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今朝の新聞に懐かしい文字が躍っていた・・・昭和時代・・・
全てを転載してみたいと思ったが、それも無理なので一部だけ転載してみます。
~以下、3月31日読売新聞朝刊より抜粋~
21日には、大阪市内で開かれたファッションショーに膝上20センチ以上のワンピースで登場した。すーっと伸びた長い脚に、会場からはため息が漏れた。彼女の来日を機に、日本中に"ミニ旋風"が吹き荒れる。
ミニスカートはイギリスのマリー・クワント、フランスのアンドレ・クレージュの両ファッションデザイナーによって相次いで発表された。かつて仏デザイナーのココ・シャネルは「女性の膝頭は見せるものではない」と主張したが、膝頭丸出しのスタイルは、ファッション史上でも、前代未聞のことだった。
しかし、単に脚が長く見えるだけでなく、これまで味わったことのない自由さや軽快さを体感した女性たちの勢いは止められなかった。
当時東京大学の学生だった資生堂副社長の岩田喜美枝は、持っていた膝下5センチのスカートの裾を10センチ切った。ちまたのスカートの丈がさらに短くなると、膝上10センチまでにした。「周りがミニなので、私もという感じ。とにかくみんなミニだった」
69年11月17日、沖縄返還交渉のため羽田空港を出発する、佐藤栄作首相の脇に立つ寛子夫人の膝頭は丸見えだった。膝上5センチのコート。ミニは、年齢を超えて広がっていった。
もともとアメリカでは労働着として作られたものだが、ベトナム反戦運動に参加した若者たちが、共通の"記号"としてジーンズとTシャツを着始めた。この服装は日本ではヒッピーファッションとして広がっていった。性別も年齢も階級も問わない自由な雰囲気が若者の間で支持され、国内生産も急増した。
その浸透に拍車をかけたのが、60年代後半、全国で吹き荒れた学園闘争だ。<中学生や高校生は各地で服装の自由化を要求し、大学生もまた学生服とブレザーを脱いで、ジーンズをはくようになった>(朝日ジャーナル編『女の戦後史2』)。
他方、米国東部のアイビーリーグの学生の服装が基になったアイビールックは、若い男性の間で爆発的な人気となった。きっかけを作ったのは、石津謙介が創業したヴァンジャケットだった。
アイビーリーグの学生の生活を撮影した写真集「TAKE IVY」の製作に携わった石津の長男で、服飾評論家の石津祥介は、「それまで若い男子にとって学生服以外の服の選択肢はなかった。学生服の下に着るものは、母親が編んだベストやセーターぐらいだった」と話す。
ブレザーに細身のコットンパンツ、トレーナーに革のローファー。セーターやカーディガンの色もカラフル。若者たちは、VANの提案するスタイルを教科書におしゃれに目覚めた。66年、VANの特約店は全国で228に上った。
そのアイビールックの提案者の石津謙介氏の紹介も・・・
「VAN」ブランドで、アメリカ東海岸の名門大学に通う男子大学生の普段の服装をモデルにした「アイビールック」を提案した。ボタンダウンシャツに細身のズボンなどで身を包んだこのスタイルで東京・銀座に集まる若者たちは「みゆき族」と呼ばれて、社会現象となるほどだった。
また「TPO」、「トレーナー」などの造語を生み出し東京五輪では日本選手団のユニフォームも手掛けた。
「ファッションは服飾のみならず、ライフスタイル全体にかかわるもの」という持論のもと、イタリア家具を扱う会社や生活雑貨を扱う会社なども設立。だが、販売網の急激な拡大が裏目に出て、78年、倒産した。
その後、ファッションプロデューサーとして活躍。2005(平成17年)年に93歳で亡くなった。
私もその時代を生きてきた一人なのだ・・・が・・・当時勤めていた会社が倒産し、小売店に勤め初めて知った事・・・それは、
"VAN"がアイビーでアメリカンカジュアルであったのに対し、"JUN"はどちらかというとヨーロピアンカジュアル・・・
私は・・・誰もかれもアイビー・・・に嫌気がさし・・・徐々に"JUN"に傾倒していった記憶があります・・・
それくらいアイビールックというのは凄かった・・・
話は予断になりますが・・・その後、一時、女性カジュアルの小売店をやったことがあるのですが・・・
その時、私は25歳・・・私の店に夜9時頃になると来店する明治生まれのオカマチャンがいました・・・
そのオカマチャンが・・・私にプレゼントといってネクタイをくれたことがありました・・・が
それも、ワンポイントの完全なるアイビー調のネクタイ・・・
私の好みに合わなかった・・・結局、アイビーがんがんの友人にあげた事がありました・・・
振り返ってみれば・・・あれもこれも懐かしい想い出になってしまいました・・・
全てを転載してみたいと思ったが、それも無理なので一部だけ転載してみます。
~以下、3月31日読売新聞朝刊より抜粋~
昭和時代 戦後転換期(1965年~79年)
67(昭和42年)年10月18日、羽田空港に1人の英国人女性が降り立った。"ミニの女王"とも呼ばれたファッションモデルのツイギー。身長168センチ、体重41キロのきゃしゃな体つきのツイギーは、期待に反してひざ下丈のキュロットスカート姿だった。21日には、大阪市内で開かれたファッションショーに膝上20センチ以上のワンピースで登場した。すーっと伸びた長い脚に、会場からはため息が漏れた。彼女の来日を機に、日本中に"ミニ旋風"が吹き荒れる。
