表現者たらんとして

2005年11月16日 | Weblog
たいした才能もなかったので、その道に進むことは諦めたが、演劇の世界に首を突っ込んでいた時期がある。新劇はかったるくて、小劇場の世界だ。今もメッカの、下北沢の劇場街を徘徊し、頭が痛くなるような演劇論を肴に酒を飲んだ。二日酔いの酒を抜く為に、ハードな肉体訓練をし、発声練習をしすぎて喉を潰した。小劇場のカリスマは唐十郎と寺山修二。つかこうへいが続き、天才野田秀樹が現れ、鴻上尚史、平田オリザも活躍した。みんな眩しい憧れだった。どうしたわけか、自分に女形の役がまわったことがある。手本を探さなければならない。女装が趣味なわけでもなし、さてどうしたものか。美輪明宏の写真を食い入るようにながめながらドーランを塗り、四谷シモンの所作を真似した日々が懐かしい。
演劇の世界の人間は、その存在自体がきかん気で、特に小劇場第一世代と言われた人達は自由な表現を求め、路上で公演を決行したり、逮捕、道交法違反、器物損壊なんのその、パワフルだった。表現形態として、ストレートではなくても政治的メッセージの強い作品を発表する演出家、俳優もいた。後に野田秀樹氏の主催する夢の遊民社が大手生命保険会社の協賛で公演するようになると、演劇人はついに資本に魂を売ったのか、という古臭い声も聞こえた。
私自身は演劇の世界から足を洗ってもう何年にもなる。現在でも、どこかの空の下で、詩を歌い、舞台を飛び跳ね、表現者たらんとしている若者がたくさんいるだろう。いいじゃないか、失敗しても。いいじゃないか、その言葉が好きな女に届かなくても。いいじゃないか、社会にたまに呪詛をはいても。唄も芝居も映画も絵もきっと人間を豊かにしてくれる。この閉塞感の強い時代でも。
「ラブレター」という一対の男女の朗読劇がある。先日ひょんなことから、男性役として借り出された。ん年ぶりに人前で声を演じた。終了後、泣いている人がいた。まだまだ自分も捨てたもんじゃないな、とチョトうぬぼれた、いい気分のままこの文章を終える。