動車が盗まれてしまっている。しかも山中のその場所は携帯電話の電波も届かない。そしてこの四人の男女にもう一人、この日この場所を訪れたが、やはり乗ってきたオートバイを盗まれた元信者の青年が加わる。彼は実行犯の一人となるはずだったが、直前に脱走したのだった。日没が迫っていることもあり、彼らは実行犯たちが最後の日々を過ごした湖畔のロッジに一泊することになる。
こうして彼らは一時的に戻るべき「日常」から遮断され、彼らの「日常」の枠組の外部へ去った理解不能な他者であり、しかも社会的には赤の他人とは見なされぬ他者との関係を見つめ直すことになる。それは、距離を時間的に縮減する機械を失い、空間的に無化する道具が無効化されることで、近くて、しかも絶対的な隔たりの向こうにいると思っていた(あるいは思い込もうとした)他者との心的距離を死者たちについての記憶や元信者の青年の証言を通じて見つめ直すということなのだろう。そうして、それはなぜあのような行為に到ったのかという問いに向き合っていくことでもある。その問いは遺族たちにとってあくまでも答えの見つからない謎として了解することで自らを「日常」の側に結びつけていた、そういう類の問いだ。
一方、彼らの前にあらわれた元信者や遺族の回想の中にあらわれる信者たちについても映画はひとつの類型に押し込めることはない。彼らが虚構の世界にのめり込んでいった動機を、たとえば現実への違和感からくる純粋で超越的なものへの憧憬や家族の全面的な否定にまで到る直接的なコミュニケーションによる生の意味の回復、あるいは行き場を失った「さまよえる良心」(宮台真司)の着地点として提示する。
翌朝、彼らは下山すると繫がるようになった携帯電話で「日常」と接触し、やがて列車に乗ってそこへ帰っていく。彼ら以外誰も乗っていないローカル線の車内で彼らは互いにやや距離を置きながら座席に位置を占める。毎年この湖畔に集合するものの、それぞれの背景や加害者となった家族との関係への思いの相違からか、どこか気まずさの残る遺族四人(と元信者)の間の心的距離は、その前夜、焚き火を囲みながら肩を寄せ合っていたときの距離から、物理的距離を縮減し、無効化する手段を回復した途端に元の微妙な距離感に戻っていく。そうして駅前で別れた五人はそれぞれ別々の方向に歩み去っていく。もちろん、それは彼らがそれぞれの日常に戻っていく上で致し方のないことなのかも知れない。
しかし、また元信者の青年だけは他の四人がそれぞれの「日常」と連絡を接触しはじめたとき、ただ一人所在なさげに蕎麦をすすっていた。おそらく彼は携帯電話で接触しなければならない「日常」を持たず、社会の片隅でただ一人身をひそめるように生きているのだろう。帰りの車内で他の三人が疲れから眠りについたとき、元信者の青年はただ一人起きていた寡黙な青年の傍らに歩み寄る。
この花屋で働いているという寡黙な青年は、家族、わけても父とのつながりを激しく希求しながら、理解しがたい父との関係性をどうしても容認できず、現実の父との関係から身を翻して虚構の家族との関係を構築しながら生きてきたのだった。つまり彼自身、父親や父親を教祖として崇拝していた信者たちがそうであったように現実を拒否し、虚構をあたかも現実であるかのように生きてきたのだった。彼の父はそれが現実を否定するための儀式であるかのようにアルバムの家族の写真を一枚一枚焼却して家族のもとを去った。そうして映画の最後、青年は再び現実の中に生きることを決心するかのように、仮構された物語を支えていた舞台装置を燃え上がる炎によって焼却する。それはまた青年にとっての父(現実の父と彼の虚構を支えてきた父と)を弔う儀式でもあるのだろう。
*************************
この映画に遍在する火と水のイメージ。
ただし、それらは作者によって何がしかの象徴性を担わされていると感じる。
おそらくこの映画のテーマや扱うモティーフゆえに、そこに過剰なまでの意味を読み取ろうとしてしまうからなのかも知れない。
たとえば、火は他者との関係性への欲望をあらわすのだろうか?
図らずも同じ場所に一夜を過ごすことになった男女をひとつところに身を寄せさせる焚き火の炎。あるいは焚き火の火が消えたとき、擬似的な家族のように感じていた教団から逃走する元信者の青年。桟橋を焼き尽くすであろう、燃えさかる炎の激しさは、主人公の父親への思いの強さに比例するのだろう。
では、彼の父親が家族の写真を焼いていた炎は?あるいは水は?