ミニスカートはイギリスのマリー・クワント、フランスのアンドレ・クレージュの両ファッションデザイナーによって相次いで発表された。かつて仏デザイナーのココ・シャネルは「女性の膝頭は見せるものではない」と主張したが、膝頭丸出しのスタイルは、ファッション史上でも、前代未聞のことだった。
膝頭見せた女性たち
日本でも若い女性が熱狂する一方で、男性の視点から性と結び付けられることも少なくなかった。警察が<女性の敵に"特捜班" ミニスカート対策も>(読売新聞)、<ついに襲われたミニスカート――性犯罪を招く太ももの微妙な動き>(週刊サンケイ)・・・・。しもやけや不妊の原因になるなどと、マイナス面を強調する雑誌記事も登場した。しかし、単に脚が長く見えるだけでなく、これまで味わったことのない自由さや軽快さを体感した女性たちの勢いは止められなかった。
当時東京大学の学生だった資生堂副社長の岩田喜美枝は、持っていた膝下5センチのスカートの裾を10センチ切った。ちまたのスカートの丈がさらに短くなると、膝上10センチまでにした。「周りがミニなので、私もという感じ。とにかくみんなミニだった」
69年11月17日、沖縄返還交渉のため羽田空港を出発する、佐藤栄作首相の脇に立つ寛子夫人の膝頭は丸見えだった。膝上5センチのコート。ミニは、年齢を超えて広がっていった。
ジーンズとVAN
ミニスカートとともに、ジーンズの普及も若者が立役者になった。もともとアメリカでは労働着として作られたものだが、ベトナム反戦運動に参加した若者たちが、共通の"記号"としてジーンズとTシャツを着始めた。この服装は日本ではヒッピーファッションとして広がっていった。性別も年齢も階級も問わない自由な雰囲気が若者の間で支持され、国内生産も急増した。
その浸透に拍車をかけたのが、60年代後半、全国で吹き荒れた学園闘争だ。<中学生や高校生は各地で服装の自由化を要求し、大学生もまた学生服とブレザーを脱いで、ジーンズをはくようになった>(朝日ジャーナル編『女の戦後史2』)。
他方、米国東部のアイビーリーグの学生の服装が基になったアイビールックは、若い男性の間で爆発的な人気となった。きっかけを作ったのは、石津謙介が創業したヴァンジャケットだった。
アイビーリーグの学生の生活を撮影した写真集「TAKE IVY」の製作に携わった石津の長男で、服飾評論家の石津祥介は、「それまで若い男子にとって学生服以外の服の選択肢はなかった。学生服の下に着るものは、母親が編んだベストやセーターぐらいだった」と話す。
ブレザーに細身のコットンパンツ、トレーナーに革のローファー。セーターやカーディガンの色もカラフル。若者たちは、VANの提案するスタイルを教科書におしゃれに目覚めた。66年、VANの特約店は全国で228に上った。
そのアイビールックの提案者の石津謙介氏の紹介も・・・
石津謙介 アイビールック提案
1911(明治44)年、岡山市に生まれた。明治大学商科専門部を卒業後、家業の老舗紙問屋を継いだが、日中戦争の影響で開店休業状態に。このため、39(昭和14)年に中国・天津に渡り、洋品店で服飾のビジネスを経験。終戦後、帰国して服飾メーカーのレナウンの社員を経て、51年、ヴァンジャケットを創業した。「VAN」ブランドで、アメリカ東海岸の名門大学に通う男子大学生の普段の服装をモデルにした「アイビールック」を提案した。ボタンダウンシャツに細身のズボンなどで身を包んだこのスタイルで東京・銀座に集まる若者たちは「みゆき族」と呼ばれて、社会現象となるほどだった。
また「TPO」、「トレーナー」などの造語を生み出し東京五輪では日本選手団のユニフォームも手掛けた。
「ファッションは服飾のみならず、ライフスタイル全体にかかわるもの」という持論のもと、イタリア家具を扱う会社や生活雑貨を扱う会社なども設立。だが、販売網の急激な拡大が裏目に出て、78年、倒産した。
その後、ファッションプロデューサーとして活躍。2005(平成17年)年に93歳で亡くなった。
私もその時代を生きてきた一人なのだ・・・が・・・当時勤めていた会社が倒産し、小売店に勤め初めて知った事・・・それは、
"VAN"がアイビーでアメリカンカジュアルであったのに対し、"JUN"はどちらかというとヨーロピアンカジュアル・・・
私は・・・誰もかれもアイビー・・・に嫌気がさし・・・徐々に"JUN"に傾倒していった記憶があります・・・
それくらいアイビールックというのは凄かった・・・
話は予断になりますが・・・その後、一時、女性カジュアルの小売店をやったことがあるのですが・・・
その時、私は25歳・・・私の店に夜9時頃になると来店する明治生まれのオカマチャンがいました・・・
そのオカマチャンが・・・私にプレゼントといってネクタイをくれたことがありました・・・が
それも、ワンポイントの完全なるアイビー調のネクタイ・・・
私の好みに合わなかった・・・結局、アイビーがんがんの友人にあげた事がありました・・・
振り返ってみれば・・・あれもこれも懐かしい想い出になってしまいました・・・