2002年8月から2003年4月にかけて、ときおりBK1に書評を投稿していた。いずれも手書きの読書メモをもとに、あまりに個人的な関心事に引き寄せすぎていると感じた箇所を手直しし、また制限字数に合わせて切り詰め、それらしい文言を添えて一応書評らしく仕立て上げようとした。
こうして投稿した書評を、改めてそこで取り上げている本を読み直しては、その投稿前の読書メモの形に復元してこのブログに掲載し、こうしてとして整理してみた。(そして、このブログをはじめた副産物として、またBK1へぼちぼちと書評を投稿しはじめた。)
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西欧近代絵画史を繙くと、廃墟を描いた絵画の系譜を辿ることができる。それらは今まさに崩壊していく建造物を描いたものであったり、静謐な現実の風景の中に描かれた古代遺跡を移し変えたカプリッチォ(綺想画)であったり、ネクロポリスと呼ぶべき無人の都市景観であったりする。私たちはそうした絵画の存在と魅力をかつてユルスナールや澁澤龍彦の秀逸なエセー、そしてここに取り上げる谷川渥の一連の著作を通じて知ったのだっ . . . Read more
ポイエーシスに関わるあらゆる行為は始原の「生産」であり、人間に根源的空間を与えるもの、つまり「建築的なもの」といえるだろう。
設計図や建築家自身の思想よりも、「実際の建築のなかにみずからの身体を置き、そこから出発して」考え、「そこで営まれる生活、住みつきの現象、社会的なものの侵入、身体的な感覚性、詩的なダイナミズムといったさまざまな要素、とりわけ時間のなかでの変容のファクター」に眼差しを向け . . . Read more
小林康夫の『青の美術史』は、冒頭で次のようにその狙いを語っている。
「青」という色をただひとつの手がかりにして、美術の世界を、あるいはもう少し広く人間の文化を、さまよい、散歩してみる。さまざまな青の世界に入ったり、出たりしながら、たぶん究極的には、人間の、そして人間が世界を表象することの不思議さを感じ、考えてみる。
それにしてもなぜ「青」なのか。
自然界に青いものはほとんどない。なる . . . Read more
アウシュヴィッツの残りの者―証人たち―は、死者でもなければ、生き残った者でもなく、沈んでしまった者でもなければ、救いあげられた者でもなく、かれらのあいだにあって残っているものである。
『アウシュヴィッツの残りのもの』は、著者自身の言葉によれば、アウシュヴィッツ収容所で生き残った人々の「証言の終わりのない注釈」として、「アウシュヴィッツの流儀で証明されたエチカ」として構想されているという。
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グリーナウェイの映画『プロスペローの本』の中でとりわけ印象的なのは、プロスペローが「本は一切無用」と宣言した途端、天使たちが宮殿内に巨大な音を響かせながら本を閉じていく場面だった。あの天使が本の上に腰を降ろしているスティルを表紙にあしらった本書の中で、ボルツが提示するのは、活字メディアに代わるハイパーメディアによって形成される新たな知のデザインの設計図だ。
けれども、この新たな知のデザインを . . . Read more
さまざまな趣向を凝らした中沢新一の11の物語やエセー、その軽やかで緩やかな語りのリズムを線に置き換えたような山本容子によるエッチング、これらを瀟洒な装丁に封じ込めた美しい書物。なにより、作曲家のためにハンガリーの民謡を吹き込んだ女性のスピーチの形をとった冒頭のコダーイのエピソードをはじめとして、ここでの中沢新一は類稀な物語の語り手としての手腕を存分に発揮している。
「音楽はそもそも、つつまし . . . Read more
ドレイファスは、脱身体化というキーワードを切り口にインターネットを批判している。冒頭でその四つの論点が提示され、それらが続く四つの章で順を追って吟味され、最後に総括されるという構成になっている。 . . . Read more
人は日々自分らしく生きようと願いながら、与えられた条件の中で幾多の妥協を重ねながら、そうあるべきものと思っているものとは異なる生を生きていく。それは他者との関わりにおいて生きていく以上、致し方のないところでもある。実現可能な選択肢の中から、まったく意に沿わぬものを選ばずに済ませることができれば、十分に自分らしく幸福な生を生きたといえるのではなかろうか。ただし、それすらも稀なことで、望んでいた . . . Read more
ネット掲示板を見ていたり、メーリングリストに参加していると、穏当な意見を押しのけて極端な意見が飛び交ったり、特定の見解が場を圧倒して多数派意見のように錯覚され反対派を沈黙に陥らせたり、ある種の話題が他の何にも増して当面考えるべき問題であるかのように見えてしまったりする光景に遭遇する。本書ではこれらをリスキー・シフト現象、沈黙のらせん現象、メディアの議題設定機能といった社会学でマス・メディアや流言 . . . Read more
ある個人が責任を体制や指導者に押し付けることで無実や情状酌量を主張することには寛容になれないとしながらも、「ある人物を、その人自体でなく、たまたま属している集団を理由に裁くという考え」も退けるレーヴィは、それゆえ、<彼ら>の罪を告発するのではなく、穏やかで内省的な筆致で、アウシュヴィッツにおいて、あるいはアウシュヴィッツの後、被抑圧者(と抑圧者)に何が起こっていたか、何が起こったのかを書き綴る。 . . . Read more
アルジェリアでの少年の時代やフランスでの学生時代の記憶を召喚しながらデリダは、「私は一つしか言語を持っていない。ところが、それは私のものではない」という自身のパラドクシカルな言語的条件をめぐって考察をはじめる。ここで「たった一つの、私のものではない言葉」とデリダによって名指されているのは、フランス語のこと。フランス植民地のアルジェリアのユダヤ人家庭に生まれたデリダは、一方でアラビア語・ベルベル . . . Read more
『地図のない旅』には二つのエッセーが収められていて、表題作はイタリアのユダヤ人たちの悲劇を、「ザッテレの河岸で」は、ヴェネツィアの娼婦たちの末路をそれぞれ主題としている。
何よりも心惹かれたのは流れるような記憶の連鎖のリズム。筆者のペンは、様々な場所や事物をめぐるひとつのひとつの記憶をひとりひとりの人物の記憶と結び合わせ、縒り合わせる。
たとえば1943年のローマでのユダヤ人強制連行に . . . Read more