けれども、それゆえにこの火や水のイメージが不意に世界を変容させてしまうような詩的想像力を喚起する力を持つことはない。何か、言語的な意味づけによってそうしたものがスポイルされてしまっていると感じる。
もちろん、そうしたものは他の映画作家に任せればよいことなのだが、そうなればそうなったで、この映画のテーマやモティーフがこうした審美的なまでに美しいイメージを要請していたのだろうか、という思いも残る。
2007.05.15 附記
(日本・2001・132min)
監督・脚本・編集:是枝裕和
プロデューサー:秋枝正幸
撮影:山崎裕
美術:磯見俊裕
録音:森英司
出演:ARATA、伊勢谷友介、寺島進、夏川結衣
浅野忠信、りょう、遠藤憲一 他
あるカルト教団が不特定多数を対象とするテロ事件を引き起こす。実行犯たちは事件後教団の手で殺害された。そして教団自体も追い詰められた教祖の自殺により消滅した。事件から3年目の夏、山深い静かな湖に四人の男女が集まってくる。彼らは実行犯たちの遺族で、毎年命日になると殺害されたあとその灰を撒かれたこの湖に集い、死者たちを追悼していた。
彼らは無論加害者ではないし、むしろ彼ら自身にとっても加害者となった家族は理解不能な他者としてあるのだけれど、社会はかれらを加害者の関係者と見なす。そうした彼らの微妙な立場を映画はさりげなく描いていく。(たとえば、一番年長の男は事件後再婚して名前を変えているようだ。)彼らは湖水に向かって突き出した桟橋でめいめいに思いをめぐらしながら死者たちを追悼する。ところが下山しようとすると、途中まで乗り合わせてきた自動車が盗まれてしまっている。しかも山中のその場所は携帯電話の電波も届かない。そしてこの四人の男女にもう一人、この日この場所を訪れたが、やはり乗ってきたオートバイを盗まれた元信者の青年が加わる。彼は実行犯の一人となるはずだったが、直前に脱走したのだった。日没が迫っていることもあり、彼らは実行犯たちが最後の日々を過ごした湖畔のロッジに一泊することになる。
こうして彼らは一時的に戻るべき「日常」から遮断され、彼らの「日常」の枠組の外部へ去った理解不能な他者であり、しかも社会的には赤の他人とは見なされぬ他者との関係を見つめ直すことになる。それは、距離を時間的に縮減する機械を失い、空間的に無化する道具が無効化されることで、近くて、しかも絶対的な隔たりの向こうにいると思っていた(あるいは思い込もうとした)他者との心的距離を死者たちについての記憶や元信者の青年の証言を通じて見つめ直すということなのだろう。そうして、それはなぜあのような行為に到ったのかという問いに向き合っていくことでもある。その問いは遺族たちにとってあくまでも答えの見つからない謎として了解することで自らを「日常」の側に結びつけていた、そういう類の問いだ。
一方、彼らの前にあらわれた元信者や遺族の回想の中にあらわれる信者たちについても映画はひとつの類型に押し込めることはない。彼らが虚構の世界にのめり込んでいった動機を、たとえば現実への違和感からくる純粋で超越的なものへの憧憬や家族の全面的な否定にまで到る直接的なコミュニケーションによる生の意味の回復、あるいは行き場を失った「さまよえる良心」(宮台真司)の着地点として提示する。
翌朝、彼らは下山すると繫がるようになった携帯電話で「日常」と接触し、やがて列車に乗ってそこへ帰っていく。彼ら以外誰も乗っていないローカル線の車内で彼らは互いにやや距離を置きながら座席に位置を占める。毎年この湖畔に集合するものの、それぞれの背景や加害者となった家族との関係への思いの相違からか、どこか気まずさの残る遺族四人(と元信者)の間の心的距離は、その前夜、焚き火を囲みながら肩を寄せ合っていたときの距離から、物理的距離を縮減し、無効化する手段を回復した途端に元の微妙な距離感に戻っていく。そうして駅前で別れた五人はそれぞれ別々の方向に歩み去っていく。もちろん、それは彼らがそれぞれの日常に戻っていく上で致し方のないことなのかも知れない。
しかし、また元信者の青年だけは他の四人がそれぞれの「日常」と連絡を接触しはじめたとき、ただ一人所在なさげに蕎麦をすすっていた。おそらく彼は携帯電話で接触しなければならない「日常」を持たず、社会の片隅でただ一人身をひそめるように生きているのだろう。帰りの車内で他の三人が疲れから眠りについたとき、元信者の青年はただ一人起きていた寡黙な青年の傍らに歩み寄る。
この花屋で働いているという寡黙な青年は、家族、わけても父とのつながりを激しく希求しながら、理解しがたい父との関係性をどうしても容認できず、現実の父との関係から身を翻して虚構の家族との関係を構築しながら生きてきたのだった。つまり彼自身、父親や父親を教祖として崇拝していた信者たちがそうであったように現実を拒否し、虚構をあたかも現実であるかのように生きてきたのだった。彼の父はそれが現実を否定するための儀式であるかのようにアルバムの家族の写真を一枚一枚焼却して家族のもとを去った。そうして映画の最後、青年は再び現実の中に生きることを決心するかのように、仮構された物語を支えていた舞台装置を燃え上がる炎によって焼却する。それはまた青年にとっての父(現実の父と彼の虚構を支えてきた父と)を弔う儀式でもあるのだろう。
*************************
この映画に遍在する火と水のイメージ。
ただし、それらは作者によって何がしかの象徴性を担わされていると感じる。
おそらくこの映画のテーマや扱うモティーフゆえに、そこに過剰なまでの意味を読み取ろうとしてしまうからなのかも知れない。
たとえば、火は他者との関係性への欲望をあらわすのだろうか?
図らずも同じ場所に一夜を過ごすことになった男女をひとつところに身を寄せさせる焚き火の炎。あるいは焚き火の火が消えたとき、擬似的な家族のように感じていた教団から逃走する元信者の青年。桟橋を焼き尽くすであろう、燃えさかる炎の激しさは、主人公の父親への思いの強さに比例するのだろう。
では、彼の父親が家族の写真を焼いていた炎は?あるいは水は?
けれども、それゆえにこの火や水のイメージが不意に世界を変容させてしまうような詩的想像力を喚起する力を持つことはない。何か、言語的な意味づけによってそうしたものがスポイルされてしまっていると感じる。
もちろん、そうしたものは他の映画作家に任せればよいことなのだが、そうなればそうなったで、この映画のテーマやモティーフがこうした審美的なまでに美しいイメージを要請していたのだろうか、という思いも残る。
2007.05.15 附記
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